〈十〉疑惑と確証

「その可能性をまったく考えなかったってことはないよね、ヤマト」


 その可能性――つまり、友永があの書を紫宮家から持ち出した可能性だ。


 書の紛失が発覚したのは厳治の蔵書を整理したあの日の夜のことだった。


 厳治の死後もそのままにしてある彼の書斎の、机の右上の引き出しがその書の保管場所だったのだが、そこにあるべきその書が忽然と消えていた。


 引き出しに鍵など付いてはいないが、普段から書斎の扉には鍵をかけていた。


 あの日は我輩と花蔵のふたりで書斎にこもり、寄贈する本を選り分けながらダンボール箱に詰めていった。その箱を搬出したあと鍵をかけたのは、たしか花蔵だ。


 我輩は友永を疑い、それは数日後に晴れた。


 なぜか。県立図書館から感じた厳治の書の気配、そこに張られた結界「縛」、それが友永に成せるようなものではなかったからだ。


 あの「縛」は白洲もしくは義治によるもの。

 

「一度は友永を疑った。だが、あの『縛』を成したのは友永ではない。そして花蔵でもない」


「あの『縛』は親父だ。あの日、親父は『縛』の碑に僕を連れてきていた。その使命を引き継ぐためにね。

 異変に気づいたのは山をおりて、紫宮の結界から出た直後だ。漏れ出すことのない紫宮の気が、図書館にあった。あの書は紫宮の敷地内にあれば周囲の気と同化してしまう。だから、ヤマトも花蔵も書が消えたことに気づかなかった。でも、おかしいと思わない?」


「……何がだ。花蔵が寄贈本の中にうっかり紛れ込ませ、それを友永が図書館へ運んだ。違うか?」


「友永は、そこまで鈍感?」


 ハッとして白洲の顔を見た。やっと通じたというように白洲は少々呆れた顔をしたが、たしかにその事に気づかなかったのは我輩の落ち度だ。


「気づくはずなんだよ。役立たずとはいえ当主代理として『縛』の碑の前で言ノ葉を唱えてる人間。そんな奴が、紫宮の敷地から外れて存在する書の気配に、しかも自分が運転する車のなかにあることに気づかないなんてありえない。意図的に持ち出したんだ。

 もしかしたら本当に花蔵のうっかりなのかもしれない。だとしても、それが紛れていると知った上で図書館に持っていったということは、……疑いをかけるには十分でしょ?」


「友永がなぜ。第一、あのジジィは『散』の言ノ葉を知らぬはず。手にしたとて読むことなどできぬ」


「図書館で見つけた書には『散』の形跡があったけど?」


「あの日、花蔵が初めてあの書を開けようとして数度失敗した」

    

「友永も耳がいいんでしょ? 花蔵の唱える『散』を聴き覚えたとしても不思議じゃない。数度失敗したってことは、何度か繰り返し聞いたってこと。推測だけどね。

 そして、今日図書館で『散』を発した人間がいるのはたしかだ。そのとき僕も花蔵も教室にいた。彼女があの『散』に気づいた様子はなかったけどね」


 白洲の言葉を覆すことができなかった。


 すでに我輩のうちには友永への不信感があり、それを確信に変えるべく白洲と会話をしているようなものだ。


「力を欲するのは人間の性だよ、ヤマト。友永はたぶん意図的に『縛』の碑の力を弱めてた。彼の心に闇が作用したとも考えられるけど、きっと、友永は力を求めて『縛』を解放しようとしてるんだと思う。有象無象の闇が噴出するとも知らずにね」


 闇の噴出、その様を想像しようとしてやめた。


 恐れからは距離をおくべきだ。


 未知のものに怖れを抱き、妄想に取り憑かれてしまっては正しい判断ができなくなる。小さな脳みそを恐れで埋めるより、感覚を研ぎ澄ませあるじの意思に従うまで。


 花蔵はバカだが、悪しき方へと流れることはない。


「人とは、愚かだな」


「愚かなのはヤマトもだよ。油断してると友永に寝首をかかれるからね。蟻は毒を持っている。時雨もいる。群れれば危険だ」


 友永との信頼関係、それは彼がまだ若い頃から我輩とのあいだにあったはずだった。


 若い頃から・・、ではなく、若い頃だけ・・だったのかも知れない。情という曖昧な感情で、我輩は目を曇らせていたのだろう。

    

 友永はわずかながらも紫宮の血が体内に流れることを知り、そしてしたたかにも当主代理という立場におさまった。


 当主「代理」。ならば代理以上の力を求めるのは当然か。


「時雨が関わっているという証拠はあるのか?」


「友永時雨が図書館に来たのは今日だけじゃない。午前は友永勇、午後は時雨が必ず顔を出してる」


 友永が午前の見回りをするのは我輩が命じたことだ。だが時雨に図書館の件を任せた記憶はない。


 週末の午後に花蔵とふたりで見回りに行かせたことがあったが、それはあくまで花蔵のお供だ。


 時雨も学生、放課後に図書館で勉学に勤しむこともあろう。だが、学校帰りに必ず図書館に立ち寄っていた花蔵がその姿を一度も目にしていない以上、時雨は身を隠して図書館を訪れていたということだ。


「時雨が図書館に来るのは、だいたい花蔵が帰ったあとだ。今日は僕が言ノ葉を使ったからね。それで気配を感じて顔を出したのかもしれない」


 白州は我輩の思考を読んだようにニヤリと笑う。


「白洲も毎日図書館にいたのか?」


「僕が図書館に行くのも、だいたい花蔵が帰ったあと。僕は時雨に気づいてたけど、こっちはまだ面が割れてないからね。彼が毎日あの本の予約状況を確認していたのも知ってるし、カウンターの奥を気にしてたのも知ってる。でも結局何もせず帰るしかない。時雨が図書館でしたことといえば宿題くらいだよ」


 それで僕に疑われるハメになるんだから、ホント、馬鹿な蟻さん。花蔵とはお似合いかもね。


 白洲は我輩の背を撫でながらそんな風に言い、ぼんやりと母屋のある方角を見た。


 花蔵はもう家に戻っているのか、それとも時雨と寄り道でもしているのか。

 

「図書館に確認して、あの本の貸出がはじまる前に予約を入れた。白洲の家には同じ目的をもって活動してる仲間がいるんだ。そいういう人たちに何人かあたって、手当たり次第に予約を入れてもらった。そして借りた本に『縛』と霊符を施して返却したんだ。

 図書館の人も直接手渡したときは『本』として認知したんだろうけど、一度手から離れてしまえば他の本に埋もれてしまい見つけ出すことはできない。たぶん、親父が何かしらの言ノ葉を使って一般の書架に並ばないようにしたんだと思うよ。

 ……怖いよね、人を使役するって」


 白洲の口ぶりから、彼はこれまでに人を使役したことがある。苦しげに歪んだ眉は、どんな過去を思い出しているのか。


 花蔵にしろ白洲にしろ、紫宮の血を引いていなければ他の同級生のように青春を謳歌できるものを。


 多少の言ノ葉を使えるとて猫一匹では何の足しにもならぬ。この歯がゆさと腹立たしさは、一体どこにぶつければいいのか。


「白洲、なぜあの書を図書館に縛りつけた。白洲の家に持ち帰れば良かったのだ。そうすればお前の親父が煮るなり焼くなり好きにしただろう」


「確証が欲しかったんだ。友永が紫宮家の膿だという確信を得たかった。それはほぼ間違いないし、親父にもそう報告してある。その膿をどうするか考えてたんだ。まだ彼らが決定的な何かをしでたわけじゃない。それに……」


「それに、何だ?」


「『恋愛ごっこ』とはいえ花蔵は時雨に気があるだろ?

 二人で紫宮家を継ぐという未来がないわけじゃない。時雨が何も知らず友永勇に利用されているだけなら、僕は二人が紫宮を継ぐことを許容してもいいよ」


「許容する、とは随分な言い草だな」


「当たり前だろ? 正統な継承者は僕だ。それを主張する気はないけどね。花蔵と不釣り合いではあるけど、蟻さんが大人しくしているなら目を目をつぶる。二人で碑を守っていけばいい。花蔵がちゃんと自分の力を制御できるようになれば僕の役目も終わりだ」


 紫宮家に正面から乗り込み、その力を見せつければ白洲は一瞬にして紫宮を手に入れることができる。


 そして花蔵はきっとそれを受け入れる。


 彼女に次期当主としての自覚が足りないのは、その重責を恐れているからではない。それを負う権利があるか、自信を持てないからだ。


 厄介払いのように朱ノ森家を追い出され、厳治と過ごしたのは三年ばかりで、花蔵は未だ自身の力を制御できないでいる。


 そして白洲の言葉を全面的に信じるならば、彼女はまた傷を抱えることになる。


 目に入れても痛くないほどに花蔵を溺愛してきた友永、そして淡くとも思慕の念を抱く時雨、その二人の裏切り。


 否定されてきた花蔵の心にも空虚な穴がある。事実を知ればその穴は広がるだろう。


 必要とされなければ彼女は身を引く。思えば彼女が自らの手で切り開いたものなどないのだ。周囲に追いやられるまま次期当主の座にたどり着いた。


 与えられた場所で、彼女は懸命に笑っている。


「お前は、紫宮よりも白洲の方がいいか?」


 ふと口をついて出た自らの言葉に衝撃を受けた。


 我輩は無自覚に望んだのだ。白洲がその力をもって碑を守ること、そして紫宮の家を継ぐことを。


「どっちでもいいよ。紫宮でなくても、白洲でなくても、僕がすることは同じ。穴が開かないようにするだけだ。でも、花蔵があの碑を守ってくれるなら多少は楽できるね」


「あれはまだ未熟だ」


「ヤマトはその未熟者の導士でしょ? ちゃんと導いてあげてよ」


 白洲の力と、碑の下に眠るものの大きさを垣間見た今、安易な返答はできなかった。


 我輩の力では足りぬ。足りなさ過ぎる。


「白洲、花蔵の面倒を見る気はないか」


 白洲はきょとんした顔で我輩の顔をのぞきこみ、年相応のあどけない笑みを浮かべた。


 くすくすと柔らかい笑い声が、あたりを満たす虫の音に混じる。


 こうしていれば大地の下で蠢く闇の存在など何も感じられず、また安穏とした日々が続くようにも思えてくる。


「ヤマト、友永に騙されてるって知ったばかりなのに、会ったばかりの僕をそんなに信用していいの? 僕もヤマトを騙してるのかもしれないよ」


「白洲に紫宮の血が流れているのは明らかだ。せめてあの未熟者に力を制御する術を教えてやってくれ。あいつは我輩を飼い猫くらいにしか思ってない。飼い猫どころか小間使いだ。それに、花蔵の力は大き過ぎて我輩の手に余る」


 困惑し、考え込む白洲の手に漆黒の毛を擦りつけ、みゃあうと一鳴きする。


 白洲は苦笑し、先ほどと同じように我輩の喉をなでた。


「ヤマトもなかなか役者だね。僕、猫好きなんだ。親父から引き継いだ猫がいるんだけど、まだ懐いてくれない。仕事はしてくれるんだけど、こんな風に触らせてくれないんだ」


 優しい手つきで我輩の背を撫でながら、白洲は淋しげな顔をする。


 役者なのはお互い様だ。舌先で白洲の指を舐め、ちらと目を向けた先の無邪気な笑みはもう彼の素の表情だとしか思えなくなっている。


 これがハニートラップだったなら、我輩はまた義治のときのように心の隅に穴を開けるのだろう。それもいい。


「ねえ、ヤマト。僕が関わると色々面倒なことになるよ。紫宮を乗っ取ろうとしてるって、邪推する輩は必ずいる」


「邪推する輩とは、お前の云う『膿』なのだろう? ならば排除すればいい。友永の件はこちらで対処する。奴にも申し開きする機会くらい与えてやらねば」


「ありがとう、ヤマト。花蔵の件は考えておくよ。彼女が了承すればだけどね」


 白洲が立ち上がる素振りを見せ、その脚を離れ地に足をつけた。


 ぽつりと鼻先に雨粒があたる。空気の匂いを嗅ぐが、まだ本降りまでは間がありそうだ。

 

「あ、そうだ」


 浮かせた腰をふたたび下ろした白洲は、ヤマト、と我輩の名を呼んだ。


 彼は首元に手をやってペンダントを外し、それを我輩の首にかける。じわりと体内に気が満ちた。それはまるで、ミヤビにこの背を舐められたときのような感覚だった。


 白洲が我輩の背に浮かぶ白斑を指でさすり、首元で揺れる五芒星に触れる。

 

「ヤマト、もし何かあったら僕を呼んで。これがあれば隣町まで届く」


「五芒星か。嫌だな」


「ヤマトにじゃないよ。これは花蔵に。だだ漏れしてる彼女の気を制御できる。それに、五芒星が嫌なんてただの偏見だろ?」


 たしかに。言葉のみで秘術を成してきた我輩は、魔法具のような目に見える物質を使うことに抵抗がある。


 だが、紫宮と白洲の力に相乗効果があることはすでに目の前で実証されている。


 ペンダントを外した白洲から、あの「縛」の碑の前で感じた強烈な紫宮の気を感じることはなかった。白洲はペンダントなしでその力を制御できるのだろう。


「この五芒星をどうすればいい。何か、言ノ葉のようなものが必要か?」


「簡単な呪文だよ。話はできないけど感情が届く。五芒星を身につけたまま、こう唱えればいい。――我が想い白洲錬にひびきわたれり」


「聞いたこともないくらい簡単だな。それは我輩でもできるのか?」


 試しに白洲の口にした呪文を繰り返すと、目の前の彼は苦笑していた。


「猫の感情っていうのはストレートだね。安心した。どうやら僕はヤマトの信頼を得られたらしい」


 思いもよらぬ言葉に魔法具の力を垣間見た。


 我輩は自覚している以上の信頼を彼に寄せているのかもしれない。己を引き締めなければ。獅子身中の虫を節穴の目で見逃してきたことに、ようやく気づかされたばかりだ。


 よっ、と口にして白洲は軽い身のこなしで立ち上がり、そのまま体を宙に浮かせた。ふと驚いたように瞬きし、空を見上げる。


「もうそろそろ本格的に降り出しそうだね。早く帰らなきゃ。ヤマトも濡れちゃうから急いだほうがいいよ」


 じゃあね、と口にするが早いか、その身はすでに離れの屋根よりも高く舞い上がり、黒く浮かんだ人影が手を振った。そしてあっという間に木々に遮られ見えなくなる。


 まだ白洲の匂いが漂っていた。


 薬のような、香辛料のような、刺激的でもあり、心を落ち着ける匂いでもある。


 虫の声と草木のざわめきを聞きながら木立の合間を母屋へと駆けた。白洲の匂いが消えることなくついてきたのは、この五芒星に染みついているからだ。



 そして、事態は予想外の急展開を見せた。


 紫宮家を囲む垣根の根本をくぐり、表玄関ではなく裏口の木戸の脇にある我輩専用の小さな出入り口から母屋に入った。


 一畳ほどの広さの土間を歩いてかまちへあがり、わずかに開いたガラス戸を抜けて台所に顔を出すと、使用人の一人である志乃しのが立っていた。


 彼女は我輩の姿を見るなり「ああ良かった」と胸を撫で下ろす。


「どうした、志乃。大袈裟な。まだ心配するほどの時刻でもあるまい」


「おかえりなさいませ、大和様。ご無事で何より。大和様が怪しい者に連れ去られたと言うから、皆で心配してたんですよ。一時間ほど前でしたか、花蔵様と友永様、それに時雨さんが大和様を探すと言って出て行かれて。連絡差し上げないといけませんね」


 心臓がひやりと凍りついた。


 もし友永たちが花蔵に手を出したら――。


 力は比べるまでもなく花蔵が上。だが、花蔵は奴らに何もしない。何もできない。


 ひとり紫宮の家にやってきた七つの子が、ひねくれることもなくこの年まで育った。そこにはたしかに友永と時雨の存在があった。


 焦燥に身を任せ踵を返した我輩の頬に何かが触れた。視線の先には五芒星がある。

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