4. ディアナ校長
リサさんの誘導に身を任せ、僕は目をつむって、ゆっくりと息を吐いた。
浮遊感が消えていく。
少しずつ、リサさんと繋いだ手から、身体中の感覚を取り戻していく。
息を吐いて……、吸って……。
土手下のベンチに座っていたはずの僕は、どこか建物の中にいることに気が付く。
風の流れが止まった。外の香りがしない。代わりに、少し古めかしい建物の臭い。
「はい、目を開けて良いよ」
再び、目を開ける。
リサさんの手。
僕はホッとして、顔を上げた。
優しく笑う、リサさん。――けど、僕の学校の制服じゃない。黒っぽいフード付きのローブと、茶色く
辺りを見回せば、建築様式が日本とは全然違う、どちらかというと中世ヨーロッパみたいな建物の中。高い天井と、あちこちに刻まれた彫刻や飾りが印象的だ。
整然と並べられた長テーブルは固定式で、僕らが座っている長いベンチ型の椅子共々、良い感じの小さな傷を蓄えていた。
「凄いねぇ、やっぱ“神の子”は違うわ。一発で身体を“具現化”できちゃうんだもん」
変な感じ。さっきと格好が違うから?
身に纏う杏色が、“向こう”で見るのより濃い気がする。
「……大丈夫?」
と、リサさんがまた、僕のことを下から覗く。
僕は慌てて手を離して、
「だ、だだ、大丈夫」
目をそらした僕を見て、リサさんはぷっと小さく笑った。
「そうやって強がるところは、なんか可愛いんだよね」
リサさんの言葉に目をしばたたかせていると、また彼女は笑って、
「どう? リアレイトにいるときとあんまり感覚も変わらないでしょ? これが“干渉者”の力。精神力が続けば長い間“具現化”していられる、つまり長く滞在できるけど、まだまだひよっこの場合だとせいぜい数分。あんまり短いと現実味がないから、夢の世界に迷い込んだのかなって思ってしまう程度ってこと。で、君の身体は今、あの土手下のベンチに一人で座っている状態。私は本体に精神を戻しているから今は完全体だけど、さっきまでここにいた私は、眠っているような状態、つまり抜け殻だったってわけ」
わかりやすくは語ってくれたけど、ちょっと難しい。
「ゆ、幽体離脱、してた……」
「とは、ちょっと違うかな。幽体って概念が“こっちの世界”にはないからよく分からないんだけど、“干渉能力”によって“具現化”された身体は、“元の世界”と繋がってるの。“こっち”で怪我したら、“あっち”でも同じところが傷つくし、“こっち”で死んだら、“あっち”でも死んじゃうんだから、注意してね」
何だかややこしい話になってきた。
首を傾げる僕を見て、リサさんは困ったような顔をしながらも、ちょっぴり楽しそうだ。
「ま、そのうち分かるようになるよ。ちなみに、能力が高ければ、“具現化”と同時に自分の姿を自由に変えることだって出来ちゃうんだよね。私はあいにく服装を変えるので精一杯」
リサさんはそう言って、黒いローブの端っこを指で摘まみ、ヒラヒラさせた。
魔法学校の生徒と言うだけあって、魔法使いみたいな格好だ。ちょっと軍服っぽいのもカッコいい……と、思うんだけど。
「――なんて、お喋りしてる場合じゃなかった。大河君の精神力がどれくらい続くか分からないから、早いとこ用事済ませないと」
パンと胸の前で手を叩いて、リサさんはすっくと立ち上がった。
「行くよ」
「行く? どこに?」
「言ったじゃない。ディアナ校長のとこ。私はよく知らないけど、校長は大河君のこと、よくご存じらしいよ。そして、君の本当のご両親のことも」
リサさんは僕の手を引っ張って、無理矢理立ち上がらせた。
*
まるで歴史ある図書館か博物館の中を歩いているみたいだ、と僕は思った。
この聖ディアナ魔法魔術学校というところが、どれくらい歴史のあるとこなのかはよく分からないけれど、建物がとても古いということだけはよく分かる。
歩く度に床板がキシキシと鳴る。薄暗く、ひんやりとした廊下を、リサさんの後に続いて抜けていく。
廊下に転々とあるのは昔のガス灯みたいな風情のある照明で、何で光っているのか、灯りが時折チラチラと揺れる。
こちらも夕暮れ時らしく、木枠の窓ガラスを通して柔らかい橙色の日が射していて、建物の遠いところで子どもの話し声や笑い声が聞こえていた。
僕は不意に、土手下のベンチに残してきた自分の身体が心配になった。何十分も一人で何もせず座ったままなら、誰かが心配して声をかけるかも知れないし、気を失っているのと同じようになっているのなら、救急車を呼ばれたりするかも知れない。
「だ、大丈夫なの? “あっち”の僕……」
声がやたらと廊下に響いた。
リサさんは半分振り向いて、
「あ、それを心配してるんだ。それなら大丈夫。“こっち”で過ごした時間は、“あっち”じゃ一瞬だから」
……また、変なことを言う。
「とにかく大丈夫だから気にしない気にしない」
リサさんが足を止める。
重厚な木のドアにはプレートが付いていて、この世界の文字で何か書いてある。
「見た目、ちょっとキツいけど、とってもいい人だから」
リサさんは僕にウインクしてから、ドアを三回ノックした。
「リサです。連れてきました」
『お入り』
低い女性の声で返事が来たのを確認してから、リサさんはゆっくりとドアを開け、僕を中へと案内した。
途端に、川縁の臭いがフワッと吹き付けてきた。建物の中にいたはずなのに、夕陽が直接降り注いでくる。
――土手下のベンチ。
僕はハッとして周囲を見回した。
「あれ? リサさん?」
リサさんは何ともなさそうに前を歩いている。
も、“元の世界”に戻ってきた? ……にしては、何かがおかしい。
ふと背後に気配を感じて振り向くと、真っ黒い魔物がそそり立っていた。
さっきの魔物だ。
僕は咄嗟に身構える。チラリと、視界の端っこに黒いものが見えて左を向くと、そこにもまた一体、魔物がいる。
二体も……?!
僕は慌てて右方向に身体を向けるが、そちらにも黒い魔物が待ち構えていた。
真っ黒い魔物は更に増えた。
どんどん増殖して、それぞれ僕に向かって真っ赤な目を向けてくる。
「何してるの、大河君。そんなところで身構えて」
リサさんの脳天気な声。
「み、見えないの。魔物が、僕を狙って」
僕は焦っているのに、リサさんは小馬鹿にしたように僕を笑った。
「ここ、学校だよ? 魔物なんか侵入してこないよ」
「学校? 土手だよ」
……おかしいのは、僕?
汗でぐっしょりの手を握り直して、顔を上げた。
幻想かも。
思った途端、ガラスが割れるような音と共に画面が弾け、本来見えるべき光景が僕の視界にようやく入ってきた。
古い洋館の奥にある書斎のような場所。沢山の本棚と、黒い執務机。その手前に立つ、黒い肌の美しい女の人。
「自分で術を破ってきたね。面白い」
リサさんの記憶の中で見た人だ……!
僕は息を呑んだ。
真っ赤な口紅が印象的なその人は、所々に赤をあしらった黒いローブを着こなす、妖艶な魔女だ。癖の強い黒髪を高いところで一つに結って、腕組みをして僕を見定めている。
彼女の周りに漂うのは、優しさを存分に含む、透明な薄紅の色。
「術? ディアナ校長、大河君に術かけてたんですか」
リサさんがきょとんとして尋ねると、ディアナ校長はうふふと口角を上げた。
「“リアレイトの人間”にしかかからない術だ。“干渉能力”が高ければ高いほど、術に嵌まりやすい。彼の父親にも、初めて会ったときに同じことをした。最近恐怖を感じたものを見させたのだがね、父親の方は高いところが苦手だったらしく、空からの景色を、そして息子の方は……、そうか、魔物が怖かったか。私はてっきり、目ん玉がゴロゴロ出てくるかと思って気が気じゃなかったが、そこまで人目に怯えてはいないようで少し安心したよ」
年齢不詳の魔女は、僕の方を見て嬉しそうにしている。
僕の本当の父さんのことを知っている、というのは、あながち嘘ではなさそうだ。
ディアナ校長はカツカツとヒールの音を響かせながら僕のそばまで来て、僕の顔をまじまじと見た。
無理矢理視線を合わそうとするのが分かって、僕はいつもの癖で顔を僅かにずらした。ところが校長は、両手で僕の頬をはさみ、ゆっくりと自分の方に僕の顔の向きを正してしまった。
「覚えているかな。私は幼いお前と何度か会った。その頃はまだ、自分の力に恐怖なんて感じてなかったはずだが、リアレイトで相当揉まれたのだな。安心しなさい。私の目を見ても、何も見えないはずだ。人に心を読まれると色々と難儀な立場なんでね。普段から、そういう“特性”や魔法は跳ね返すようにしているのさ」
確かに、ちょっとキツそうな顔と口調だけど、漂う色はとても暖かい。
悪い人じゃないし、怖い人じゃないようだ。
僕は恐る恐る、彼女の目を見た。
吸い込まれそうな黒い瞳は、心なしか潤んでいる。
「母親と同じ目の色をしている。髪の毛もあの
言いながらディアナ校長は、僕の頬をゆっくりと撫でた。
「顔は父親譲りかな。もうちょっと自分に自信を持った方が良いね。そうしたら、父親より、もっと男前になりそうだ」
最後に頭を数回撫でて、ディアナ校長はようやく僕から手を離した。
「自己紹介が遅れたね。私はディアナ。この聖ディアナ魔法魔術学校の校長をしている者だ。お前の両親のことはよく知っている。お前のことも、よく知っている。よく来たね。お前がやっと、“干渉者”として自分の力と立場を理解できる年齢に達したことを、嬉しく思う。同時に、お前に辛い現実を突きつけなければならないことを、どうか、許して欲しい」
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