5. 古代神信仰
ディアナ校長は、心苦しそうに眉をハの字にした。
悲壮の深い紺色が、周囲に少し、漂い始めていた。
どうしてと聞き返す間もなく、彼女はリサさんに声をかける。
「ご苦労だったね。悪いが、二人きりにさせてくれないか」
「わ、分かりました。大河君、あの」
「――これからのことは後で伝えるから。リサは寮でゆっくり休みなさい」
「はい、先生……」
ゆっくりとドアが閉じ、リサさんの足音が遠くに消えていったのを確認してから、ディアナ校長は静かに息を吐いて、僕の肩を叩いた。
「まだ、集中力は続きそうだね。少し、話がしたい」
本棚に挟まれた執務机の後ろに、大きな窓がある。ディアナ校長は机の脇を通って僕を窓際まで案内した。
ここは校舎の何階だろう。高い位置から、窓の向こうに広がる西洋風の古い町並みがハッキリと見える。
背の高い煉瓦屋根のアパート群、先っぽの見えない巨大な白い塔、奥には背の高いビルがにょきにょき生えている。街路樹が青々と茂り、人々が街を闊歩して、空を飛ぶ車やバイクが時折視界を横切っていく。
近代ヨーロッパのようにも見えるし、少し先の未来のようにも見える。何だかとても独特な世界だ。
「表面上は、平和に見える。少なくとも、お前の父親が世界を救う前よりは」
「……平和じゃ、ない」
窓ガラスに映ったディアナ校長が、こくんと小さく頷いた。
「長い間、この世界は雲に覆われていた。日の光も射さず、どんよりと湿っぽくてね。……一匹の竜がいたのさ。気の遠くなるような年月を孤独に過ごした白い竜は、この世の全てを恨んで、世界中を分厚い雲で覆い隠してしまった。かの竜は、レグルノーラとリアレイト、二つの世界を破壊しようともくろんだ。それを止めたのがお前の父親だ。仲間達と一緒になって、白い竜を止め、共に生きる道を選んだ。今、レグルノーラの空が明るいのは、お前の父親が全てを
リサさんにも聞いた。
空の上で、確かそんな話を。
「本当はそこで、『めでたしめでたし』となるはずだったんだ。ところがね、現実はそう甘くない。どこかで物事が解決すれば、別のところで問題が発生するように出来ている。――皮肉なもんだね。お前の父親が世界を救わなかったら、この空は取り戻せなかったのに、それが原因で、レグルノーラは二つに分断されてしまった」
急に話の雲行きが怪しくなり、僕はドキッとして、ディアナ校長の方に顔を向けた。
校長は窓の外、遠くを眺めたまま、僕の方を見ようとしない。
「大河、お前は神を信じているか」
ディアナ校長は唐突に、変な質問をしてきた。
「か、神様、ですか」
「リアレイトにも宗教があるだろう。お前は神を信じているか」
「あん……まり」
ディアナ校長は更に話を続ける。
僕は黙って、耳を傾ける。
「レグルノーラにも、例に漏れず神話があってね。昔々、美しく光り輝く鱗で覆われた竜の神様が、この世界を創り上げたのだというものだ。この世界には沢山竜が存在するが、竜神の鱗は他の竜とは違い、固定の色を持たない、特別な色をしていたのだそうだ。強大な力を持つ
ニッとディアナ校長は口角を上げた。
「古代レグル神教では、背中に竜の羽を持つ
ディアナ校長の指さす先に、住宅地に埋もれるようにして、ひょっこりと尖った白い三角屋根が覗いているのが見える。赤茶系の多い町並みの中、教会の壁は白っぽい石造りで、よく目立つ。
「魔物が、お前を襲ったな」
「は……はい……」
「あれは、この世界からはみ出した、お前に対する憎悪だ」
「憎悪?」
唇を歪ませて、ただただ苦しそうに、ディアナ校長は言葉を紡ぐ。
灰色と藍色が絡み合いながら彼女の周囲を漂っている。とても辛く、悲しい気持ちの時に漂う色だ。
「……私が悪いのだ。全ては私の責任。私がお前の父親を、“レグル”と呼んでしまったばっかりに、とんでもない方向へ、世の中が動き出してしまった」
「レ、グル……?」
校長は静かに頷いた。
「彼はね、誰一人悲しまない世界を創りたかったようなのだよ。そのためには手段を選ばず、自分の信じる道へと突き進んだ。……その結果、人間でいることを捨てたのだ」
聞き捨てならない言葉が聞こえ、僕は思わず前のめりになる。
そんな僕の様子を確認しながら、校長は話を続けた。
「“干渉者”の能力は様々で、皆が一律に同じ能力を使えるわけではない。お前の父親が唯一、他の干渉者と違ったのは、“竜と同化して戦う”ことが出来たということ。自分の身体に竜を入り込ませて、時に竜人化したり、竜化したりする。全く無謀な戦い方だ。彼はそれを最終手段として用い、そのまま竜との同化を解かなかった。結果、半分人間、半分竜の姿になり――……」
そこまで言うとディアナ校長は、少し身体を傾けて、僕の顔を見た。
僕より少し目線が高いだけの、小柄な女性。校長室に通されたときの圧迫感は既に無い。
両目に浮かべた涙は、今にもこぼれ落ちそうで、でもギリギリ落ちない位置で止まっている。
「教会で見たレグル神像と、竜との同化によって“神の力を得た”お前の父親の姿があまりにもそっくりでね。思わず、私は神の名を口にしてしまったのだ。軽率だった。私の何気ないひと言に、普段古代神信仰とは無縁な人々も、口々に彼のことを『レグル様』と呼ぶようになってしまった。――それが、古代神教会の逆鱗に触れたのだ」
ゾクッと背筋が凍り、僕は思わず身震いした。
ディアナ校長は頭を手で押さえ、必死に苦しみを堪えているように見えた。
「信仰している神の名を、異世界からやって来た人間が名乗り始めたら……いや、正確に言えば、本人は決して自ら名乗らなかったのだが、そうだとしても、教会の信徒は決して良い気持ちではなかったはずだ。お前の父親は、やがて教会から“偽神”と揶揄されるようになった。古代レグル神教は、一神教。絶対的な存在である創造の神を侮辱したと、信徒達は声を上げた。レグルノーラは次第に混沌に陥り、教会派と、それ以外に分かれて対立が始まった。お前の両親は否応なしに争いに巻き込まれていった。そして……、お前の母親が、行方不明になった」
感情を押し殺したディアナ校長の言葉が、次々に僕の心に突き刺さってゆく。
「行方、不明……?」
僕の顔は、自分でも分かるくらい引きつっている。
「リアレイトとレグルノーラを行き来しながら、お前の両親は二重生活をしていたのだがね。ある日突然、母親の方がいなくなった。どちらの世界からも気配が消えてしまったのだ。生死も……分からない。まだ幼かったお前を残され、リアレイトでの生活もままならなくなっていた彼は、友人夫婦にお前を託すことにしたようだ」
「それが……、シバ?」
「教会と信徒達の行動は更に過激化した。偽神を信じる人間は排除せよと叫び歩いたり、あらぬ噂を
「幽……閉……?」
「十年近く前の話だ。あれから先、レグルを見た者は居ないのだ」
ディアナ校長の悲しそうな顔が、視界の端っこに見えた。
「古代神教会は、お前の父親を幽閉した後直ぐに、お前の命を狙い始めた。それを阻止してきたのが、今の父親、シバだ。“神の子”であるお前は、教会にとって特に目障りだったようだ。『“偽神の子”は許しておけない』『やがて“偽神”同様の力を得るかも知れない。その前に殺すべきだ』というのが、教会側の言い分らしい。度々リアレイトに魔物を送り込んだり、偵察を遣ったりしていたようだが、それをずっと、シバは一人で排除し続けてくれた。お前が今生きているのは、シバのお陰というわけさ」
――唐突に突きつけられた言葉が真実なのかどうか、僕には判断出来なかった。
けれど、ディアナ校長の周囲に漂う色には嘘偽りがなくて、とんでもないくらい深い悲しみと、苦しさが痛いくらいに伝ってくる。
確かに心の中までは見えないけれど、それでも信じるに値する程の重さがひしひしと伝わってきて。
作り話だなんて思えなかった。
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