3. レグルノーラへ

 手でひさしを作って立ち上がり、リサさんは大げさに辺りをぐるっと見回した。

 今日も今日とて、夕暮れの土手からは帰宅の途に就く学生の姿、散歩に勤しむ人達、そして部活動の中学生の姿と、いつも通りの町並みくらいしか見えない。

 何かが違うと言えば、異世界からやって来た魔女見習いだというリサさんが目の前にいて、変な魔物が湧いて、父さんがリサさんと変な話をして、僕を異世界レグルノーラに誘ったってことくらい。

 僕にとってはもの凄く大変な出来事が次から次へと起きているんだけど、世の中にとってはとても些細で、そんな変な話を誰が信じるんだろうと言うくらい、何事もなく静かな時間が流れている。


「よっし、魔物もいないし、行こうか」


 そう言われて、僕はピンと背筋を伸ばし、こくりと頷いた。

 ふと、荷物を持って、ベンチから立ち上がろうとすると、リサさんは慌てて、


「あああ~、いいのいいの。置いといて大丈夫。別に、大河君がここから消えるわけじゃないから」


 ……変なことを言う。


「異世界に、行くんだよね」

「行くけど、君の身体はここにとどまったままだから」


 一体、どういうことだろう。

 リサさんの言いたいことがよく分からない。

 僕は荷物を置き、ベンチに座り直した。

 リサさんは僕の荷物を挟んだ直ぐ隣に座って、僕の方に身体を向けてきた。あんまり密着しすぎて彼女の膝が僕の膝に当たるから、僕はちょっとだけ外側にズレた。


「実はね、ここにいる私は、いわゆる“思念体”なの」

「――ええっ!」

「シッ。声が大きいよ、大河君。落ち着いて話を聞こうね」


 リサさんは人差し指を立てて、僕を牽制した。


「私達“干渉者”は、もう一つの世界に“干渉”出来る能力を持ってるんだけど、実は実際に身体が移動してきているわけじゃないのよね。さっきもチラッと言ったんだけど、“干渉者”の持つ“干渉能力”の中に、“イメージを具現化させる力”というのがあって、私達はそれを駆使して、自分の身体をもう一つの世界の中で“具現化”させているの。私の身体は今、聖ディアナ魔法魔術学校の多目的室にある。そこで目を閉じて、意識をリアレイトに飛ばしてる。君もこれから、同じことをする。意識をレグルノーラに飛ばして、あっちで“身体を具現化させる”」


 む、難しすぎる。

 僕が首を何度も捻るので、リサさんは少し困っているようだ。僅かに紫色を漂わせている。


「まぁ、喋ってるだけじゃ実感湧かないよね。大丈夫。多分、大河君、何度か行ってると思うんだよね。君の“力”かなり強いし、無意識下でも干渉していた可能性、あると思うんだ。さ、手を貸して」


 リサさんは両手を僕に差し出してくる。


「手」

「手?」

「そう。誘導してあげる。私の言葉の通りにすれば、多分簡単に飛べると思う」

「飛ぶ?」

「うん。飛ぶ。本当に、フワッと飛ぶ感覚があるから、そう言ってる。ま、やれば分かるから」


 ニッコリと笑うリサさん。

 夕陽の柔らかなオレンジ色と、リサさんの周囲に漂う杏色が、辺りを包んでいる。

 僕は肩を縮めて、恐る恐る荷物の上に右手を差し出した。リサさんは両手で僕の右手を包み、


「怖くない怖くない」


 まるで小さな子どもにまじないをかけるみたいに、軽くさすった。

 突然の出来事に僕は面食らったけど、リサさんは特に気にすることなく、僕の手を見ている。


「目を閉じて」


 リサさんに言われるがまま、僕は目を閉じる。


「まずは、全身の力を抜く。肩に力が入りすぎてると、上手く誘導できないよ」

「う、うん」

「深く、息を吐く。口じゃなくて、鼻で息をしてね。長く、長く吐く。少し吸う。長く、長く吐く。少し吸う。肩の力が抜けていく。君の体重が、どんどん土の中に吸い込まれていく。身体はそのまま。力だけが抜けていく。さぁ、少しずつ。沈む、沈む」


 優しい声で、リサさんは僕を誘導する。


「そう、上手。身体と意識が、少しずつ離れていく。少しずつ、少しずつ、離れていく。もう少ししたら、完全に離れるよ。そうしたら、私の手の感触を頼りにして、私が引っ張る方向に、付いてくるんだよ」


 僕は彼女の言葉に従って、ゆっくりと息を吐いた。

 やがて、周囲の音が耳に入らなくなっていった。

 まぶたの裏に見えていた光も、何故かしら見えなくなった。

 ふと、身体が軽くなったような気がする。


「まだ、目は開けないで。大丈夫、そのまんま。沈む、沈む……」


 僕の意識はベンチに座った身体から離れ、地面の中へと、深く、深く、吸い込まれていった。











………‥‥‥・・・・・━━━━━□■ 











 リサさんの手の感覚だけを頼りに、僕はどうにか意識を繋ぐ。

 僕はまだ、急下降を続けている。

 恐ろしいくらい深いところに落ちていくのが分かって、途中で目を開けたくなるのをぐっと我慢した。

 息だって苦しいはずなのに、不思議なくらい呼吸している感覚がない。

 手の感覚以外は全部どこかへ消えてしまったかのように、僕の意識と身体はハッキリと離れていった。

 夕陽で照らされ、閉じたまぶたの裏に見えていた血潮の赤も、いつの間にか漆黒となり、色の概念もない場所へと突入していく。

 まるでそれは、地の底へと続くエレベーターだ。

 レグルノーラは地下世界なんだろうか。


『違うよ、大河君』


 不意に、リサさんの声が頭に響く。


『レグルノーラはリアレイトと並行に存在する世界。二つの世界は互いに影響し合っている。レグルノーラで災いが起きれば、リアレイトにも波及するし、その逆だって当然に起こってる。君は、その二つの世界を行き来できる“干渉者”。生まれ持った“干渉能力”は、きっと二つの世界の誰よりも大きいはず。だって君は、神の子なんだから』


 並行する、二つの世界。

 僕が今まで生きてきたリアレイトと、僕の本当の父さんが救ったというレグルノーラ。

 身体の感覚なんてどこかに置いてきたはずなのに、僕は身震いした。


『二つの世界の狭間を抜けるよ。目をゆっくりと開ければ、レグルノーラの全景が見えるかも』


 言われたとおり、僕は恐る恐る目を開く。

 光が戻ってくる。

 目映い日差しと、風の感触。



 ――浮いてる?



 リサさんと手を繋いだまま、僕は空に浮いていた。正確には、落下していた。上空何千メートルか知らないけど、まるで飛行機の上から眺めるみたいに、もう一つの世界レグルノーラが僕の足元に広がっていた。

 高層ビルの連なる都市がハッキリと見えてくる。

 近未来みたいに、車やバイクがビルとビルの間をビュンビュン飛んでいる。

 車に交じって飛んでいるのは、まさか……竜? 背中に人を乗せて、ビルの合間を旋回している。

 顔を上げると、リサさんが僕を見てにこやかに微笑んでいた。


『大河君、向こうを見て』


 リサさんが見た方向に、僕も目を向ける。


『ビルの奥に、都市を囲う森が見える。そこが魔物や竜の住処。その先にあるのが砂漠。レグルノーラは丸くて平らな世界なんだ。そして、砂漠の向こうは世界の果て。巨大な湖の上にこの世界は浮いている。湖がどれだけ大きくて、どんな風になっているのかは誰も知らない』


 このぼやけた地平線の先に何もないなんて言われても、なかなかピンと来ない。

 僕らが住んでいる世界とは違う、変な場所だと言うことくらいしか。


『二十年前、レグル様は仲間と共に世界を破壊竜から救ったの。それまで分厚い雲に覆われていた世界に、レグル様は光を取り戻したんだよ』


 昔話を語るみたいに、リサさんは柔らかく言う。

 僕は、現実味のない話を、ただ音として聞いている。

 高度が下がっていくと、景色がより鮮明になってくる。

 高くそびえ立つ白い塔が世界の中心にあり、僕とリサさんはその直ぐ近くにある、広い建物の上に吸い込まれるようにして落ちているのが分かった。公共施設だろうか、とても大きい茶色の建物。レンガ造りの、情緒ある建物だ。


『そろそろ着くよ。目を閉じて。君は自分の姿を思い描かなくちゃならない。合図をしたら、ゆっくりと深呼吸して、自分の身体の感覚を一つずつ思い出して。いくよ……。三……、二……、一……』

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