4. いつから
コーラの缶が、ぐしゃっと握り潰された。
たちまち、辺りに甘い匂いが広がってゆく。
『ああっ! ごめん、またやった!』
庭でバーベキューをしていたとき、弟は手渡した三五〇ミリリットルのコーラ缶を一瞬で握り潰した。
彼は目を疑い、潰された缶と弟の顔を何度か見た。
『筋トレしすぎだ、凌』
父は笑っていたが、その潰れ方は、尋常ではなかった。
『ごめんごめん、最近、力の加減が分からなくって』
空の缶じゃない。プルタブすら開けてないのに、あんなに簡単に握りつぶせるか?
そう言えばあいつ、言ってたな。
もう人間じゃなくなった……、だっけ。
人間じゃ、ない。
化け物?
妙な弟と一緒だと、どうも調子が狂ってしまう。
夜、父と晩酌し、今後のことをあれこれ話した。
その中で報告した、結婚のこと。長く付き合っていた同僚と、春には式を挙げる。
祝杯だと結構遅くまで飲んで、そのまま父は寝てしまったが、彼は寝付けず、縁側で一人、たばこをふかしていた。
『兄貴結婚するんだって? おめでとう』
みんなが寝静まった時間、弟がやってきて、縁側の隣に腰掛ける。
『幸せな家庭を築いてくれよな。……俺の分も』
弟ははにかみながら、妙なことを口走る。
『ハァ? バカか。なんだそれ、お前の分って』
『――消えるからさ、俺』
うっかり、たばこを落としそうになる。
慌てて灰皿にたばこを押しつけ、火を消した。
『活動限界が近付いてる。あと、何年持つのか、自信がない』
『ハァ?』
『聞いたんだろ、俺と芝山の会話。ここにいる俺は俺じゃない。こうやって人間の姿を保っていられるの、後どれくらいなのか、考えるとゾッとする。俺はいずれ消える。そしたら、もう親孝行も出来ないし。兄貴が俺の分も、孝行してやってくれよ』
何を言っているのか、理解に苦しんだ。
消える?
人間の姿?
昼間耳にしたアレ、本当だとでも。
――気味が悪い。
こいつ、とうとう頭がおかしくなって。
勘弁してくれよと、彼は苦笑して、一度瞬きした。そして、隣の弟に顔を向け……。
誰だ。
白く長い髪をした、西洋人。
違う。よく見ろ。
角がある。身体の色が、変に白い。
見たこともない、変な服。舞台衣装?
目が、暗闇の中で赤く光っている。
ちょっと待て。こいつ、背中にデカい羽が。
『化けも……』
怯え、ひっくり返って、縁側から庭にすっ転んだ。
夢か。
酔ってるからか。
ずっと弟のことを気持ち悪いと思っていたからか。
腰が抜けた。立てない。
白い男はスッと立ち上がり、庭に降りた。そして、彼に手を伸ばした。
『兄貴、大丈夫?』
声は、弟。
『凌じゃないな。お前、誰だ』
リビングからの光が、弟の半身を照らしていた。
光の当たっている部分は弟、影の部分は白い髪の男に見えている。
『いつから入れ替わった? ――化け物め』
言うと、弟は悲しそうな顔をして、手を引っ込めた。
『簡単じゃないな、理解して貰うのは』
弟は、ポツリと言った。
『目に見えているものしか信じない兄貴に、真実を見せようとした。それすら信じられないのなら、これ以上話しても無駄かも知れない』
また、意味の分からない言葉。
弟はそのまま、家の中へと戻っていった。
『浩基、凌を起こしてきて』
あんなに飲んだのに、殆ど寝付けなかった。
その割に普段通り起きたのは、社会人のさがか。
母に言われて仕方なく、弟の部屋まで起こしに行く。
『凌、朝だ。起きろ』
ノック無しでドアを開けた。
弟の姿は既になかった。
ベッドも冷たい。寝た形跡がない。
『あれ? おふくろ、凌いないけど』
二階の廊下から階下の台所に話しかける。
――と、背後から人影。
『今起きた。悪い』
弟?
『おはよう、今日の朝ごはん何?』
隣をすり抜け、階段を降りていくのは、確かに弟だ。
けど、部屋には誰もいなかったはずだ。
結婚式を終え、新生活が始まった。
写真を整理していた妻が、突然変なことを言い出した。
『凌君、集合写真入らなかったっけ』
バカなことを言う。
『いたよ。お袋の隣に立ってた。端っこに写ってない?』
『うぅん、それがね』
渡された写真を見る。
どこにも、弟の姿はない。
『それだけじゃないんだよね。新郎側の親族の席の写真。凌君、途中抜けてたのかな。写真、一枚も写ってないんだよ』
まさか。
半信半疑で、写真の山に目を通した。
妻の言うとおり。どこにも、弟は写っていない。
『残念だね。丁度席にいないときに撮ってたのかな』
そんなわけない。
偶然、一度もカメラの前にいなかったなんて、そんな。
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「雷斗の気持ち? 子どもの言うことはどうにも幼稚だ」
伯父さんは、僕を鼻で笑った。
「おかしなことにならないよう、早いうちから正さねばならない。それが親の務めでしょう。コントロールが利かなくなって、まともな人間の道から外れてしまうようではいけない。凌も、凌の仲間も、頭がおかしいとずっと思っていた。私は今も、そう思っている」
上から目線の伯父さんの言葉に、僕は少し集中力を欠いた。
拳をテーブルに押しつけ、立ち上がりかけた僕の背中を、近くにいた母さんがそっと擦った。
「“干渉者”……、でしたっけ? 不思議な力を持っていると。魔法? この科学社会で、非科学的なことを堂々と言う。あなたもあなただ、芝山さん。区役所で課長、してるんですよね。優秀かも知れないが、中身は知れたもんじゃない。部下が可哀想だ。こんな、正体不明の人間が上司だなんて」
「話がずれていますよ、来澄さん。今は、雷斗君がどこにいるのか、どうにか見つけられないのか、そういう話をしているんです」
父さんにも、怒りの色が差す。
それでも伯父さんは、揺るがない。
「凌が雷斗に悪影響を与えた。妙なことを口走り、妙なことに興味を持ち、現実から逃げている。私は息子を、あの化け物から引き剥がそうとしている、それを責められる
「凌は、化け物じゃ」
「アレが、化け物じゃないとでも? 少なくとも最後の数年、アレは人間ではなかった。私は、息子が同じようになってしまわないかと、それを危惧して! 必死だった! 私は必死に、道を正そうとした。――大河、お前が現れなければ、雷斗は!」
伯父さんは、再び僕を睨み付けた。
僕は、もう一度睨み返す。
そうだ、思いっきり想いをぶつけてきてよ、伯父さん。
僕が、全部見るから……!
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
彼が第一子を授かった直後、弟は結婚した。
相手は、大手電機メーカー社長の姪御だとか。早くに両親を亡くし、社長が実の娘のように育てたのだと聞く。
高校の同級生。随分、長く付き合っていたようだ。
『何が、俺の分も、だ』
何年か前、弟が言った妙な言葉は、ずっと頭の隅っこに引っかかっていた。
消える? 全然消えてない。
弟は何事もないかのように、大学を卒業し、就職し、家庭を持った。
しかも相手が相手だ。金の心配も要らない、超セレブ。
お手伝いさんに育てられたという弟の嫁は、料理が苦手で空気を読むのも得意ではないそうだ。
それでも、超の付く程美人で上品。
自分の人生カウントダウンみたいな話をしていた割に、順風満帆じゃないか。
互いに所帯を持ち、子どもが出来ると、自然と実家へ行く頻度が増す。
孫の顔を見せに行くという、新たな義務が発生する。
『雷斗、おっきくなったなぁ』
弟は自分の息子をあやすのと同じように、彼の息子に接した。
高い高いをしてあげたり、肩車をしてやったり、手遊び、童謡、パズルにブロック。
息子の雷斗は、弟にやたらと懐いた。
『凌君、子どもと遊ぶの上手だね。あなたもあのくらい遊んであげたら良いのに』
妻が羨ましそうに呟いた。
『もう少し大きくなれば、雷斗も大河君と一緒に遊べるのにね。小っちゃい頃はちょっと月齢が離れてるだけでも全然違うから。ね、雷斗と大河君、やっぱりいとこ同士だから似てるよね。本当の兄弟みたい』
弟のそばで転がったまま哺乳瓶と戯れる一歳の大河と、弟の膝に乗って絵本を読んで貰っている雷斗。
妻にはこれが、どう映っているのか。
『兄弟……、ねぇ……』
最後に一緒に遊んだのはいつだったろうか。
分からない。
少なくとも、あの祭りの日から先、まともに弟の顔が見れていない。
四歳だった弟は、あの日死んだ。
何度思い返しても、あの日を境に何かが変わった。
弟に対する違和感は、時に濃くなり、時に薄まって。だけど、ずっと何かが燻っている。
『アレが、本当に俺の弟なら』
嫁同士は仲が良かった。
勝手に約束して、公園なんぞ。
手作りの弁当を朝早くから頑張られて、行かないという選択肢がなくなった。
花見をするには良い天気だった。満開のサクラの下、ビニールシートに転がって、子どもらが弟と遊ぶのを遠目に見る。
嫁同士はお喋りに花を咲かせ、完全に子守を弟任せにしていた。
公園の遊具はまだ小さい雷斗と大河には早いからと、弟は鬼ごっこをしたり、ボール遊びをしたりしていた。
嘘つきで、友達のいなかった弟が、こうも変わるもんか。
まるで、一瞬一瞬を必死に生きているような。
……消える、だっけ?
ばかばかしい。
一年、また一年と時間は過ぎても、弟は一向に消える気配がない。仕事も家庭も、何もかも手に入れて、これ以上何を望むのかと言うくらい、最高の人生を送っているように見える。
雷斗の蹴飛ばしたボールが、彼の方に転がってきた。
『パパぁ、ボールとってぇ』
たどたどしく走りながら、雷斗が寄ってくる。
仕方ないなと身体を起こし、ボールを取って雷斗に渡そうとしたところで、視界が急に暗くなった。
あれ? 良い天気じゃなかったのか。
真っ黒な……もや?
顔を上げた。
――凌?
目が、赤く光っている。
前に突き出した手から、目映い光が。
パァンと何かがはじけたような音がした――気がした。一気にもやが晴れた。
『今のは、何だ』
一瞬、雷斗が黒いもやに包まれたのが見えた。次の瞬間、弟が何らかの光を放ち、それによって黒いもやが消えたような。
『パパ、ボール』
雷斗に促されて、自分が固まっていたことに気付く。
公園にいた他の誰も、この事象に気が付いていない。
自分だけが、見た。
アレは、何だ。
『次、おじさんと会えるのいつ?』
雷斗は完全に、弟に懐いていた。
恐らく、父親である自分より、ずっと。
『何して遊んで貰うの?』
妻が何気なく尋ねると、雷斗は満面の笑みで答えた。
『ひみつの場所に行く!』
『ひみつの場所?』
『うん。そう。あのね、ぼくのひみつの場所、おじさんも行けるんだって。でね、ぼくも行くの』
……ひみつの場所?
聞き捨てならない言葉が耳に入り、彼は息子の言動を注視した。
『車がお空を飛んでてね、でっかいドラゴンがいて、きれいな建物がたくさんあって、魔法がつかえる!』
デジャヴ。
違う。
どうして雷斗が、幼い頃の弟と同じことを。
『パパも行く?』
離れたところにいた自分の足下に雷斗が寄ってきて、無垢な瞳を向けてくる。
『行ける人と、行けない人がいるんだって。ぼくとおじさんは行ける人。パパとママは行けない人?』
無垢で、真っ白で、無知なはずの息子が、忌まわしい弟と同じことを言う。
『ぼくは何回も行ったよ。パパは行かないの?』
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