2. 許されないこと
修道院の角にある騎士団長室には、開放的な大きな窓があった。
そこから敷地を囲う背の高い木々が見え、奥にのどかな農村の景色が広がっていた。
幾つかの棚が整然と並んでいて、事務机があって、騎士団の旗が飾られていて、ミーティング用の机と椅子も並んでいた……ようだった。
僕とノエルさんが見たのは、ガラスの飛び散った窓枠に寄りかかる騎士団長。酷い怪我だ。服は焼け焦げ、袖が千切れて取れているし、切り傷や火傷も見える。頭を殴られたのか、左半分が血だらけだ。
けど、まだ息がある。
できるだけ早く回復魔法か救急車をと、そんなのは分かっていても、直ぐには出来ない。
真ん前に、雷斗がいる。
白い修道服を血で汚し、日本刀を握り佇む彼は、僕の知っている雷斗じゃなかった。
僕はこんな黒い気配を漂わせ、口角を上げて目を光らせるような恐ろしい顔を、見たことがない。
それはきっとノエルさんも一緒で、だからこそ動揺を隠せずにいる。
息が上がっているのは走ってきたからってだけじゃなくて、目の前の光景を受け入れたくないと脳が拒絶しているからだ。
「来やがったな……」
ケケケッと肩を震わせて雷斗が嗤う。
あの、澄んだ瑠璃色がどこにも見えない。
目が泳いだ。
雷斗の顔に、血飛沫がかかっていた。
部屋全体が妙に生臭い。血の臭いなのか、それとも、床や壁に張り付いた黒いスライム達が原因なのか。
吐き気がして、僕は両手で口を押さえた。
身体の中から何かがこみ上げてこようとしている。決して、良くないもの。それをグッと呑み込んで、僕はどうにか前を見る。
「何かに取り憑かれてる。今のライトはライトじゃない」
僕の一歩後ろで、ノエルさんが声を震わせていた。
ノエルさんの銀鼠色はすっかりくすんで、寒色系のいろんな色がぐにゃぐにゃと複雑に混じっている。混濁している。当然。僕もそうだ。
もし仮に、僕の心の色が誰かに見えたのなら、きっと怒りと不安と恐怖と憎悪と後悔と悲しみと……、錆び付いたような、泥まみれになってしまったような色が沢山混じっているに違いない。
けれどあいにく、僕に僕自身の色は見えないし、僕と同じように心の色が見えたりしない。
だから虚勢を張る。
まだ耐えられると虚勢を張って、吐き出しそうな何かを我慢して両手を口から離した。
雷斗の目から僅かに視線をそらし、必死に歯を食いしばる。
「何かって、魔物か何か」
「恐らく。けど、そんな魔物、聞いたことが」
礼拝堂からここまでの道を照らしていた魔法は、いつの間にか途切れていた。
薄暗い団長室に散らばっていた黒いスライム達が、少しずつ寄せ集まり、二つが一つに、三つが一つに、徐々にくっつき始めているのが目に入る。巨大な目玉になる前に、どうにかそっちも消し飛ばさなきゃならないのに、状況がそれを許さない。
雷斗は恐ろしいまでの殺気を放って、口角を上げていた。
「あぁ……、最初からこうしておけば良かった。神教騎士団に入って、正々堂々“神の子”を討とうだなんて、時間の無駄でしかなかったんだ。そうだよ。オレが騒ぎを起こせば、必ず“神の子”は現れる。知っていたクセに、誰かの力を借りなきゃ為し得ないかも知れないだなんて、うっかり考えたのがそもそもの間違いだった。古代神教会なんて、結局頭が硬いだけの融通の利かない団体だったし、何の面白みもない、くだらない戒律とくだらない信仰に身を委ねるだけの生活なんてまっぴらごめんだった。――我慢したんだ。自分の手で“神の子”をぶっ殺したくて、ずっと機会を狙ってた。でも、限界だった。待てない。派手にやったら来るかも知れないと期待した。その期待通りにお前は来た。――最高に、良い気分だ。今までで、一番、良い気分だ」
目が、赤く光っている。
白目が黒く染まっていて、それがもしかしたら、何かに取り憑かれた証。
ノエルさんが、僕の前に進み出て、サッと両手を広げた。
「ライト、落ち着け。今まで蓄積された鬱憤が爆発したのだとしても、これは許されることじゃない」
けれど雷斗には、全然響いていない。
それどころか、またケタケタと笑い出す。
「許すとか許されるとか、そんなのどうだって良いんだよ。“神の子”さえいなくなれば、それで」
壊された壁、吹っ飛ばされ空が見えている天井、燻る炎と、べちゃべちゃに広がる黒いスライム達。
鼻を突く焦げた臭い、生臭いもやの臭い、血の臭い。
きっと今雷斗の目を見たら、僕はこの惨劇を追体験してしまう。
目は見るな。視線をそらせ。
情報を遮断し、逃げてしまわなければ、多分僕は、また。
「本気で言ってるのか」
ノエルさんの訴えに動じず、雷斗は更に言葉を続ける。
「“神の子”は死ぬべきだ。その存在が既に罪なんだから。オレがどれだけ苦しんで、どれだけ痛めつけられてきたのか、お前にはきっと分からない。オレの人生は、お前のせいで狂いまくった。平穏な家庭なんて、居場所なんてどこにもなかった。ただ苦しいだけ。――お前の顔を見て、オレはどう感じたと思う? 『これが、オレを苦しめた人間の顔か』『こいつが苦しむはずだったのに、それをオレが全部引き受けていた』長年の恨みがどんどん膨れた。親父にどやされることも、理解されないこともある程度諦めていたけど、一番苦しかったのはなぁ、お前が! 何も知らずに平和に暮らしていたお前が! 本気で命を狙われたり、存在を否定されたりすることもなく! 事情を全部知って受け止めてくれるような人間の元で! のうのうと生きていたことだ!」
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
ゲートに飛び込んだ雷斗は、あの黒い湖の中を朦朧としながら泳いでいた。
解放されたいという、強い気持ちだけを頼りに、雷斗はどんどん湖の奥底へと進んでいった。
身体に、大量の黒い水を取り込みながら。
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「だ、だけどそれは、どうしようもないことで」
「どうしようもないわけないだろ!」
雷斗は直ぐに、僕の言葉を否定した。
「どうしようもないから、許して欲しい? どうしようもないから、なかったことにして欲しい? 知るか! お前にとってはその程度のことでも、オレにとっては最低最悪の、絶対に許せないことなんだよ。破壊竜の血だとか半分竜だとか、お前がこの世界から排除されるべき理由は他にもある。けど、オレにとってそんなことはどうだっていい。要するに、――この世から、いなくなれば」
……これは本当に、雷斗の言葉なのか。
黒いもやで、本当の気持ちが覆い隠されてしまっているだけかも知れない。
そう、思いたかった。
けれど、多分きっと、これは本心なのだと思う。結局僕は、僕の存在は激しく雷斗を傷つけてきた。
雷斗の言うとおり。
僕は僕である前に、呪われた存在で。そこにいるだけで沢山の人の心を傷つけてきた。
生きたいと僕が願うよりも、どうにかしたいと僕が思うよりも、もっともっと多くの人が苦しみ、嘆いてきた。
今雷斗が何かに取り憑かれていたとして、だからって彼の言葉が嘘だなんてこれっぽっちも思わない。
全部、本心なんだろう。
僕を殺したい気持ちも、全部、全部。
「でも、だからって引き下がれない。僕は、君を――止める」
力が、どんどん膨れているのが自分でも分かっていた。
リサさんと礼拝堂の入り口で別れ、あれから随分経ってしまった。吸収魔法の効果が有効な範囲だとは思うんだけど、それでも距離がある分、警戒しなければならなかった。
雷斗の言葉をぶつけられて、僕は相当気が立っていた。
興奮するなと何度も頭の中で繰り返し、できる限り内側に押し込めるよう、あんなに務めていたのに。
「タイガ、落ち着け」
ノエルさんが半分振り向いて忠告してきた。
抑えていた竜の気配が、徐々に大きくなっていく。
息が荒くなってきた。心拍数が増して、身体の中が沸き立つように熱くなる。
爪と、牙。
鱗も浮かび上がっていく。
「本性現せよ、大河。とは言ってもまだ、まともに力も使いこなせない、ただの化け物なんだろう?」
わざとかも知れない。
雷斗はわざと僕を挑発して、僕を怒らせ、僕を竜に変えようとしている。
そうすることで、自分が恐ろしい“神の子”を、正当な理由で殺せるんだとアピールしたいのかも。
自分が今起こしている事件は正義に基づくものだと、その後の断罪を逃れようとしているようにすら思える。
それでも、僕は抑えられなかった。
半竜になりかけた、中途半端な格好で、僕は前に立ち塞がるノエルさんの身体に手を当て、そっと押しのけた。
ノエルさんがギョッとして僕のことを見下ろしているのが分かったけど、そんなの、気にしている場合じゃない。
「帰ろう、雷斗。伯父さんが待ってる」
こんなふうに話したところで、雷斗の心に響くとは思えないけど。
僕は、そのためにここまで来た。
案の定と言うべきか、雷斗は額に手を当て、ケタケタと笑い出した。
「そうか。大河は親父の味方になったのか」
雷斗の身体から、黒いもやが一辺に噴き出していく。
「ってことは、敵だ。完全に、オレの敵。つまり、遠慮無しにやっちゃって良いってことだな」
辺りに漂っていた黒いもやは、ぎゅっと一つに固まると、ゲル状になってベチョッと地面に落ちていった。室内に散らばる黒いスライム達がどんどん集まって、くっつき合いながら肥大化していく。
人の大きさ程に膨らんだ黒いスライムは地面を離れてニュッと宙に浮かび上がった。その中央、細い亀裂が横に入り、パックリと口を開ける。そこから――、ぎょろりと目玉が覗いた。
――“ダークアイ”。
ノエルさんは既に、魔法陣の準備をしていた。
僕も、魔法陣錬成を試みる。
「殺してやる。そうしたらお前だって、楽になれるだろう……?」
雷斗はそう言って、ニカッと不気味に嗤っていた。
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