2. 夕暮れの土手下で

 いつベッドに入ったのか、全然記憶にない。

 多分、風呂には入り忘れてる。歯磨きだってしないで寝てしまったらしい。口の中がねっとりして気持ち悪い。

 時計を見ると、登校時間はすっかり過ぎていた。しまったと思ったけど、頭がぼうっとして、まだ夢の中にいるみたいで、学校には行ける気がしなかった。

 どうしようと自室から出てリビングに向かうと、ダイニングテーブルの上に、ラップのかけられた朝食と一緒に、紙切れが一枚置かれていた。



《大河へ

 今日は体調不良で学校を休みますと連絡しました

 無理しないでゆっくり休んで

 もし もっと聞きたいことがあるなら

 いつでも話すから

 隠していてごめんね》



 母さんの字だった。

 僕は咄嗟に紙を丸め、ゴミ箱に放り投げた。


「嘘じゃないんだ……」


 いろんなことがありすぎて、頭の中はぐちゃぐちゃのままだ。

 椅子に腰掛けて、朝食の上のラップを外した。

 レースカーテンから、少し高くなった日差しが漏れて、リビングを照らしていた。






 *






 ぼうっとしたまま、ただただ時間だけが過ぎた。

 朝ご飯を摘まんだあと、何をしていたのか殆ど記憶にない。

 昨日の出来事を反芻して、何度も頭を抱えた。

 僕自身の記憶と、リサさんの言葉、父さんと母さんとした話。

 違和感の正体が分かったことで、僕は何度も孤独感に襲われた。


 夕方四時を過ぎてから、僕はいそいそと出かける準備をした。シャワーを浴びて、歯を磨き、髪の毛を整えて、着替えてから外に出る。学校をずる休みしてしまったから、私服だ。パーカーにスウェットパンツ。散歩に出るにはこれくらいで良い。平日の昼間に私服なんて、何だか気持ち悪いと思いつつ、僕は住宅街を抜けて、河川敷へと向かった。

 いつも下校時に出会う人達が、普段とは逆方向に行く僕とすれ違う。だけどその誰もが、そんなこと気にするでもなく、日々のルーチンどおりに動いている。


 少し日が傾いて、日差しは柔らかくなってきていた。

 土手に上がると、川から涼しい風が吹いてきて、僕はブルッと大きく体を震わせた。

 昨日のベンチ、どこだっただろう。

 記憶を辿りながら、土手を進んでいく。

 いつも下を向いて歩いているから、景色なんて半分も見ていなかったことを後悔した。

 あの時はそうだ、丁度土手下の医者の看板がチラッとだけ見えていた。この辺で待っていれば大丈夫だろうか。

 僕は土手下のベンチで待つことにした。


 ベンチの背もたれに身を預け、僕はまた、ぼうっと川面を見ていた。

 大きく波立つわけでもなく、昨日と何かが違うわけでもない、いつもと同じように流れる川の音。

 ぼうっとしたまま、どれくらい経ったか。

 いつの間にか日は更に傾いて、影を長くし始めていた。

 向こう岸に見える商店街の看板にも、少しずつ明かりが付いていた。

 人の気配がして、僕はやっと背もたれから体を引き剥がした。


「ちゃんと来てくれたんだ。嬉しい」


 リサさんはまた、ウチの中学の制服を着ている。

 夏服のセーラーは何だか寸足らずだし、スカートの丈も全然足りてない。昨日見たときよりも、太ももが露出しているように見える。

 夕陽に映える長い金髪。整った顔。

 彼女の存在そのものが、異世界染みていた。

 リサさんは、夕焼けに溶けそうなくらい、綺麗なあんず色を纏っている。


「その格好。……さては、学校休んだでしょ? 初めての干渉は疲れるもんね。“神の子”なんだし、そのうち干渉に慣れてきたら、ひょいひょい飛べるようになっちゃうんじゃない?」


 リサさんは、ベンチの右隣にドスンと腰を下ろして、長い足をひょいと組んだ。


「……そんなの、分からないよ。まだ、何かフワフワしてる感じがする」

「フワフワ?」

「なんて言うかな。地面の中に、こう、すうっと吸い込まれていくような感じ? あの感覚が何度も蘇ってきて。僕の身体、あのときどうなっていたのかなって、一日中考えてた。戻ってくるときはどうやって戻ってきたんだろうとか、考えれば考える程、頭がグルグルしちゃって。地面から吸い込まれて、空から落ちていったよね。……ってことは、レグルノーラって、やっぱり地下世界?」


「あはは。まだ言ってる。違うよ、並行世界だってば」

「並行してるのに、時間の流れが違うっていうのも、分かるような分からないような」

「大河君、面白いね。そんなに難しいこと、いっぱい考えてたんだ。心配しなくても、そのうち何となく分かってくると思うよ。感覚でね!」


 褒められてるんだか、馬鹿にされてるんだか。


「異世界に行けたのは、面白かったけど」


 僕はベンチの背もたれにグッと寄りかかって、大きく息を吐いた。


「ずっと、騙されてたのかなって思って」

「騙されてた? シバ様に?」

「……シバって、レグルノーラではどんな人?」

「どんなって……、リアレイトとは全然違うお姿をしてるから……。そこから説明した方が良い?」

「いや、そうじゃなくて。有名? 偉い人なの?」


「ああ、そっちね。うん。偉い人。“塔”っていうのは、レグルノーラの中心部にある、白くて高い建物のことなんだけど、ほら、昨日飛んだときに見えたでしょ? あそこで働いてらっしゃるの。“こっち”でのお姿もキリッとして素敵だったけど、“向こう”では全然違う。もっとお若い感じ? 魔法学校に、ちょくちょくいらっしゃるんだよね。ディアナ校長と懇意みたいで。あまりにも素敵なお方なものだから、ファンクラブまで出来ちゃってて」

「……へぇ、そうなんだ」


 リサさんは楽しそうに話してくれたけど、僕には全然ピンとこない。


「こっちのご両親、お二人とも干渉者だって聞いてるよ。レグル様と共に世界を救った仲間なんだって」

「二人とも?」

「お母様の方は能力がなくなって、今は干渉出来なくなってるって話だったかな」

「そうなんだ……」


 オレンジ色が強くなった空を、小鳥の群れが飛んでいた。

 向こう岸の土手を走るのは、ウチの中学の陸上部かな。見覚えのある顔が幾つかある。


「さっきから、『そうなんだ』ばっか。“神の子”に期待しすぎてたのかな。本当に、パッとしないね」


 リサさんは、オブラートという言葉を知らないらしい。

 そもそもレグルノーラとかいう世界には、オブラートも無いのかも。

 腕組みをして、少し顔を傾けながら、リサさんは僕と同じように川面を見つめている。


「きゅ、急すぎて、頭が混乱してるんだよ。本当の父親がどうの、神の子がどうの。僕が芝山家の子どもじゃないってこと以外、あんまりよく分からなかった。レグルって人が父親だって言われたところで、今は会えないわけでしょ。教会に幽閉されてるってことは、多分、そういうことなんだよね?」


 口に出したらまた、胸が苦しくなってくる。

 違和感だけで終わらせたかったのに、もう、すっかり現実になってしまったのが、本当に辛い。


「レグル様は、ここ十年くらいお姿を現してないんだって。古代神教会が口を閉ざしてるらしくて、居場所も分からない。世界に光を取り戻した、平和の象徴だったはずなんだけど、幽閉され続けてるなんて。意味、分からないよね。その上、大河君の命まで狙ってる」

「もっと、早く知りたかった」

「――君のこと、愛しているから、教えられなかったんだよ」


 リサさんは、無責任に言う。


「どうかな。人の心なんて、分からない」

「嘘。心の中が見えるくせに」


 僕はばつが悪くなって、わざとリサさんに背を向けるようにして座り直した。


「この世に、信じられる人なんて存在しない」

「へぇ。じゃあ、どうして今日、来てくれたの? しかも、だいぶ早い時間から待っててくれたみたいじゃない。信じられないくせに来ちゃったの?」

「こ、校長先生が、待ってなさいって言ったから」

「まっじめぇ~! そうか、大河君、約束は破らないタイプか。良いこと聞いた」


 リサさんはそう言って、僕の背中をわざとらしく叩いた。

 僕は思わず向き直って、


「と、父さんが、出来ない約束はするな、約束は守るためにあるって……!」


 言ってから、ハッとする。

 僕は慌てて口を押さえたけれど、リサさんは口元を緩めて、眉をハの字にしていた。


「うふふ。“こっち”のご両親、とってもいい人なんでしょ。大河君を見てれば分かるよ。長い年月、一緒に過ごしてきたんだし。大事だからこそ、関係を壊したくなかったんだと思う」


 リサさんはもっともらしいことを、当然のように言った。

 心の底から心配しているとか、ちゃんと話を聞いてあげようとか、そういう色じゃない。

 リサさんの杏色には、とりあえず無難に話をしておこうとでも思っているのか、なんだかあっさりした透明感があった。

 だけど、少しだけ気分が晴れたのは確かだ。

 昨日の夜からリサさんと喋るまで、誰とも喋っていなかったから。


「喋ったら、スッキリした?」


 リサさんはそう言って、また僕の顔を下から覗き込む。

 明るい緑色の瞳が眼前に迫って、僕は思いきりのけぞった。


「い、いや、あの。う、うん」

「じゃ、今日も行こっか。レグルノーラ。大河君、手、貸して」


 僕はリサさんに言われるまま、右手をそっと差し出す。

 リサさんの手が、僕の右手を包む。


「誘導するね。この前と同じように、目をつむって、深く、深く深呼吸して。意識がだんだん地面の中に落ちていく……。しっかり、付いてきて……」

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