【3】命を狙われるということ

1. 安全じゃない

 異世界に行こうが行くまいが、僕の日常は変わらない。

 教室に入った途端、チクチクとした色が目の前に迫ってくる。


「なぁんだ。今日は来てんじゃん」

「あのまま不登校になられたら、俺達が虐めてるみたいになっちゃうだろ。セーフセーフ」


 僕の周囲には、悪意のある色と声が溢れている。

 ほんの少し人とは違う見た目だから、“特性”が強すぎて他人の顔を見るのが苦手だから、嫌がらせを受けるし、弄られるし、虐められる。――標的になりやすい。

 ついこの前、そう、それこそリサさんと出会う直前だった。昇降口で同級生に嫌なことをされた。言葉で責められたり、殴られたりしたんだ。

 すっかり忘れてた。そんなこと。日常茶飯事過ぎて、一つずつ覚えてられない。

 いつも通り、優等生の振りをしよう。

 なるべく他人と深く関わり合わないように気をつける。

 自分にしか見えていない色と、他人にも見えている色をしっかりと分けて認識して、無感情で接するんだ。


「しかし大河のヤツ、しぶといよな」

「誰とも喋らないで一日過ごせる? 普通は無理だな」

「分かるぅ。友達なんか一人もいないんじゃないの? 誰かと喋ってるの、見たことないし」

「ある意味変人? まともなヤツだったら、耐えられないだろ」


 優しい色よりも、きつい色の方が視界に入りやすい。

 嫌な気持ちになっている人、イライラしている人、心の中にわだかまりを抱えている人。

 それらに関わらないよう、僕は今日も必死に目をそらし続けている。

 休み時間には予習復習して。図書室で借りた本を読んで。

 そうしたら、誰とも喋らなくても時間は潰れる。

 僕にとって学校は、義務教育を全うするためだけに通う場所なんだ。






 *






 五時限目は体育。男子は空き教室で着替えることになっている。

 一年の時、着替え中に陰毛も赤毛なのかとからかわれてから、みんなと同じ時間に着替えることを避けていた。空き教室に誰もいなくなってから、最後に着替える。

 今日の体育はグラウンド。本当は早めに着替えて行くべきなんだけど、ギリギリで滑り込む。

 二階にある教室の窓から覗くと、校舎脇の桜並木の向こうに、少しずつ運動着姿のクラスメイト達が集まってきているのが見えた。

 急がなくちゃ。

 いそいそと着替えて、教室から出ようと――。


 あれ?


 視界に変な色が映り込んだ。

 廊下と教室の間にある大きな窓の向こうに、黒っぽいものが見える。

 何度も目を擦って、見間違いかどうか確認する。

 気のせい……じゃない。

 黒い煙が徐々に密度を増している。煙はグルグルと捩りながら、誰もいない廊下を大きく何度か回って、次第に細く、長くなっていった。


「な、何だ……?」


 黒い、大蛇? いや、大蛇じゃない。よく見ると手足。大人の人間くらいの、巨大なトカゲだ……!


「嘘。ここ、学校なのに……!」


 ブルッと、全身が震えた。

 大トカゲはにゅるにゅると気持ちの悪い動き方をしながら廊下を這い、ビタッと、教室との間の窓に張り付いた。

 トカゲのつるつるした腹がガラスの向こう側に見える。

 ミシッと小さな音がした。

 もしかして、窓ガラスにのしかかってる……?


「え、ちょっ……!」


 バリンと大きな音を立て、ガラスが割れた。


「うわぁっ!」


 僕は咄嗟に両腕で頭を庇った。

 机の上に、床に、ガラスが散る。

 窓を突き破り、大トカゲが教室に……!

 黒いもやを漂わせ、べたん、べたんと気持ち悪い音を響かせながら、そいつは教室を歩き出した。

 机をなぎ倒し、落ちた着替えやバッグを踏んづけ、ガラスの破片も関係なく、太い尻尾をくねくねさせながら、僕の方に近付いてくる。

 どうしよう、みんなの荷物が。

 ――なんて、考えてる場合じゃなかった。

 大トカゲの鱗は、窓から差し込む日の光に照らされて、角度によって濃い紫色にも深緑色にも見える。赤いベロをニュッと出してはハァハァと息をしているのがまた、気持ち悪い……!

 所々煙のように溶けて見えるところを見ると、完全に実体化しているという感じでもないようなんだけど……。



――『あれは、この世界からはみ出した、お前に対する憎悪だ』



――『家の周辺、通学路、学校、商店街。お前の生活圏は、決して安全ではなくなった』



 ディアナ校長と父さんの言葉の意味が、何となく分かってきた。

 知らないうちに、僕の周囲から日常は消えてきていたってこと……!

 ギラリと、大トカゲの目が光った。


「ヒィッ!」


 よろけそうになって、近くの机に手を付いた。と思ったら失敗した。

 そのまま床にひっくり返る。

 逃げなきゃ。逃げなきゃいけないのに、足が、足が動かない……!


「ガラスの割れる音が」

「どこの教室だ」


 廊下の向こうから先生達の声がする。

 ざわめき立つ生徒の声も。


「席から立たない!」

「どこの教室ですか?!」


 ヤバい。

 ヤバいヤバいヤバい。

 誰かが来て、こんなところを見られたら。

 ――魔法。

 結界魔法を張れと、確か父さんが。

 だけど魔法なんて使い方も分からないし。

 混乱しているうちに、大トカゲが眼前に迫っていた。大きな口がグワッと開く。

 られる。

 頭を両手で抱え、僕は身体を丸めるしか出来なかった。

 凄い力が眠ってるなんて言われても、使い方が全然分からない。

 これじゃ、意味ないじゃないか……!

 ――ザッと、どこからともなく現れた人影が、僕と大トカゲの間に立った。

 淡い緑色の光を感じて顔を上げる。

 スーツ姿の男。

 目の前に展開される、水色の魔法陣。


「無事か、大河!」

「父さん!」


 結界魔法が張られ、教室の中は緑色で満たされていた。

 魔法陣から出現した水のうねりが大トカゲに向かっていくなか、結界の向こう側、廊下に人影が現れる。


「何ともありませんよ」

「おかしいですね。確かに、ガラスの割れる音が」


 数人の先生がこちら側を覗き、首を傾げて去って行くのが見えた。

 凄い。

 これが、結界魔法。

 もしかして父さんて、かなり強い……?


「ギリギリ、間に合った感じだな」


 父さんは口角を上げた。

 水の魔法が大トカゲの身体を次々に貫くのが見える。

 仰け反る大トカゲ。


「動くなよ、大河。今、終わらせる」


 いつの間にか父さんの手には、鋭く長い剣が握られていた。

 タンッと、父さんは床を蹴り、大トカゲに向かっていった。

 黄色い魔法の光を帯びた剣が舞い、大トカゲの身体が分断される――!

 どちゃどちゃどちゃっと、鈍い音を立てて、バラバラになった大トカゲの身体が床に落ちた。かと思うと、じゅわっと音を立てて黒い煙になり、消えていく。飛び散ったトカゲの体液も、やっぱり黒い煙になって消えていった。

 ……今、分かった。

 こうやって、助けてくれていた。

 僕に被害が及ぶ前に、周囲に危害が加えられる前に。


「怪我はないか」


 振り向いた父さんの手に、もう剣はなかった。

 パンパンと手を払い、周囲を見渡している。


「派手にやられたな。他の誰かを巻き込んだわけじゃなさそうだし……、あとはここをどうにかすれば」

「し、仕事中じゃ、ないの?」


 まだ足がガクガクしていて、立てそうにない。

 僕は床に座ったまま、父さんに聞いた。


「仕事中だろうとそうでなかろうと、飛んでくるさ。終わったらまた戻る」


 当然みたいに、言うんだな。父さんは。


「さぁて。抜け出した会議に、どうやって戻ろうかな……っと」


 肩や腕をほぐしながら、父さんは大きく息を吐いた。

 どこもかしこも、めちゃくちゃだった。

 散乱したみんなの着替えは、どれが誰の物なのか分からないくらい、乱れ飛んでいた。

 ガラスの破片とごっちゃになってたり、大トカゲに踏まれたり、飛び散った体液が染み込んでぐちょぐちょになっている物まである。

 机も椅子も、元の位置が分からないくらいバラバラで、中には大トカゲの体重でひしゃげている物もあった。


「よし」


 気合いを入れるように一言。

 父さんはグイッと右手を突き出し、魔法陣を展開させ始めた。

 リサさんのものとは違う、不思議な模様。細かくて、やたらと文字の多いそれは、まるで父さんの性格を表しているような。

 異世界の文字を刻んだ魔法陣が淡い桃色の光を放っていく。結界魔法の内側目一杯に広がった光は、それぞれの物を、元ある場所へと逆再生するように戻していった。


「す、凄い……!」


 思わず声が漏れた。


「凄いか。だけど、お前が本来の力を使えるようになったら、多分もっと凄いことが出来る」

「“神の子”だから?」

「そういうこと」


 話している間に、教室はどんどん元に戻っていった。

 机の場所も、みんなの着替えも、廊下に面したガラス窓も、何もかもが元通り。

 僕の心も、どうにか落ち着いてきた。

 安心した途端、ちょっぴり開いた窓の外から、体育の授業が始まった音が聞こえてきた。


「授業、始まってるじゃないか」


 いつの間にか父さんは、窓から外を覗いている。

 ようやく立てるようになった僕は、父さんの隣から外の様子を覗った。

 準備体操を終えて、これから校舎の外周を走るところだ。


「体育なんだろ」


 運動着姿の僕を見て、父さんが言う。


「あ。う、うん」


 だけどなんだか、授業に行けるような気分じゃない。

 あんなことがあって、直ぐに日常に戻れるわけがない。


「無理して学校に来てるのは、知ってる。私達に心配かけたくなくて、虚勢を張ってることも」


 父さんの零した言葉に、僕はドキッとした。

 もしかして、虐められてることも知って。


「血が繋がってなくても、そういうところは似てるんだよな」


 ため息と一緒に聞こえた一言が、ぼんやりしていた僕の頭にガツンと響いた。

 ふと顔を上げると、もう父さんはいなかった。

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