〈十壱〉腹が減っては

 我が想い白洲錬にひびきわたれり――。


 白洲に教わったばかりの「呪文」を唱える我輩の後ろで、志乃の気配に困惑が混じった。


 我輩の内にあるこの焦燥が白洲に届いたという確証はないが、今は彼の言葉を信じるしかない。


 息を吐き、気を落ち着かせた。焦りは禁物だ。


 友永や時雨が簡単に花蔵を傷つけるほど冷酷無比な人間だとは思えない。花蔵も身に危険が迫れば逃げることは容易いだろう。


 ならば、これは奴らの本性を暴く絶好の機会ともいえる。

 

「志乃、花蔵たちはどこへ向かった。時雨までここにいたのはなぜだ?」


 五十路の豊満な体に白い割烹着を身につけた志乃は、我輩の発した鋭い語気に「ええと」と言葉を詰まらせた。


 志乃の足元には我輩の夕飯らしき魚があり、それを目にした途端に空腹を思い出す。腹が減っては戦はできぬ。


 思えばこの身の内にある狩猟本能は理性で押さえ、自ら狩りををしなくなって久しい。


 まさかその久しぶりの標的が友永になるとは思いもしなかった。


 殺しはせぬ。だが、おいた・・・をした子には灸を据えてやらねばならぬ。

    

 我輩が夕飯にありつくと、志乃は壁際の椅子に腰をおろした。そして記憶をたどるようにポツリポツリと話しはじめる。


「たしか、夕暮れどきに友永様が車で山を下りられて、そのあと花蔵様と、時雨さんもご一緒に戻ってらっしゃいました。

 めずらしく三人でお食事をとられて。それから、……ああそうそう。友永様が、図書館のあたりでミヤビ様がお一人でいらっしゃるのを見かけたとか」


 嘘が露見したか。ミヤビは我輩とデートという話になっていた。


 誤魔化すこともできたはずだが、白洲の件をばらし、我輩を探しに行くなど。花蔵の判断か、それとも友永がそそのかしたか。


 志乃は不安げに我輩の顔色をうかがっている。


「我輩が一緒にいたのは厳治の実の孫だ。怪しい人間ではない。それに、花蔵のクラスメイトでもある」


 まあ、と志乃は目を丸くした。


 志乃も紫宮家では長く勤めている方だが、四十五年も昔にいなくなった義治のことなど知るはずもない。


 噂くらいは耳にしても、厳治の存命中、使用人たちが表立ってその事を口にすることはなかった。



「私は席を外すよう言われたので、何を話し合われていたのは分かりませんけれど。花蔵様は大層心配してらっしゃっるご様子でした。三人とも深刻な顔をされていて、しばらくしたあと慌ててお出かけになりました」


 我輩が黙したまま思案していると、志乃は「お孫さんがいらっしゃったんですねえ」と複雑な顔でポツリとつぶやいた。


 その存在が花蔵の立場を脅かすということに、ようやく思い至ったのだろう。


 それにしても、友永は何を企んでいるのか。


 図書館の「縛」に義治が絡んでいることは友永も知っている。


 我輩が年若い秘術使いとともに姿を消したとなると、白洲と義治の関係は自ずと導き出される。我輩と義治が繋がったと思い焦ったか。


 いや、焦りはそれ以前から奴の中にあった。


 昼間に起こった図書館での「縛」と「散」の衝突。あの稚拙な「散」は友永のあがき。


 徐々に強大になる「縛」に、様子をうかがっている余裕などなくなったのだ。


 やはり、花蔵の唱えた「散」の言ノ葉を聞いたのだろう。


 迂闊だった。長く生きて人間に裏切られることなど何度もあったというのに、またこうして騙される。


 あ、と志乃が声をあげた。


「そうそう。お出かけになる折に『開館時間は何時までだ』と友永様が時雨さんにお尋ねになってらして。きっと、図書館のことでございましょう?」


 彼らが向かうところと言えば「縛」の碑か図書館。


「縛」の碑など手に負えるはずもないのだから、彼らが向かうのは図書館しかあるまい。だが、確証を得られただけもありがたい。


「志乃、我輩は図書館へ向かう。友永たちから連絡があっても我輩は戻っていないと伝えろ」


 明らかな困惑が志乃の顔に浮かんだ。だが、詳しく説明している暇などない。


「志乃。少し遅くなるだろうが、心配するな。花蔵が雨に濡れているやも知れぬ。風呂を追い焚きしといてやれ」


 志乃の表情がいくらか和らいだ。


 心配しながら何もせず待つというのは歯痒いもの。釜の前で薪でもくべていれば多少気持ちも落ち着こう。


 鼻先についた鯵の端切れを舌で舐めとり、床を蹴って椅子に足をかけ、テーブルの上に跳びのった。


「もし、白洲という人間がここを訪ねて来たら、我輩は図書館に向かったと伝えてくれ」


「白洲様ですね。かしこまりました」

 

 志乃は立ち上がり、「お気をつけて」と口にしたようだったが、そのとき我輩はすでに台所から駆け出たあとだった。


 友永は黒。それを認めたくないのは、まだ情が残っているからだ。しかし情に流されては花蔵が、引いては紫宮の結界、そしてこの世界が危険に晒される。


 玄関を出た。


 あたりは家の明かりがぼんやりと木々を照らすばかりで、空は闇に沈んでいる。星などあるはずもなく、重苦しい雨雲が急くように頭上を流れていった。


 風は、ありがたいことに追い風だ。庭先に作り付けた我輩専用の踏み台を駆け上がり、蹴り出す寸前で言ノ葉を唱える。


「やまといわく、やまのせいれいをばかぜまといて…………也」


 椎ノ木の葉先に足をかける。


 足元の樹々がざわめき、我輩の跳躍にあわせてそれは前方へとしなった。


 木立の上へ抜けると、遠く街の明かり。それは変わらず扇を形どっている。


 追い風が体を包み、駆けるごとにぐんとその明かりが近づいた。


 足元の樹々、空を覆う一面の雲、そのすべては漆黒。


 ザッと雨粒が背を打ちつけた。


 佐志原高校にはまだ明かりが灯っている。もうすぐだ。図書館まであと少し。



「みゃあう」


 茶室の庇の下に、闇に霞んで楊梅色やまももいろの毛が見えた。


 刹那迷い、我輩は足を緩めることなく疾走する。立ち止まったとて彼女を連れていくわけにはいかない。


 朝と同じ経路で裏門から校庭へと降り立ち、勢いはそのままに県立図書館を目指した。


 と、視界を何かが過ぎった。


 急停止し、身構える。雨の音が異様に大きく聞こえた。

   

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