4. 大事なことは全部

 ベッドの上。

 また、力尽きて戻ってしまった。

 悲しむリサさんをどうにも出来ず、逃げてしまった。

 最悪だ。

 リサさんは懸命に明るく振る舞っていたのに、脳天気な人だなとしか思っていなかった自分にも腹が立つ。

 あれからどのくらい時間が経ったのか分からないけど、お腹が空いていることなんて、もうどうでも良くなっていた。

 時計も見ずに、ベッドに潜り込んだ。

 リサさんの孤独の重さを考えると、とても冷静ではいられなかった。






 *






 目が覚めたのは夕方で、僕はベッドの中にまん丸くなっていた。

 度重なる“干渉”で疲れ切っている。

 持久走でラストスパートした後みたいな疲れ方。全身筋肉痛だ。

 のっそりとベッドから起き上がって、僕は階下に向かった。身体の節々が痛い。頭も重い。

 夕方のニュースの時間。

 ダイニングテーブルに向かい、タブレットで本を読みながら、ニュース番組をテレビでチラチラ見るのがこの時間の父さんの日課。

 午後のパートから上がってきたばかりの母さんは、台所で冷蔵庫を開きながら、今日のメニューをあれこれ考えている。


「起きたか」


 父さんに声を掛けられ、僕は「うん」と小さく返事。

 シバの姿よりも、やっぱりこっちの姿の方がしっくりくる。

 僕は父さんに顔を見られたくなくて、ソファの方に座った。父さんの席からだと、僕の後頭部しか見えなくなる位置だ。


「随分疲れているようだったから、そのままにしていた。休みの日くらいはゆっくり身体を休めないと、体力も持たないからな」

「うん」


 ニュース番組を流し見ながら、上の空で答える。

 ソファに座ってても身体がギシギシしてて、何だかだるい。

 ふと視線を落とすと、腕が細かい傷だらけだった。ジーンズにも血がにじんでいる。まくると、膝を擦りむいていた。芝生の上で転んだから? でもあれは、レグルノーラで……。


「怪我してるじゃない」


 頭の上から母さんの声が振ってきた。

 慌てて隠そうとすると、見せなさいとばかりに手を引っ張られた。


「どこで転んだの」

「えっと……」


 答えに窮してると、


「“向こう”で転んだんでしょ。気をつけなさい。あんまり無茶すると、大変なことになるからね。傷口洗って、絆創膏貼って」


 なるほど、元干渉者だけあって、事情を直ぐに飲み込んでくれる。

 こういうところはありがたいかも知れない。だって、何も知らなければ、いちいち誤魔化さなくちゃいけなくなるから。

 それにしても、変だ。“干渉”って、意識だけが飛んでいくわけじゃないのかな。確か、干渉者はもう一つの世界で身体を“具現化”させているはず。だったら傷が共有されるはずはないと思うんだけど。

 言われたとおりに傷口を綺麗にして応急処置を終えると、父さんが、「結界の話だが」と切り出してきた。


「以前よりも強固なものに変えておいた。ただ、私の魔力がどれだけ持つのか、自信はない。モニカとの訓練は順調か」

「うん。順調だよ。……多分だけど」


 僕はダイニングテーブルの方にいる父さんに背を向けるようにして、ソファに座る。

 視線の先は、興味のないニュース番組に向けたまま。


「力を抑えなくちゃダメだって言われた。大きすぎるって」

「大きすぎる?」

「“神の子”には、どういう力が隠されているのかな。父さんは、何か知ってるの?」


 身体をよじって、チラリと父さんの方を見る。

 相変わらず視線はタブレットの方に向けたまま、父さんは無言だった。

 しばらく、膠着状態が続いた。

 ニュースの時間が終わり、天気予報に切り替わった。明日から来週始めにかけて、大気の状態が不安定になって雨が降る。局所的に強い雨が降るかも知れない。


「今でも見えているのか。……相手の心が」


 ガバッと振り向き、ソファの背に身を乗り出して、父さんを見た。

 台所から、カシャンと皿が割れた音。母さんが慌てて割れた皿を拾っている。


「し……、知ってたの……?」


 父さんはタブレットから目をそらさない。


「やっぱりそうか。多分、父親の能力を受け継いだんだな。あいつもよく、『人の感情に色が付いて見えることがある』と言っていた。レグルになってからは、人の心の中も見えているようだった」


 いつものように淡々とした声。


「お前にも小さい頃からその兆候があった。知るはずのないことを知っていたり、相手の気持ちを言い当てたり。……養子になってから、だんだん、言わなくなったようだが。それは単に、成長して、自分の異常性に気付いたからではないかと」


 ――いつの間にか僕は、父さんの真横に立っていた。

 興奮していた。

 モニカ先生に興奮しちゃダメだと言われたばかりなのに。

 息は荒くなっていたし、心臓の音も、確実に早くなっている。


「知ってたんだ?」


 父さんが、ゆっくりと僕を見上げた。

 照明が眼鏡に当たって、父さんの目はよく見えない。


「知っていたとして、お前の“特性”は変えられない。私達に出来るのは、自衛だった。心を読まれないようにする。そういう魔法をディアナにかけて貰うのが精一杯だった。それでも……、色は見えているらしいな。――私の色は、何色だ?」


 水色が、どんどん紫色と赤色に侵食されていく。恐怖と緊張、警戒。

 父さんは、何を恐れているんだ?


「僕が苦しんでいるのを知ってて、何も教えてくれなかったってこと?」


 バンッと、僕は両手をテーブルに付いた。

 父さんの手からタブレットが落ちて、テーブルに当たる音がした。

 ギュッと硬く口を結び、父さんは僕から目をそらす。


「何も知らなかったから、僕は苦しんだ。教えてくれたら違ったかも知れないのに」

「教えるつもりはなかったと言った」


「こんな秘密があるなら! 普通知りたいと思うでしょ?! 我慢したんだ。ずっとずっとずっと! 僕だけがおかしいって分かってても、相談できるところがない。――異世界と繋がってたから、僕が異世界の血を、竜の血を引いてたから! 髪の毛も、目の色も、普通と違った。色が見えるのも、心の中が見えるのも、結局はそこに繋がってた! 隠さないでよ! 血が繋がってなくったって、父さんは父さんだし、母さんは母さんだと思わせてよ! ……どうして、どうして隠すんだよ!!」


 肩で息をしていた。

 僕は必死だった。

 今までずっと抱えていたものを、一気に吐き出してしまった。

 ちょっと前の僕なら言えなかった。

 ここ数日で、僕の価値観が、生きている世界が、全部変わった。


「小学校のころ、自分の、子どもの頃の話、調べてくる宿題があったとき。生まれたばかりの僕を抱いた写真、見せてくれたよね。間違いなく父さんと母さんだったんだよ。生まれたときの様子とか、いっぱい話してくれたじゃん。抱っこしても泣き止まなかったとか、寝かせるのに苦労したとか、おむつが取れるのが人一倍遅くて心配したとか、よちよち歩きが可愛くてずっと眺めてたとか。母さんはすらすら答えてくれたし、――名前の由来も、話してくれたよね。『大きな河のように、人生が豊かでありますように』なんて! 父さんも母さんも、まるで自分が付けたみたいに言っていたけど、……全然、違うってことじゃないか!!」


 視界が歪み始める。

 空気が一気に固まって、それを外側から無理矢理揺らしているようだ。

 ガタガタと食器棚の皿やグラスが音を立てる。家具同士が振動し、ぶつかり合っている。

 台所から、アアッと母さんの声がした。泣いている。小さい声で、やめて、やめてと呟いている。


「誰なんだよ!! 僕の本当の親って人はさ!! どうして父さんも母さんも、僕にその人達のことをちゃんと話さないんだよ。おかしいじゃないか。十年前、本当は何があって僕が預けられたのか。その経緯は?! よく抱っこして貰った。あれは誰? 頬ずりしてたのは? 寝るまでトントンしてくれたのは誰なんだよ。僕の記憶はどこからどこまで本当で、どこから違っているのか……! どうして二人とも、本当のことを、教えてくれないんだよ……ッ!!!!」


 固く握りしめた拳を、何度もテーブルに叩きつけた。

 タブレットが数回バウンドした。

 音が遠くなる。

 感覚という感覚が麻痺して、まるで自分だけが暗く狭い場所に閉じ込められていくような錯覚に陥っていく。


「……教えるつもりはなかった」


 父さんは、また同じ言葉を繰り返した。


「お前と親子で居続けるために、大事なことは、全部隠していた」


 空色の中の、濃い色は消えていた。

 代わりに、悲壮感漂う青紫色が薄く差していた。


「レグルノーラには行かせたくなかった。“神の子”として苦しむ姿を見たくなかった。お前のことを、大事に思っていたから、どうにかして普通の暮らしをさせてやりたかったんだ。……そういう理由じゃ、ダメか。大河」


 父さんの、潤んだ瞳を見たのは、それが初めてだった。

 普通の暮らし。


「あれの……、どこが」


 一人で苦しんで、悩んで。

 それでも父さんは、普通の暮らしを、なんて言う。


「普通って、何だよ……」


 力が、抜けた。

 頭を抱えて、床にへたり込んだ。

 僕が見ていたのは、父さん達がいろんなものを犠牲にして、やっと作り上げていた“普通”だったんだ。

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