好きな人に閉じ込められたい男と好きな人を閉じ込めていたいけどそれはいけないことだと思う男の話

satou

第1話

狂人の自覚のある男と、自分は真っ当だと信じている男は、どちらが正常なのだろう。




子供の頃にたまたまテレビで見かけた、古いモノクロ映画で聞いた台詞だ。


映画のタイトルさえ覚えていないのに、雪を玄関で迎えるとき、僕はいつもこの台詞を思い出す。




半年と16日ぶりに帰ってきた雪は、さみしい小雨に散々当たられて、濡れ鼠だった。




数年前に奮発して、乾燥機付き洗濯機を買ってよかったと思うのは、こういう瞬間だ。


ここ一週間、外はずっと雨で、洗濯物を外に干せなかった。


もし乾燥機が我が家になければ、帰ってきた雪をふわふわのタオルで包んでやれなかったし、パリッとした熱をほのかに纏う、清潔な寝巻きも出してやれなかっただろう。




窓の外では、いまだに雨がしとしと泣いている。


玄関でしばらく、床が濡れてしまう、とか、遅くに悪い、などと、迷子の子供の声で呟いていた雪は、今はもうすっかり白い部屋の優しい温もりの中で、微睡んでいる。






都会の喧騒から逃れ、ただふたりで息をするために手に入れた、決して大きくはない家。


キッチン付きのリビングは白が基調のフローリングだが、一角のみ畳が敷かれている。たった三畳のスペースだが、僕も雪も、ここで一緒にくっついて眠るのが大好きだ。




帰ってきた日の雪は、決まってここで眠りたがる。もちろん、今日もそう。


ぼんやりとした薄明かりの下で、畳に頬をつけて目を閉じている雪は、疲れ切った旅人にも、汚れのない幼児にも似ている。






僕は彼の隣に同じ姿で横たわると、洗濯したばかりの薄い毛布で、自分と雪を一つに包む。しかし僕より頭ひとつは背が高い雪だから、毛布から足がはみ出てしまう。


僕は雪のしなやかな足に、やはり一回りは細い自分の足を巻き付ける。




その感触に、雪が薄ら目を開いた。


垣間見える灰色の儚さに、僕は毎回、途方もなく彼が好きなのだと自覚させられる。






「肌に」






一瞬、空耳と思うほど小さな声で雪が言った。僕は彼の口元に顔を寄せて、続きを待った。






「触ってもいいか」






僕はしばらく雪の目を見つめた。


それから着ていた寝巻きのボタンを全て外すと、雪の手を取ってお腹に導いた。雪のひんやりした手はしばらく動かなかった。


やがてもう片方の手が僕の背に周り、強く引き寄せられた。






「ねえ、いい匂いがするでしょ?」






僕がささやくと、雪の鼻先が、僕の胸に埋まるのを感じた。






「庭に咲いてた青い薔薇がね、今日全部散っちゃったんだ。だから、花びらを集めて、香り袋にしてみたんだよ」






雪の頭を受け止めて抱きしめる。ゆっくり呼吸をすると、僕の腹の上の雪の手も、その動きに合わせて上下する。




僕はふいに、玄関に現れた時の雪の姿を思い出した。






(おかえり)






ドアを開けてすぐに僕が微笑むと、雪の口角が微かに震えた。ただいま、というかすれ声が、一瞬浮かびかけた笑みを打ち消してしまう。


僕が「おかえり」と言わなければ、雪は漠然した安堵から微笑できただろう。雪は決して、自分から「ただいま」と言わない。おかしなことに、それを口にしてはいけないと信じているのだ。


短い前髪の端から滴が滴って、目に入ったのか、しきりに瞬きしていた。


まるで涙をこらえる仕草であった。






「ねこを、見つけたんだ」






見えないままに僕のへそのあたりを爪先でくすぐりながら、唐突に雪が言った。


雪は僕の胸から顔を上げて、少し伸び上がって僕と目線を同じくした。






「子猫?」


「ああ。いやどうだろう、小さかったが、大人かもしれない。俺にはよくわからない。雨にぬれて、小さくなったねこだ」






口下手な雪にしては、頑張ってその情景を描写しようとしている、と僕は口にはせず思った。


雪は大切なことしか、言葉にしない。伝えたいことをあまりに大事にしすぎて、膨大な言葉を吟味するうちに、純粋な事実しか残らないのだ。






「寒さに震えていたから、連れて行こうとしたんだ。拾い上げて、ジャケットの中に抱いた。おとなしかった。甘えるように鳴いて、俺を見上げた」


「…」


「可愛い猫だし、ここに連れて帰れば、お前も喜ぶと思った。だが…、俺が歩き出すと、そいつはめちゃくちゃに暴れた。爪は立てなかったが、押さえ込もうとする俺の手を蹴ると、一瞬で逃げていった」






雪はもういない猫の感触を思い出したのか、僕の髪をしきりに撫でている。全身から悲しみが滲んでいる。それは、一瞬邂逅した猫に抱くには深すぎる色をしていて、僕はあえて彼の真意に気が付かないフリをすることにして、意図的に明るい声を出した。






「雪、猫は家とか場所につく生き物なんだよ。知らなかったの?」


「その子の選んだ場所から、無理に引き離そうとしてもだめなんだよ。仮に連れて帰れたとしても、その子はすぐに、元の場所に帰ったと思うよ」






僕はしばらく口を噤んだ。雪のように、相応しい言葉をゆっくり考え、舌で確認してから、慎重に吐き出した。






「その子は、“そこ”でしか生きられないんだ。それは誰にも変えられない、その子自身にさえどうしようもないんだ」


「雪がどんなに優しくても、この家が雨晒しの外よりどれほど心地良くても、その子は “そこ”でしか生きられないんだ。“そこ”を出たら、死んでしまう心地になるんだよ」






闇の中で、雪が僕をじっと見つめているのを感じる。雪の灰色の目は、闇の中でも白い輪郭を瞬かせていて美しい。






「だが、死なないだろう」






「新しい場所に、いけば、“そこ”の事なんか忘れてしまえるかもしれない。美味いものを食べて、好きなものを…、心地よく生きるためだけじゃない、自分の為の何かを買ったり。そうだ、誰か、新しい誰かと出会うかもしれない。“そこ”に固執しなければ、“そこ”を離れてしまえば」


「雪」


「このままじゃだめなんだ。きっとだめだ。なのに、俺は、お前に何もしてやれないのに、猫一匹、連れて帰れないのに、“そこ”から離してやれない。俺は、誰も、お前を、祝福して、しあわせにしてやれないのに、おれは」




言葉を切って項垂れてしまった雪の手は、微かに震えていた。可哀想な雪。愛しい雪。




雪。僕が呼んでも、雪は顔をあげない。


雪、もう一度呼んで、両手で彼の頬を掴み、顔をあげさせる。雪は無抵抗で、死刑宣告を受ける冤罪人のようであった。


僕は愛しさが溢れすぎて、今度は考えるまもなく言葉をこぼした。






「からだだけが生きても、こころが死んでしまっては、生きていけないでしょう?」






僕は雪の手首を握り、自分の左胸に導いた。雪の手のひらに反響する自分の心音は、あけすけで、淫らなほどだった。


空いている手で雪の頭を抱いて、首筋へともたれさせた。雪の薄い唇が、戸惑いながらもそこに吸い付く感触に、脳の深い部分が痺れるのを感じた。






眠る雪の輪郭を視線で撫でながら、僕は罪深い充足感にため息をついた。


雪から猫の話を聞きながら、僕が思ったのは、その猫は今どうしているのだろうという人並みの情と、逃げ出してくれて良かったという、相反した仄暗い喜びだった。


この家に帰ってくるのは、雪だけだ。僕が「おかえり」と言うのは雪にだけ。この家は、雪が帰ってくる家なのだから。






「わかんない」






僕は年甲斐もない、舌ったらずな口調で呟いた。






「いやになっちゃうよね。わかんないんだもの」






都心を離れて、地方に移り住むと話すと、知り合いの誰もが良い顔色をしなかった。




縁もゆかりもない土地に家を買った。


大きくはないが、素敵な家だ。


全体の8割は洋風だが、少しだけ、所々に混ざった和の香りが、それはもう美しいのだ。


話すにつれ表情に輝きを深める僕に比べ、聞く側の眉間のしわは深まった。






(なあ、天海。もう少し考えたらどうだ?お前はまだ若いし、東京の方が、大学のダチもいる。地方に行ってから、もう一回戻ってくるのだって大変だし)




(若いったって、僕もう26だよ。家庭を持って家を持つ同年代もたくさんいるし、都会の騒がしさにうんざりして、地方にUターンも珍しくないでしょ?)




(そりゃ実家がそこにある奴ならUターンも普通さ。あとはその…“普通”に“家庭”を持つってんならな…だがお前は…)




(家の庭には大きな木を植えるんだ。花はね…うーん…あんまり派手なのは好きじゃないんだけど…あ、でも雪が前に、青い薔薇だけは存在が静かで好きって言ってたから、種から植えてみようかな)




(あの男が半年以上、下手すりゃ1年近く消えてる間、お前はたった1人で、白い小さな家で延々と待ち続けるのか?そのためだけに、全てを捨てるのか?東京で手に入れた人間関係も、社会的地位も、全部その男のために投げ打つのか?)




(むしろ、どうしてそんなものたちが、雪ひとりに釣り合うと思うんだい)




(どうしてなんだ、天海。どうして人間らしいしあわせから目を背けるんだよ)




(君こそどうして、僕のしあわせを無いものみたいに扱うんだい?)






そんな会話をしたあれは…誰だっただろう。この家に入居する前に、いろいろなものを置き去りにしてきたので思い出せない。思い出そうとする気合は、眠る雪を見ていると、さらさらと消え去っていった。




短い黒髪、暗闇でも光る灰色の目、薄い肩を包むしなやかな筋肉。


雪を構成する全てが、僕を生かすのに、他の誰もが、あろうことか雪さえも、それは「まちがい」だと思い込んでいる。






だがしかし、雪は玄関で迎える僕を、罪悪感を称えた目で見やるくせに、僕を抱きしめて眠れるこの家に、必ず帰ってくる。帰らずにはおれないのだ。




呼吸をするたびに震える雪の睫毛に、触れるか触れないかの距離で唇を寄せる。


雪は、ただひとつの場所から哀れにも離れられない猫に、この静けさ溢れる家でひたすら雪を待つ僕の姿を重ねたのだろうが、僕にしてみればあの猫は、雪そのものだ。






本当に”そこ”から離れないのは誰?


醜い感情に苦悩すべきは誰?


苦しんでいる愛しい人を手放せないのは誰?






“そこ”でしか生きられないんだ。“そこ”を出たら、死んでしまう心地になるんだよ






からだだけが生きても、こころが死んでしまっては、生きていけないでしょう?






(僕、いやだな、死ぬには、幸せすぎる)




(雪も、そうでしょ?)






朝起きたら、雪の好きなものばかりの朝食を作ろう。それから、もう散ってしまった青い薔薇の代わりになる、しかしやはり雪の好きな花を探しに行こうと誘ってみよう。




明日は晴れるといい。逃げ出した猫の住処が、乾くように。

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