〈十弐〉疾走

「みゃあう」


「……ミヤビ」


 楊梅色やまももいろの毛が雨で濡れそぼっている。


 愛らしさに妖艶さが加わったミヤビの、その姿を凝視した。だが、立ち止まっている暇はない。


 再び駆け出そうと後ろ足で地を踏みしめたとき、頭上で声がした。


「よかったヤマト。追いついた」


 振り向くと白洲の姿があった。


 見上げたその先にあるのは書道パフォーマンス用の「ほうき」で、白洲は雨に打たれながらその柄に腰をかけている。


「白洲、届いたか」


「届いたけど行き違いになった。志乃さんに聞いてきたんだ。ミヤビに裏門で待機してもらって正解だったね。ありがとう、ミヤビ」


 気持ちは混乱していたが、頭では理解していた。


 ミヤビは義治から白洲錬に引継がれた猫。我輩にハニートラップを仕掛けてきたのはミヤビだったのだ。

    

 白洲に高飛車な顔を向け、ミヤビはふんと鼻を鳴らした。


 見せつけるように我輩に身を寄せてくる彼女を白洲は淋しげに見つめ、我輩と目が合うと小さく肩をすくめる。


 引き継いだ猫が懐かない、そう嘆いていたのを思い出したが、我輩にはどうしようもない。


 ミヤビが白洲の猫と発覚した今、彼女がこうして擦り寄ってくるのは仕事ではないし、我輩はそれで満足だ。


「白洲、急ごう」


 ほうきを地面近くまで下ろし、我輩とミヤビをその上に乗せると白洲は一気に高度を上げた。


 雨足が強まっている。


 視界に入った県立図書館は、わずかな外灯の明かりをたよりにぼうっと雨に煙っていた。


「僕もヤマトのこと言えないね。彼らが行動を起こさないことを願ってた。それが単なる願望だってことは分かってたのに」


「友永が狙っているのはやはりあの書か。今すぐ『縛』の碑をどうこうしようというわけではなさそうだが」


「碑の『縛』を解いても手に負えないってことくらいは友永にも分かるはずだ。だから手に入れられそうなあの本に狙いを定めたんだろうけど、もしかしたら花蔵に本の『縛』を解かせるつもりかもしれない。

 あの『縛』に相当する『散』となると危険だ。まともに力の制御もできない花蔵があの大きさの『散』を発したら、『縛』の碑や、もしかしたら魔法陣にも影響がでる」


「あれでも多少はましになった方だ」


「ヤマトはやっぱり甘いよ。今の状態じゃ花蔵自身が危険だっていうのに。あんな風に無防備に力を晒して歩いて、よく今まで無事だったね。悪用しようとする奴らはいくらでもいる。そのほとんどは彼女の力を前に躊躇するし、だからこそ無事でいられたんだろうけど、今後もそうとは限らないよ。現に友永たちがこうして行動を起こしてる」


「分かっている。だから白洲に頼んだのだ。あのじゃじゃ馬は白洲の手に負えるか?」


「どうかな」


「なあ、白洲。お前は花蔵のことを恨んではいないのか?」


「恨む? どうして」


「花蔵のいる場所は本来白洲のものだ」


「その話はすでに終わったはずだよ。それに、僕は花蔵のことが案外気に入ってるんだ。どうすればあんなに脳天気になれるのか、つくづく興味がある」


「なら」


「まだ検討中。彼女の無事を確認するのが先だ」


 噴水を照らす淡い照明。ほうきはその脇をすり抜け、我らは正面玄関に降り立った。


 白洲は間をおかず建物に沿って走り出す。


 後を追う我輩に白洲の蹴り出す泥が跳ね飛び、それはすぐ雨に洗い流された。


 言ノ葉を唱えて加速し、我輩は白洲を追い抜きその前を駆ける。


 花蔵の気配――。


「白洲、奴らは侵入してるのか? 花蔵の気配は外にあるが、我輩では友永がどこにいるのか分からん。時雨は……花蔵と一緒か」


「隠れんぼが上手だよね、あのお爺さん。裏口あたり、花蔵たちと一緒にいる。外から『散』を発するつもりかもしれない。

『縛』を解きさえすれば、明日にでも花蔵が閲覧を申し出ればいい。そのまま回収できれば万々歳……なんてね。花蔵が『散』を使ったら書を回収するどころの騒ぎじゃないよ。親父の留守中にそれは勘弁して欲しい」


「花蔵があいつらの言いなりになるとも思えない。『散』の言ノ葉を口にすることは我輩が禁じている」


 白洲の言葉が返ってくるまでにわずかな間があった。駆け進みながらチラと後ろを振り返ると、白洲は逡巡したのち口をひらく。


「……ヤマトの名前を出せば花蔵は力を使うかもしれない。この『縛』でヤマトも縛られてる、とか言えば」


 絶句した。


 人間の考えることというのは時に我輩の理解を超える。だが、そのような嘘八百を思いつくひねた根性を、我輩は理解したいとも思わない。


 花蔵は単純に信じてしまいそうだが、そういうたちの人間が我輩にはあっている。


 馬鹿と相性の良い我輩も、やはり愚か者なのだ。出来の良いやつはやはり面倒でならん。


 もし白洲の言葉通りに事が進んでいたとして、いくら花蔵でもこの場で「散」を発するほど馬鹿だとは思いたくない。


「恋は盲目、そして愛も盲目だよ。ヤマト」


 白洲はそう言ったが、我輩はその意味を測りかねた。


 時雨への恋か、それとも――。花蔵は「愛」などというものを我輩に向けるのだろうか。

    

 情は分かる。


 だが、愛とは何か、未だに我輩には分からない。その言葉に込められたたましい


 ”愛している”――常人でも使い得るその言霊の力を、幾度となく目にしてきたというのに。


「みゃあう」


「ミヤビ……」


 白洲のすぐ傍を駆けていたミヤビが我輩の隣に並んだ。彼女はもう一度柔らかく鳴く。


「ミヤビと花蔵は似てるから、彼女の云うことは信じてもいいと思うよ」


 建物の端が見え、地を蹴り左へ体を傾ける。


「まずい!」


 白洲の鋭い声に振り返ると、彼の姿はそこにはなかった。


 ヤマトと呼ぶ声が上空から聞こえる。ほうきを左手に持ったまま、彼は浮上していた。


「力が収束してる。時間がないから僕は先に行くよ。ヤマト、そのペンダントは僕が渡す」


 するりと首元を鎖が這い、心地良い重みが消えた。


 空へと昇る五芒星は外灯の明かりを鈍く映し、白洲の手の中におさまった。そして彼の体は一気に上昇し、屋根の向こうに消える。


 力の収束。それは「散」の前触れ。


 花蔵は本当に「散」を発しようとしているのか。


 不意に胸が震え、立ち止まったままの我輩の目元をミヤビが舌先で舐めた。


 涙、そんなものを流すことがあるとは思わなかった。なぜ泣いているのかも分からぬというのに。


「みゃあう」


 いつもより高い声でミヤビは鳴き、我輩の、背の白斑をその鼻先でなぞる。触れた部分から、我輩の内に何かが入り込んだ。


 暖かい。

    

 幻だろうか。埋まるはずのない心の穴がミヤビの温もりで満たされてゆく。


 力が膨張するのを感じた。


「ミヤビ、跳ぼう」


 呼吸を合わせ、壁のわずかな突起を足場に一気に駆け上がった。屋上に前脚を掛け、花蔵の気配に向かって跳躍する。


 ――見えた。花蔵の力が一点に凝縮しつつある。


 三回転した体を宙で反転し、屋上の反対側に着地した。この真下だ。


 我輩の隣でミヤビが屋上から身を乗りだし、下をのぞき込んだ。


「――花蔵」


 白洲の声がした。


 眼下で、白洲はそこに重力があるのを思い出したように地に降り立つ。


 花蔵の心が揺れている。それに合わせて限界まで収束した彼女の力、眩い光の玉が脈動していた。その背後には友永、そして時雨。


「白洲君、ヤマトを返して!」


 その叫び声はすぐさま雨音にかき消される。


 雨が、涙が、顔を濡らした。花蔵の顔を、そして我輩の顔を。


 ――泣くな、花蔵。

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