2. 兄弟の確執

 ――目を見ちゃダメだ!

 分かっていたはずなのに。

 強烈な眼力と、その身に纏った真っ赤な攻撃色に圧倒された。

 これまで経験したことがないくらい、凄まじい勢いで記憶が流れ込んでくる。

 まるで滝の中で打ち付けられているような、全身を流星群が突き抜けるような。

 倒れそうになる。

 気を失いそうになる。

 ただ、足を踏ん張るのが精一杯。

 僕が竜の血を呼び起こされたからじゃない。これは、伯父さんの思いの強さだ……!




………‥‥‥・・・・・‥‥‥………




 農村の、のどかな風景が目の前に広がっていた。

 薄暗い中を、消防団の法被を着た一団が、懐中電灯片手に歩いている。


『凌ぉ――――! どこだぁ――!』


 目線の人物は、小学生くらい。まだ、声変わりもしていない。


『凌ぉ――!』


 叫んでも叫んでも、返事がない。


『この時期は、流れが速いから、マズいな』


 一緒に歩いていた消防団の男がポツリと言う。


『川下の方に流されたかな』

『いなくなってから何時間だ。子どもの体力じゃ、到底持たない』


 目線の子は、震えていた。歯を食いしばって、必死に耐えて、大人達と歩くので精一杯だった。


浩基ひろき君、大丈夫かい』

『だ、大丈夫、です』


 虚勢を張る。最悪の状態を考えている。

 ほんの少し、目を離しただけだった。

 村の祭りに屋台が出ていて、小さな弟と一緒に見て回っていた。田舎の祭りは独特の雰囲気があって、屋台の数はたいしたことないはずなのに、やたらと浮かれてしまったのだ。

 だから気付かなかった。

 お面を買ってやると、小さな弟は喜んで頭に被り、小躍りしていた。金魚でもすくってやろう、そうすれば弟はもっと喜ぶ。そう思ってポイを握り、必死に金魚を目で追った。その間に……、弟はいなくなった。

 お面は、祖父の家の裏、農業用の堰の縁に落ちていた。

 村は、祭りどころではなくなった。

 大人達がこぞって小さな弟を探して歩いてくれた。

 誰も、彼を責めなかった。それがかえって、彼を傷つけた。


『いたぞ! 引っかかってる!』


 堰の中に棒をツッコミながら探していた消防団員が声を上げた。

 急いで向かい、覗き込む。堰の隅っこ、木の棒や枝が絡まったところに、小さな男の子がうつ伏せになって引っかかっているのが見えた。


『凌!』


 手を差し伸べようとする彼を、大人が止めた。


『待ってな、浩基君。今、助ける。――救急車呼んで! 警察も!』


 流されないように、慎重に、大人達が数人がかりで小さな弟を引っ張り上げる。

 丈の短い草の上に弟の小さい身体が転がると、彼は咄嗟に手を伸ばした。そして、直ぐに引っ込めた。


『冷たい。し、死んでる……!』

『死んでない! 人工呼吸!』


 青白い顔、紫色になった唇、冷たい手。

 無邪気に遊んでいたあの弟は、そこにはいなかった。

 死んだんだ。

 凌は死んだんだ。

 僕が、殺した。

 あのとき、目を離したから。

 だから、凌は――!











『川の底に、女の子が棲んでたんだ』


 川、というのは農業用の堰のことだと、彼には分かっていた。

 助け出されてから、弟の様子がおかしい。幻覚を見ているのかと思うようなことが何度もあった。

 女の子の話もその一つだ。

 川の底に、街があるという。そんなわけがない。言葉の通じない、可愛い女の子がいて、その子と友達になったらしい。

 まだ四歳。想像力が豊かすぎるんだ。

 イマジナリーフレンド、というのを聞いたことがあった。空想の中だけの友達。小さい子には偶に見られる現象らしい。一人遊びの時、架空の友達と会話したり、ごっこ遊びしたりする。端から見ると不思議に見えるそれは、見えないものが見える変な能力を持った子どもにも受け取れるし、頭のイカれた子どもにも受け取れる。

 凌は、頭がイカれたんだ。

 あのとき、堰に落ちて死んだはずなのに、生き返ったりなんかするから。

 彼はそう解釈した。


『嘘つくなよ。変な作り話』


 けれど、弟は食い下がった。


『綺麗な建物が並んでてね。魔法を使うんだよ、その子。ビュンビュン飛べるんだ』


 それどころか、話はどんどんおかしな方向に進んだ。


『水たまりも、お風呂も、鏡も、全部繋がってるんだよ、あの街に。何回も行ったよ。兄ちゃんは行かないの?』


 弟は、見えない世界の住人になった。

 もうそこに、祭りではしゃいでいた弟はいなかった。











『浩基! いい加減にしなさい!』


 両親に怒鳴られる。

 弟にまた、暴言を吐いたのが原因だった。


『本当のこと言っただけじゃん。凌、嘘つきだし』


 高校生になった彼は、小学生の弟が嫌いだった。幾ら妄想をやめろと言っても、口から出てくるのは変な言葉ばかり。

 空を飛ぶ車の話、巨大な竜の話、天まで届く塔の話。行ったことのない外国の景色を、懐かしいという。最先端の技術を、見たことがあると言う。会話が、まるで噛み合わない。


『……嘘じゃない』


 また弟は嘘をつく。

 それが癪に障った。











 場面が変わる。

 彼は大人になっていた。

 久しぶりに実家に戻る。

 大学からは一人暮らし。嫌な弟と顔を合わせずに済んでいるが、親孝行もしておかなければと、偶に家に戻る。

 そこで弟の顔を見るのが、もの凄く苦痛だった。


『相変わらず、嘘つきの凌には友達いねぇのか』


 弟は、目を合わそうとすらしなかった。

 もう何年も、互いに目を合わせていない。

 中学生の弟とは険悪の仲。一緒の食卓でも、会話はしない。

 普段は口を利いたりしないのに、その日は何故か、弟をからかいたくなった。

 夏休み、誰とも遊ばず部屋に籠もってジグソーパズルなんかして。

 こいつ、何が楽しくて生きてるんだ?

 嘘ばっかり付いてるから、誰とも打ち解けられないんだろう?

 床に這いつくばってパズルと睨めっこしていた弟は、不意に立ち上がって兄を睨み付けた。


『兄貴こそ、目に見えているものしか信じられないクセに。俺の何が分かるの?』


 まだ、見えてるのか。変なものが。

 口には出さず、そう思った。


『見えてるよ。兄貴が考えてることくらい』


 例えようのない、鋭い目つき。

 ブルッと震え、彼は生まれて初めて、弟を恐ろしいと――……。











 高校生になった弟は、良い意味でも悪い意味でも、成長していた。


『兄貴、帰ってたんだ』


 目を見て話せるようになっていた。

 友達も、彼女も出来たらしい。気持ち悪いくらいの急成長だった。

 高校デビューか。いや、一年の時は中学生の頃と変わりなかった。途中で何かが変わった。


『お前と気の合う人間なんて、存在するんだな』


 最初から馬鹿にするつもりだった。

 この、気持ち悪い思考の人間と同調する、気持ち悪い仲間。

 反吐が出そうだ。


『世界は広いからね。同士はいるよ』


 ジグソーパズルはやめたらしい。

 代わりに、妙に身体が仕上がっていた。筋トレにでも目覚めたのか。


『一緒に、妄想の世界を旅する仲間か?』


 人と関わるのが極端に苦手な癖に、正義感ばかり強い弟が、あちこちでトラブルを起こしているのを知っていた。

 こいつは時々、人を殺していそうな目をするのだ。

 近付きがたく、話しかけにくい。

 血を分けた弟なのに、隣にいるだけでゾッとすることが何度もあった。得体の知れない重たいものをずっしりと背中に背負っている。そういう、気配があった。


『妄想の世界じゃない。まぁ、信じなくて良いよ。何を言っても、兄貴は信じない。住む世界が違うから』


 やけに、大人びたことを言うようになった。


『頭がイカれたまま大きくなりやがって。お前の仲間も、相当イカれてるんだろ?』


 冗談のつもりだった。

 以前なら、弟は半笑いで返した。

 違った。

 高校生の弟は、彼の胸ぐらをぎゅっと掴み、ギリギリまで顔を近づけて威嚇してきた。


『イカれてるのは、兄貴の方だ。いつまでそうやって、俺のことを蔑むつもり?』




………‥‥‥・・・・・‥‥‥………




 ――何だコレ。

 何だコレ何だコレ何だコレ。

 雷斗の記憶より、更に鮮明だ。

 強烈すぎる。

 これ以上見たら、呑まれてしまう。

 ダメだ。気をしっかり持て、大河……!


「雷斗はどこだ。お前だな、雷斗をけしかけたのは。雷斗を出せ。隠してるんだろう?」


 伯父さんは目をギラつかせていた。

 一日中歩き回ったんだろう、汗の臭いがする。普段はきっちり整えているだろう髪は乱れて、顔は脂ぎっていた。


「いません、雷斗は、どこにも」


 左手で伯父さんの右手を引き剥がそうとした。けれど、それ以上の力で、伯父さんは僕の肩を掴み続けた。


「嘘をつくな。本当のことを言え。雷斗はどこだ……!」

「だから、知りません。本当に。僕も今さっきまで、雷斗を探して」


 ちっくしょう!

 こんな、我を忘れたような大人を、どうやって諭す?

 玄関扉がバタンと閉まった。伯父さんが、ズンズン進んで僕を家の中に押し込んだのだ。

 体格差もある。力も全然違う。

 せめて、落ち着いてくれれば。


「大河、どうしたの? お客さん?」


 話し声に気付いて、母さんが玄関に向かってくる。

 ダメだ。

 こんな現場見たら。


「大丈夫、大丈夫だから!」

「何が大丈夫だ! 隠してるならさっさと出せ!」

「落ち着いて、伯父さん! 話を聞いて! ここに、雷斗はいないんだ!」


 伯父さんは、僕を押しのけて土足で家に上がろうとしていた。

 本当に、椿ちゃんが言うように、どうしようもなくなってる。

 ――もう、仕方ない。

 僕は伯父さんの懐に入って、必死に伯父さんを食い止めようとした。


「いい加減にしてよ、伯父さん……ッ!」


 雷斗のことを心配してると言うより、これは。

 常軌を逸してる。

 ただ、来澄凌のことを嫌っているだけじゃない。多分、伯父さんがそうなるには、もっともっと深い理由が。


「……来澄、さん?」


 母さんの声が背後で聞こえた。

 伯父さんの動きが止まる。

 同時に、赤いだけの攻撃色に、血のような暗い赤が混ざり始める。


「どういうことだ? 大河は、二度と来澄家の人間と接しないと約束したはず。私の家族を、また引っ掻き回す気か……?」


 約束?

 何を約束した?


「全てお前らのせいだ! 凌やお前らのような頭のおかしい人間が、私達を引っ掻き回したせいで、今度は雷斗まで。ふざけるな! 化け物共め!」


 伯父さんの怒りは、とどまらない。

 それどころか、纏っている赤は炎のように立ち上り、僕の家を焼き尽くさんばかりに燃え滾っていた。

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