5. 後悔

 妻が二人目を妊娠した。

 身重な妻を気遣って、度々弟の嫁が子連れで家事と育児を手伝ってくれるようになった。

 結婚当初こそ家事の出来なかった彼女だが、いつの間にか人並みのことが出来るようになっていた。仕事を辞めて専業主婦をしていた妻の、良い話し相手だった。

 週に数回、彼女はうちのマンションに通ってくる。

 そして、どんどん親密な仲になっていったようだ。











『“干渉者”? なんだそれは』


 弟が家族連れで出産祝いを持ってきた。

 久々に顔を合わせた弟は、少しやつれていた。


『この話をするのは初めてかも知れない。兄貴に言ったところで無駄だと思って、諦めていた。……けど、そうも言ってられなくなってきた。限界が、近いんだ』


 L字ソファの斜め向かいに座った弟は、言いづらそうに頭を掻いた。


『一日一日、“こっち”にいられる時間がどんどん減ってきてる。最初は三年くらいで限界が来るかなと思ってたけど、案外頑張ったんだ。こんなに頑張れるならと、家庭を持って子どもも生まれて。――でも、多分、もうそろそろ限界。無理なんだ。今では一日五時間持てば良い方。それも、途切れ途切れだ。意識を保っていられない』


 弟の話は、相変わらず意味不明だった。

 彼は弟を鼻で笑った。


『仕事、辞めたそうじゃないか。病気か? それとも精神的なアレか? まぁ、嫁さんの実家で面倒見てくれそうだから、知らんがな』

『……そうだな、美桜の伯父さんには感謝してる。あんだけ色々あって、よく、理解してくれたと思ってる。だけど、頼って良いことと悪いことがあることくらい、俺だって知ってるさ。大河のことは、流石に頼めない。複雑すぎて、手に負えないと思うから。美桜一人に育てさせるのも、正直難しいと思ってる。事情を知ってる親友に、養子に出すつもりだ。あいつんとこ、子ども、いないから』

『養子? 何言ってんだ? 死ぬ気か?』

『死ぬんじゃないんだよ。……消えるんだ』


 弟はそう言って、静かに笑った。


『色々と面倒なことがあって、話しても理解できないだろうから全部すっ飛ばして結論だけ言うけど、ここにいる俺は俺じゃない。別の世界にいる俺が、必死に身体を具現化させてるんだ。そうすることで、俺はみんなと同じ時間を生きることが出来ている。本来なら、もうこの世界にはいない。特別な力で、どうにかここに存在しているように見せている。……前に一度、見たと思うけど。アレが、本当の姿で。もう俺は、人間じゃなくなってる』


 前に、一度?

 人間じゃない?


『――あの、白い男』

『そう。アレ。何なら、見せてやろうか。あ……、でも、雷斗も大河もいるし、嫁さんも。見たら泣かれると思う。だから、やめとく』


 嘘をついている――ようには、見えなかった。

 思えば、弟の話には一貫性がある。妄想にしては出来すぎている点も多々あった。

 大病を患っているのかも知れない。が、それならば消えるなどと、訳の分からない言葉を並べたりはしないはず。


『他の世界と行き来する力を持っているのが、“干渉者”。俺は小さい頃から、多分あの堰に落ちた辺りからそういう力を持ってて、“向こうの世界”と行き来してたんだ。色々あって、本体が“こっち”に戻って来れなくなって、今は、さっき言ったとおり、どうにかここにいるように見せてる状態。ほんの少し、力を抜いてしまえば消える。――ホラ、見える? 透けてるの』


 弟は手のひらをそっと前に差し出してきた。

 真ん前にかざされた手のひら。そこを透かして、弟の顔が見える。


『ゆ、幽霊?』

『いや、違う。ものも触れるし、食えるし。イメージを具現化させてる。想像力と集中力で。けど、それが、消えかけてる。平和の代償ってヤツ。……なんて、そんなことはどうでも良いんだ。雷斗のことだけど』


 弟は半分以上透けていた手をぎゅっと握って元に戻した。


『あいつも、“干渉者”だ。もう一つの世界レグルノーラと繋がってる』


 彼はギョッとした。

 雷斗が?

 まさか。


『大人になる前に力が薄れてしまう人が殆どだけど、確証はない。今後、俺がそうだったように、色々と会話の噛み合わないことが増えると思う。雷斗の現実を、否定しないで欲しいんだ。俺のことは嫌いなままで良いから、雷斗のことは、どうか、お願いだから嫌いにならないで欲しい』


 弟は、生まれて初めて兄に、深々と頭を下げた。











 神は、天罰を下した。

 あの日、弟を殺してしまったから、息子は弟と同じ呪いにかかったのだと、彼は思った。











 ろうそくの炎がどんどん小さくなっていくのと同じように、弟が“この世界”にいられる時間はどんどん減っているのだそうだ。

 何を犠牲にして、何のためにそんなことになっているのか、弟は一切説明しなかった。

 理解の及ばないこと。

 そう言ってしまえば、どうにかなるとでも思っていたのか。

 死ぬのではなく、消える。

 この意味を理解するのは難しい。











 仕事を辞めてからは、頻繁に実家に行っていたようだ。妻と雷斗も一緒に。


『自分の子どもの成長を、最後まで間近で見られたなら良かったんだけど』


 両親は、いつの間に聞かされていたのか事情を知っていて、それでも何も言わなかった。

 ただ、


『凌は、優しいから』


 と言った。

 優しいから、気を遣って本当のことが話せなかった。

 優しいから、全部一人で背負い込んでしまった。

 彼は、弟が優しかったことさえ、……知らなかった。











『芝山です。よろしくお願いします』


 弟の親友だという夫妻と会う。

 先に知らされていた、大河の預け先。

 彼らは弟のことをだいぶ理解しているらしく、消える、というあのあやふやな言葉に対しても特に疑問を呈さなかった。

 両親と、自分、妻、それから弟夫婦。子ども達が無邪気に遊ぶのを傍目に、実家の茶の間で、芝山夫妻と顔を付き合わせた。


『大河は、私達が責任を持って育てます』


 大河は既に、芝山夫妻に懐いていた。何かあったときのためにと、少しずつ準備をしていたらしい。

 区役所勤めの、真面目そうな男。信頼は出来そうだが、弟と同じ、妙な力を持っていると言っていた。


『養子縁組後は、来澄家と距離を取って貰えませんか』


 彼の提案は、その場にいた全ての人を震え上がらせた。


『雷斗のことは、そっとしておいて貰いたい。凌と同じ、妙な力を持っているらしいことは承知したが、そのせいで今、こんな面倒なことが起きている。雷斗を、同じ状態にさせたくない。別の世界とやらに傾倒して、人生を振り回されるようなことは、二度とあってはならない。……本当に、くだらない、とんでもない茶番に巻き込まれたと思ってるんだ。何が異世界、何が魔法。ばかばかしい。いい年して、もっとまともな会話は出来ないのかってね』

『――あなた』

『いいよ、里奈さん。兄貴は間違ってないから』


 妻が制しようとしたのを、弟が止めた。


『兄貴が言うのは尤もだ。俺はあの祭りの日に死んでいたかも知れなかった。……死んだのかも知れないと、何度も思った。そしたら兄貴は苦しまなかった。喋れば喋る程ぎくしゃくして、どうしたら良いのか分からなかった。時間は、不可逆なんだよ。戻らない、戻せない。どうしようもない。俺が兄貴とまともに会話してこなかったことも、兄貴が俺のことを理解できなかったことも、どうしようもない事実で、それが覆ることは絶対にない。だけど』


 弟はそう言って、半歩下がり、畳に頭を擦りつけて土下座した。


『お願いだから、雷斗のことは、信じてやって。俺のことは一生嫌いでいい、理解しなくていい。でも、雷斗のことだけは、信じてやって。嫌いにならないで欲しいんだ……!』











 養子縁組が成立して程なく、弟の嫁が行方不明になる。











 一日に、数時間しか“こっち”にいられなくなったという弟は、自宅を引き払い、大河と共に芝山家に身を寄せた。











 炎が消えたその日、弟は実家にいたようだ。

 両親と手を握り、最期の言葉を交わしたと、後で聞いた。


『兄貴のこと、恨んでないから』


 自分のことでもなく、子どものことでもなく、親の体調を気遣うでもなく。

 どうしても弟を理解できなかった兄への。




………‥‥‥・・・・・‥‥‥………




 ――ダメだ。

 無理だよ、こんなの。

 目の前で怒鳴る伯父さんの、悲痛な叫びで頭がいっぱいになる。

 僕の目からは止めどなく涙が溢れ出ていて、怒りの奥に隠れた深い悲しみの紫色で支配されていく。


「大河?」


 母さんの声で、何とか現実に引き戻された。

 僕は目を見開いたまま、動けないでいる。


「子ども相手に言い過ぎです、来澄さん!」


 父さんが怒鳴る。

 もしかしたら、伯父さんに怒られて動けなくなったように見えていたのかも知れない。

 けど、違う。

 違うんだ。


「言い過ぎ? 現実問題、大河と出会って、雷斗は消えた。今までこんなことはなかったんだ!」


 怒りの色で誤魔化している。

 自分の中の不安や悲しみ、後悔を。

 本当は、大好きなんだ。雷斗のこと。

 どうやったら来澄凌を連れてった異世界から引き戻せるのか、必死だったんだ。

 伯父さんは、酷く不器用だ。来澄凌も、雷斗も、みんな。

 どこかで誰かが相手を信じていたら、相手の言葉や世界を受け止めていたら、……変わっていたかも知れないのに。


「来澄さん、あなたは自分のことを棚に上げて」


 僕は思いっきり手を伸ばして、前のめりになる父さんの言葉を遮った。

 父さんも母さんも、そして伯父さんも、驚いて声を引っ込めた。

 僕は腕で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。

 記憶の波はあまりにも強烈で、少し頭がクラクラする。けど、こんなことに時間を割いてはいられない。急いで息を整える。


「――伯父さんの、気持ち、分かりました。不安の原因も、雷斗に対する態度の理由も、苦しいくらい、よく、分かりました」


 大人達は、不思議そうに僕を見ていた。

 多分、一瞬。

 僕が伯父さんの記憶を辿っていたのは、ほんの一瞬だ。

 だから、急に何を言い出すと思ったに違いない。

 そんなのは、どうでも良かった。


「伯父さんは、方法を少し、間違っただけなんだと思います。雷斗は、来澄凌みたいにはならない。僕が、絶対に、――させない」


 ハハッと伯父さんは僕を嘲るように笑った。

 でも、全然、嫌な気持ちにはならなかった。


「記憶、見ました」

「え?」

「伯父さんの記憶、見ました。本当は、どこかで凌のこと、信じていたんじゃないかと思うんです。だけど、伯父さんも凌も、全然素直じゃなかったから、最後まで擦れ違った。その影響が、雷斗にまで及んでる」


 何を言ってると、最初は半笑いだった伯父さんの顔が、どんどん青ざめていった。

 そうだよ、見たんだ。

 伯父さんの中で、弟の凌に対する気持ちが、どんどん変わっていった。変わっていないつもりで、でもどこかで変わった。


「雷斗は、凌じゃない。干渉者が、全部彼のように全てをなげうつわけじゃない。そういうのは、一握りで、凌や、僕だけで十分なんだ」


 伯父さんは、恐怖していた。

 雷斗も消えてしまうかも知れないと。

 そして二度と、帰ってこないかも知れない。

 だから、現実世界にとどめおきたくて、無茶な進路を提案した。より現実的で、より理想的な未来を示したかった。

 方法を、間違った。

 理由も言わず、強制した。雷斗の希望や意思は、そこにはなかった。ただ、伯父さんの強い思いだけがあった。


「『雷斗のことだけは、信じてやって』」


 僕がそう言うと、伯父さんは腰が抜けたように、ストンと床にへたり込んだ。


「雷斗は、信じて欲しかった。伯父さんが自分じゃなくて、同じ干渉者だった来澄凌の方ばかり見ていたのを、雷斗は知っていたんじゃないかと思います」


 もう、会うことの出来ない弟と心を通わせ損なったことを、伯父さんは、ずっと後悔していたに違いなかった。

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