3. 警告

 気が付いたら真夜中だった。

 多分どうにかして、びしょびしょだった制服を乾かして、床を拭いて、着替えたんだと思う。宿題もやっていたようだし、ご飯も食べて風呂にも入った。親に何か聞かれて適当に答えた気がするけど、あまり覚えていない。

 僕の頭の中は灰色で、空っぽだった。



――『……しばらく、会うのやめようか』



 リサさんにあんなことを言わせるなんて。

 僕は本当に、最低の人間だ。

 何をするとも無しに、僕は自分の部屋の明かりを全部消して、ベッドの上で転がっていた。

 外からはまだ、雨の音がしている。

 しとしとしとしと、絶え間なく続く雨。

 真っ暗闇の中で仰向けになって、目をつむったまま雨音をじっと聞いていた。

 虚無ってこういうことをいうのかななんて、くだらないことばかり考えた。

 リサさんの屈託のない笑顔と、苦しそうな横顔が交互に浮かんだ。

 枕元でスマホのバイブ音が聞こえて、僕はふと目を開けた。

 スマホの画面に、通知が表示されている。


《大河

 起きてる?》


 雷斗だ。

 眠れないんだろうか。

 僕はアプリを開いて、寝転がりながら返事する。


《起きてる》


《今日はありがとう

 リサって子との約束、大丈夫だった?

 ごめん

 オレ、自分のことばっかりで、大河の都合聞くの忘れてて》


 気にしてたんだ、と思うと、ちょっとだけ頬が緩んだ。


《大丈夫

 後で会えたから》


 会った直後に、『会うのやめよう』なんて言われたことは、ここでは触れないでおく。


《体の方は?》

《体?》


《戻ってきたら、なんともない?》

《うん

 昨日もそうだったけど、こっちに来たら、普通》


《普通か

 ああなるのって、向こうだけ?》

《多分》


 ……多分。

 打ちながら、僕はふと考えた。

 本当に“向こう”だけなのかな。

 もしかしたら、そうじゃない可能性も。――そうなったら、きっと、僕はこの世界では生きていけない。


《今のところ、向こうだけ》


 こんなことを書いたら、雷斗は心配しそうだけど。


《凌叔父さん

 向こうでの姿はああなのかな》


 思っていたのとは違う答えが来る。

 恐らく、雷斗は僕の後ろに、来澄凌を見ている。だから直ぐに声を掛けてきた。いとこだからじゃなくて、僕が来澄凌の息子だから。


《来澄凌ってどんな人》


 何度か書いては消し、書いては消しを繰り返して、ようやく返信する。

 雷斗が欲していたのとは、多分全然違う内容で。


《急にごめん

 僕、小さい頃のこと、全然覚えてなくて

 もし雷斗の知ってることがあるなら、教えてくれると嬉しい》


 雷斗からは、なかなか返事が来ない。

 しばしの沈黙。

 雨の音を聞きながら待っていると、数分後、ようやく返信があった。


《明日、部活終わったら速攻で神社行くから

 待ってて

 叔父さんのこと、少し話したい》


《分かった

 じゃ、明日》


 暗がりの中、光るスマホの画面に、淡々と言葉が記されていく。

 スタンプを打つわけでもなく、絵文字も入らない、短い言葉の羅列。

 会話が終わった後も、僕はしばらくじっと、画面を見つめていた。






 *






 否応なしに朝日は昇る。

 朝方まで降り続いていた雨がようやく止んで、方々に水たまりを作っていた。空には、冷たくどんよりとした雲。まるで僕の複雑な心境を表しているかのような、肌寒い日だ。

 僕はいつものように朝起きて、いつものように学校へ行った。

 そして、いつも通りの芝山大河を演じる。

 教室に行くと、昨日の噂は更に広がっていた。佐々木を突き飛ばしてしまったヤバいヤツというレッテルは、思ったよりも面倒だった。

 語彙の足りない中学生達は、僕にも聞こえるよう、大げさに触れ回った。

 佐々木は顔色が悪く、どうにか登校したって感じで、僕が視界に入るとギョッとして直ぐに顔をそらしていた。


「大河、昼休み、ちょっと生徒指導室に来い」


 担任の若林先生に呼び出されるのも、概ね予想通りだった。

 成績優秀、大人しい優等生で通っていた僕が引き起こした騒動を、先生はとても不快に思ったらしかった。灰色と紫色が多く漂って、その中に残念な気持ちを意味する青色が混じっていた。

 僕は無難に質問に答え、先生の注意を真摯に受け止めた振りをした。

 相手に手を出したわけじゃない。それでも、佐々木は吹き飛んだ。説明するのは到底無理だ。だから、全面的に僕が悪いことにした。

 親にも連絡が行くと、先生は言った。

 未成年の僕は、ただ頷くしかなかった。






 *






 逃げるように教室を出た放課後。

 僕は足早に、例の神社に向かった。

 雷斗が部活を終えるまで一時間以上空くが、家には戻りたくなかった。もしかしたら既に、学校から親に連絡が言っている可能性がある。パート帰りの母さんと顔を合わせるのも何だか辛くて、それなら神社で待とうと思ったのだ。

 曇天。

 ひんやり冷たい風が吹く中、昨日の道を辿り、神社の鳥居を見つけた。

 記憶通りでホッとしていると、


「やぁ、来たね」


 鳥居に寄りかかって立つ、同い年くらいの少年に声を掛けられた。

 雷斗じゃない。

 くせっ毛の茶髪、ちょっと垂れ目。上下はスウェットながら、如何にも女子にモテそうな感じの彼は、右手を軽く挙げて、僕に挨拶してくる。

 誰。

 あんなヤツ、知り合いにいたっけ。

 漂わせているのは爽やかな青紫色。見たことのあるような、ないような。


「雷斗が通ってくるゲートを抜けてきたんだ。なるほど、良いところに通じてる。異教の聖域とはなかなか新鮮なものだね。古代神教会のヤツらは侵入しづらい」


 ……ん?

 話の内容が、何だかおかしい。

 僕が首を何度も捻っていると、彼はアッと何かに気付いて手を打った。


「ごめんごめん、忘れてた。つい自然に振る舞っちゃった。僕だよ、ジーク。分かる? 昨日はあれから大丈夫だった?」


 分かる? のところで、彼は僕の顔を下から覗き込んだ。


「え? ジー……。えええ?!」


 桔梗色だ。

 調査会社にいたジークさんの桔梗色。


「かかか干渉……! ちゅ、中学生?!」


「興奮しない興奮しない。この辺り、相当静かだから、大河の声、めちゃくちゃ響いてるよ。まぁ、落ち着いて。昨日のことがあったから、雷斗は大河を呼び出すんじゃないかと踏んで先回りして来たんだ。当たったな。せっかく君に会えたんだ、僕も色々確認したいこと、話したいことがあってね。他の二人にはあんまり聞かれたくないから、こっそり来たってわけ。さ、立ち話もなんだ、屋根の下にでも行こうじゃないか」


 ジークさんらしき中学生は、僕にパチンとウインクして、神社の境内に入るよう促した。

 何だか、変な感じがする。

 ジークさんは僕らの親より少し上だった。声もこんなに高くなかったはず。

 ディアナ校長が変化へんげしたときは、声までは変わらなかったような。


「ほ、ホントに、……ジークさん?」


 僕は彼の後ろをちょっと離れて歩きながら、恐る恐る尋ねた。

 ハハッと彼は笑って半分振り返り、


「あんまり興奮するなよ。また竜になるぞ」


 ……冗談とは言え、僕の秘密を知っている。どうやら、信じるしかなさそうだ。


じん郁馬いくま

「へ?」

「こっちではそう名乗ってる。陣でもいいし、郁馬でもいいし。雷斗や大河と“こっち”で会うなら、同じくらいの姿にした方が目立たないだろ。君の両親が高校生の頃は、それこそ学校に生徒として混じってたけど、あれから二十年、流石にもう、それは無理。これが限界」


 お堂の階段はまだ雨で濡れていて、昨日みたいに腰を下ろせる状態じゃない。

 ここで雷斗を待つつもりだった僕は、当てが外れて少しがっかりしていた。


「乾かすのはちょっと難しそうだな」


 ジークさんは腰に手を当て、うぅんと唸った。


「敷物でもあれば良いのか。ちょっと待てよ」


 えいっと声を上げ、ジークさんは両手をひょいっと挙げた。

 その手が降りたのと同時に、チェック柄のレジャーシートがフワッと宙を舞った。

 魔法!

 しかも、魔法陣も無しに、サッと発動した。

 階段に張り付くように敷かれたレジャーシートの上に、ジークさんはよいしょと腰を下ろし、僕を手招きした。


「ジークさ……、じゃなかった。陣さん、凄い。“こっち”でも魔法が?」


 手触りも、素材も、間違いなく僕が知ってるレジャーシートそのもの。

 一体何が起きたのか分からないくらい自然に発動された魔法。

 この人、ただ者じゃない。


「『陣さん』って……、君、ちょっとなんかおかしくないか。同じ年頃の子を、君は“さん付け”にするのか? 随分良い教育を受けたな。アレ? そう言えば昨日、懐かしい名前を聞いたぞ。君、父親のことを、別の名前に言い換えてたよね」

「シバ、ですか」

「――そう、シバ! そうか、君、シバの!」


 どさっとシートの上に荷物を下ろす僕を、陣さんは大げさに指さした。


「シバか! あぁ……、そうか。そういうこと。僕、シバとはそんなに親しくなかったから、あの後全然交流がなくて。いや、まぁ、仲間としてはアレだけど、個人的交流は特になかったんだ。そうか、シバ! 彼のところで育ったのか。じゃあ仕方ない。でも、せめて『陣君』じゃダメかな。見た目、君と同級生くらいだろ?」

「じ、陣、君……」

「そうそう。それで行こう」


 陣君はニコニコしている。

 どうやら、彼の中で何かの合点がいったようだ。


「あの、陣君」


 僕はシートの上に座りながら、遠慮がちに尋ねた。


「シバと、仲間? 一緒に戦った……?」


 うん、と陣君は頷いた。


「時に助け合い、時に怒鳴り合いながら、一緒に戦った。シバ、今では塔の要職だっけ? 噂は聞いてる。相変わらず仕事熱心な変態らしいじゃないか。怜依奈は元気してる? シバの変態ッぷりに困ってない?」


 母さんのことも知ってるのか。『一緒に戦った』ってことは当然か。


「元気です。もう“力”はないらしいですけど」

「大多数の人は、老化とともに“力”を失うからね。仕方ないさ」

「じゃあ、僕の“力”も」

「――いや、君は違う」


 陣君は急に険しい顔をして、僕を見つめた。


「“こっち”に飛んできて良かった。君の、リアレイトでの“力”の状態を知りたかった。どんな大きさの竜石を埋め込まれたのかは知らないが、全然隠し切れてない」


 腕を組み、目を細めて陣君は言った。


「このままだと、リアレイトでも君は、竜化する」

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