第2部 異世界《レグルノーラ》編
【9】真の狂気
1. 湖
落ちていく。
どんどんどんどん、落ちていく。
レグルノーラに意識を飛ばすときとは全然違う。
崖の上か、高層ビルの上から飛び降りたみたいな、そういう感覚なんだと思う。
この先に湖があると、陣君は言った。
二つの世界構造がどうなってるのか、僕にはてんで分からない。
干渉の時はまるで地面に吸い込まれていくかのような感覚だから、僕はレグルノーラは地面の下にでもあるのかと思ったけど、そうじゃないらしい。
湖を隔てて繋がってる? 湖って何?
――ザバァッと水の感覚。
着水。
そのまま、どんどん沈んでいく。
目を開けても、光は一切届かない、真っ暗闇が続いているだけ。
息を止めて、必死に意識を繋ぐ。
何だこの感触。
普通の水じゃない。
身体に吸い付くような、染み込むような。
ねっとりとして、まるで生き物みたいにまとわりついてくる。
水深がどんどん深くなっていくと、息を止めるのも苦しくなって。
だけどこんなところで諦めるわけにはいかない。
雷斗も同じように飛び込んだはず。
この先にレグルノーラがある。
僕は、魔法学校に飛ぶ。そう、陣君と約束した。
ノエルさんが待ってる。
足を必死に動かして、僕は更に深く潜っていく。
・・・・・
『何を期待しているの。誰も理解してくれないのに』
声が聞こえる。
どこかで聞いた、男の子の声。
『何のために生まれた? 答えなんて永遠に出ないと分かっていて、自問自答を繰り返してる』
胸がぎゅっとする。
僕のことを言われてるみたいで。
『ねぇ、グラント。教えてよ。どうして僕は、白いのか』
そうか、これはいつか見た、白い竜の。
『このままリアレイトで生きていくのは難しいと思う』
女の人の声がする。
『まだよちよち歩きしか出来ないのに、竜化してた。これがどういうことか、考えなくても分かるはずよね』
目の前にいるのは……、凌だ。
これは、美桜の目線。
僕は今、美桜の記憶を見ている。
『落ち着けばどうにかなりそうだけど、封印魔法程度じゃ限界があると思う。私だって、自分の力が抑えられなくなるときがあるんだもの。小さな大河にはもっと難しいはずよ』
小さい僕を、凌が膝の上で抱っこしている。
とても悲しそうな目をして。
『凌だって、少しずつ“こっち”にいられる時間が短くなってる。あとどのくらい、こんな生活を続ける気?』
無邪気に美桜に手を伸ばす、小さな僕。
だけど美桜は、とても穏やかな気分じゃないようだ。
『俺が俺の意識をしっかり保って、この身体を具現化できてる間は、出来るだけこうしていたいと思ってる』
『……無責任ね』
美桜は、凌にキツく言った。
『古代神教会の動きが活発化している原因、あなたは知ってるんじゃなくて? 単にあなたという存在が目障りなわけじゃなくて、本当はもっと、深いところで何かが起きてる。本当はどうなってるの。あの身体の中で、あなたとゼン、それからレグル、三つの意識の力関係、おかしくなってきてるんでしょ? それと教会の動きが連動してるみたいで、もの凄く気持ち悪いんだけど』
凌は、美桜から目をそらした。
『時折、リアレイトにまで教会が魔物を寄越す理由を、どうしてあなたは私に隠そうとするの。ねぇ、凌』
『ようやく手に入れた。人間の身体だ』
誰かが自分の手のひらを見て、薄ら笑っている。
沢山の血豆や傷のある、ゴツゴツしたその手は、幾つもの死線をくぐり抜けた戦士のもののようだった。
『あの愚かな金色竜が私に教えた唯一は、人間との同化で強くなれるということ。私はこの世界で最強の存在になれる。何も怖くない。誰も私を倒そうとはしないはずだ』
身体の底から湧き上がるように嗤い、彼は力尽きた。
そこは砂漠だった。
空には暗雲が立ちこめ、辺りには腐敗臭にも似た、生臭い空気が漂っていた。
倒れた彼を、砂はどんどん覆い隠した。
大地の一部が削れ、彼はそのまま、砂と共に落ちていった。
宙に浮いたその大地の下には、果てしなく続く黒い湖がある。真っ黒い、タールを溶かしたような湖は、砂と共に彼を呑み込んだ。
『……一匹の竜がいたのさ』
これは、僕の記憶。
『気の遠くなるような年月を孤独に過ごした白い竜は、この世の全てを恨んで、世界中を分厚い雲で覆い隠してしまった。竜は、レグルノーラとリアレイト、二つの世界を破壊しようともくろんだ』
ディアナ校長がしてくれた昔話。
もしかしたら、この白い竜があの、小さな。
・・・・・
――ダメだ。何を見てる。
余計なことを考えたら、変なところに飛ぶって陣君に忠告された。
いつの間にか、意識を失っていたみたいだ。
しかも、湖の水を結構飲んだ。
おかしいじゃないか。普段は人間の目を見ないと他人の記憶なんて見えないのに。どんどんどんどん、色んなものが見えてくる。
……いや、待って。前にも見た。
誰かの目を見たわけじゃないのに、他人の記憶がどんどん流れ込んできた。
アレは確か、僕をローラ様の闇の魔法が襲ったとき。僕は、襲い来る矢印の先に竜の記憶を見たんだ。
竜の血が見せたのかも知れない。
けど……、そうだったとしたら、今のは何?
僕が生まれた後の記憶は、血によって引き継がれるわけじゃない。
何を見せられた?
どうして行方知れずの美桜の記憶が流れてくるの?
・・・・・
『大河は、渡しません』
再び、僕は美桜の記憶の中にいた。
ここはあの、白い塔。ローラ様がいた部屋の中だ。
美桜は歯を食いしばって、ローラ様や、周囲の人々を睨み付けている。
『たとえどんな理由があろうと、あの子には自由に生きていく権利がある。塔の思惑通りになんて、絶対にさせない』
『気持ちだけは受け取りましたわ、ミオ。けれど、事態が深刻化すれば、いずれ塔はタイガを必要とするでしょう。あなたにも、それは分かっているはず。それともあなたが、その役目を負いますか? どちらでも良いのですよ。あなたでもタイガでも』
ローラ様の表情は、冷たい。
僕に試練を与えたときよりも、もしかしたら、ずっと。
『他に、方法がありません。決断なさい、ミオ。古代神教会とレグルが不穏な動きをしていることは、あなたもご存じなのでしょう?』
『雷斗にも、そういう力が?』
場面が切り替わった。
ここは、雷斗の家。伯母さんと、小さな雷斗、それと、小さな僕の姿。ベビーベッドに寝ているのは椿ちゃんだろうか。
『そう、もう一つの世界レグルノーラとこちらの世界を行き来する力。魔法も使えるかも知れない』
伯母さんは美桜と二人、小さな僕らがおもちゃで遊ぶのを横目に、テーブルでお茶を飲んでいる。
『魔法? そんなことある?』
『ある。急に言われたって信じられないと思うけど』
『うん……、そうだね、急には、難しい』
『もし雷斗が変なことを言い出しても、里奈さんだけは信じてあげてね。浩基さんは凌のこともあって、簡単には信じてくれないだろうし。味方がいるのといないのじゃ、全然違うんだから』
『美桜さんも、そうだった?』
こくりと、美桜が頷く。
『和解するのに何年もかかった。伯父さんのこと大嫌いで、めちゃくちゃ反抗したもの。ようやく最近、色々認めてくれるようになってね。年を取ったからかな。嬉しかったよ、ママのこともようやく許せるようになったって言われて。人の価値観を変えるのって、もの凄く難しい。だから、今のうち。雷斗のこと、信じてあげて。変な目で見ないで、温かく見守ってあげて欲しい』
・・・・・
この水は、ダメだ。
絶対におかしい。
身体にどんどん染み込んでくる。
身体が麻痺して頭が朦朧としていくのは、決して酸素不足のせいだけじゃなくて、多分、この水自体がおかしいんだ。
僕の中に染み込み、身体をどんどん冒していく。
正気を保たないと。
僕は、魔法学校に。
・・・・・
『誰』
また、美桜の声。
『凌じゃない……よね。ゼン? いや、違う。あなたは』
目の前には白い男。
知ってる。これは、凌が人間じゃなくなった後の姿。
『――ドレグ・ルゴラ。また、同じことを繰り返そうというの?』
にんまりと、男が嗤う。
瞳が赤く、不気味に光っている。
『なぁ、美桜。真に平和を乱しているのは、誰だと思う。破壊竜は消え去った、かの竜は全てを赦したのだと公言しても、まだ人々は、白い竜を脅威と捉え、拒み続ける。人間とは如何に愚かで、如何に下劣な生き物か』
『……心が弱いだけよ。傷は、簡単には癒えない。あなたもそうでしょう』
『そう。私の傷とて、直ぐには癒えない。だからこそ、試してみたいのだ。人間が本当に――……』
ダメだ。
見るな。
正気を保て、大河……!
・・・・・
「――キャアアッ!!」
黄色い悲鳴。
僕は自分が頭を抱えたまま、どこかに立っているのに気が付いた。
身体は全然濡れてない。湖の中を通ってきたのに。
でも、変だ。全身が震えて、まともに力が入らない。息が苦しい。立っているのがやっと。
記憶の欠片を見過ぎた。理解が追いつかない。
最後の、何だ。
あれは、誰。
「ちょ、いつの間に現れて! 変態ッ!」
キンキン声に、頭がガンガンする。
あれ? 同じことが、前にも。
「たとえシバ様の息子でも、何回もおんなじことが続くのはちょっと困るんですけどっ! ねぇ! 聞いてる?」
聞き覚えがある、どころじゃない。ここ、知ってる。女子寮の。
「他に、方法がないわけ? ここがゲートにでもなってるの? もう、ホント最悪!」
「か、カレンさん……」
リサさんの部屋だ。ルームメイトのカレンさんは、相変わらず声が高い。
「ご、ごめんなさい。迷わないよう必死で、気が付いたらここに」
フラフラした頭を抱えながら声の方を向くと、制服姿のカレンさんが仁王立ちしていた。
黙っていれば可愛いのに、カレンさんは怒りで顔を歪ませて、更に僕を怒鳴りつけた。
「女子の部屋! 分かる? 着替え中のことだってあるの! 見られたくないの! 変態、超ド変態!!」
酷い。全然そんなつもりないのに、うっかりで二回も侵入しちゃったからって、酷すぎる。
弁明の機会なんか与えてくれそうもない。
「またリサに用事?」
カレンさんは、僕があちこち部屋の様子を見渡せないように、わざと僕の真ん前に立ちはだかった。
「う……、うん。まぁ、そんな感じ。いる?」
「いたとしても! 今度こそ殺されるわよ、寮長に!」
そうだった。アリアナさん。
竜の気配にいち早く気が付いたアリアナさんには、多分、誤魔化せない。こうなったら、アリアナさんに協力して貰うしかない。
「殺されないよ、大丈夫。アリアナさん、呼んできて貰っていい? 話したいことが」
意を決して言ったのに、カレンさんは「ハァ?」と僕を小馬鹿にした。
「もしかして……、頭悪い?」
「あはは……、そう、かも」
頭を掻いて誤魔化した。
カレンさんは「ふぅん」と、また納得しないような顔をして、僕のことをじろりと見た。
「ホントに、シバ様の息子? なんか、ちょっと前と雰囲気違う。前はもっとおどおどして……」
「い、いいから! 呼んできて。お願いします」
謝ると、ますます変な感じになってしまう。
心を落ち着かせて、ノエルさんが迎えに来てくれるまで潜んでなきゃいけないのに、湖で見た沢山の記憶が鮮烈すぎて、僕はちょっとふわふわしてしまう。
「じゃ、呼んでくるけど。殺されても知らないからね!」
カレンさんはズンズンと足を踏みならして、部屋から出て行ってしまった。
これでいい。
これで、二人きり。
塞がれていた視界が晴れて、ベッドの奥、クローゼットの前に立つ、リサさんの姿を確認する。
ほんの数日間、姿を見てないだけなのに、とても長い間離れていたような錯覚に陥ってしまう。
「大河君」
リサさんは目を潤ませていた。
杏色にほのかな驚きと嬉しさの色を滲ませて、僕のことをじっと見ている。
迷惑だったろうか。
あの日、『しばらく、会うのやめよう』なんて、完全に嫌われると思ってた。
「来ちゃった。ごめん、迷惑だったよね」
どう話しかけたら良かったのか。
僕は、無難な台詞しか言えなくて。
「ううん、全然」
リサさんはちょっとはにかんで、優しく僕を見て、大粒の涙を零していた。
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