〈九〉白洲の血統
先ほどまではなかった重苦しい灰色の雲が上空を流れていた。
冷やりと、湿り気を帯びた風が白洲の耳にかかる髪をなびかせ、かすかに雨の匂いがした。
細く長く、白洲が息を吐いた。
「この碑の前で怖れてはいけない、喜怒哀楽も、内なる欲も露わにすることなく、ただ無の心をもって『縛』を成すべし。――親父に言われた言葉だ。僕もまだまだだね」
白洲は説明するように淡々と口にし、そのあと何を思い出したのかフッと笑った。
ちらりと我輩と目をあわせ「花蔵はこの使命には適任だ」と、伏した目が淋しげだった。
本来なら白洲が継ぐはずだった紫宮の使命。そして、正統にそれを継ぐことなく陰で役目だけを果たしてきた義治。
形だけの「当主」など、何の意味があるのか。
「あれはバカだからな。花蔵と書いてバカグラと読むんだ。あいつもお前に負けず劣らず苦労している。泣くことも怒ることもあるが、すぐ忘れる。お気楽能天気バカなんだ。つくづく
ははっと白洲が笑い、周囲の気配がわずかに変わった。
なぜこれほどまでに自分の感覚が鋭敏になっているのか、友永とともに毎日ここに通っているが、このように微細な気配の変化を察知することはできなかった。ということは、白洲の影響だろうか。
白洲はじっと碑を睨んでいる。
「僕も花蔵のように三歩あるいてすべてを忘れられたらいいんだけどね。怒りも哀しみも、その感情自体が悪いわけじゃない。怒りはエネルギーに、哀しみは優しさにつながる。欲がなければ滅びるだけだ。でも、それらが何かしら物や人への執着と結びつくことで悪意を帯びることがある。この穴の闇は、きっとその『悪意』だけを
全部親父の受け売りだけどね、と白洲は小さく笑った。
「僕はまだ、この闇が悪しきものなのか判断がつかないんだ。未知のものを簡単に悪と決めつけるのは、どうもピンと来ない」
独り言のようにつぶやいて襟元に手をやり、彼はかけていたペンダントを外した。
「ヤマト、驚かないでね」
そして白洲の体から強大な紫宮の気が放たれる。
ザワザワと樹々がざわめくのを聞きながら、我輩は白洲の肩に爪を立て必死で堪えた。震えが腹の底から湧き上がる。
白洲は右手にペンダントを持ち、まっすぐ頭上に掲げていた。
「白洲錬の名に於いて請い願う。天地精霊静寂…………………也」
ザッと風が起こった。
周囲の樹々は
葉は木立の上に抜けると四方へ散った。
風は止むことなく、唐突にぐらりと揺れた視界にバランスを崩し、白洲の手が我輩の前足をつかんだ。
ふと見ると白洲の足は地を離れ、碑は徐々に遠のき、そしてふたたび我々は森を抜ける。
わずかな残照が森に陰影をつくり、それは波紋のように広がっていった。
白洲の気が山林すべてを覆い尽くし、濃密だったその気配は大地に吸収されるように次第に薄れ、山影が黒一色になるころ、そこにはいつもと変わらぬ紫宮の気配が満ちていた。
隣で、白洲が深く息を吐いた。
汗がその額を濡らし、緊張を解いた穏やかな顔つきで彼は我輩に笑みを向けた。
「本日の任務完了。暗くなったし、そろそろ帰らないと花蔵が心配してるね、ヤマト」
邪気も何も感じられない、部活でも終えた後のような爽やかさすら漂う言葉の響きだった。
それが裏のない素の表情なのかも知れない。だが、気を許すまえに確かめねばならぬことがあった。
「……白洲。お前は何者だ」
五芒星のペンダント。
魔法具を使う白洲のやり方は明らかに紫宮の秘術とは異なっている。
そして彼の持つ力は花蔵に匹敵するどころか、おそらくそれ以上。紫宮の血を引いているとはいえ、この年でこの力とは、その身の内に眠るものは底が知れない。
チャリと音をさせて、白洲は手に握ったペンダントを我輩の目の前で揺らしてみせた。
「白洲は魔女の血統なんだ。僕の母親は魔女の血を引いてる。親父は紫宮の力を上回る秘術使いを残すために、白洲の存在を突き止めてその家に入った。僕は、……親父の努力の結晶だ。白洲なんて名前、ヤマトは知らなかったろ?」
白洲は馬鹿にするような歪んだ笑みを作る。それがこれまでと違った年相応の、いわゆる思春期特有の反抗心に見えたのは、やつの力
白洲の根は悪くない。
たんなる勘だが、長く生きた猫の勘はそこそこ当たる。
「白洲などよくある名だ。気に留めたこともない」
「白洲の家は隣町にある。そんなに近くに住んでいる息子の存在に気づけない
「親父はどうした」
「生きてるよ。残念だった?」
力は計り知れない。だが白洲はやはり子どもだ。
我輩への意味のない挑発で自分を慰めている。
闇の穴に対処するだけの力を持った秘術使い、そうなるべく生まれた子。
心に穴を抱えるのは我輩も白洲も同じやも知れない。何かにつけ、義治は罪な奴だ。
「義治ではなくお前が碑を守っている理由は? いつからお前自身の力で『縛』を成している」
白洲の力で碑は結界を保ち、まさに彼の言う通り友永など不要だ。
「忙しいんだよ、親父は。僕がこの碑を任されたのはこの春からだ。厳治が死ぬまでは親父が月に一、二度来てたらしい。友永が『縛』を施すようになって、……施してるとも言えないんだけどね、それからは週に一、二回。様子を見て綻びがあったら随時フォロー。ほんと、紫宮から代行料もらいたいくらいだよ」
喋りながら、白洲はふいと空を見上げた。
そろそろ雨粒が落ちてくるかもしれない。雨の匂いが濃くなっている。
風に乗るように宙に身を滑らせ、白洲は山を下りはじめた。扇状に、街の灯が見える。
「白洲。義治のことを聞いてもいいか? やつは何をしている」
紫宮の家は木の陰で見えない。その明かりを捉えるずいぶん手前で、白洲は森の中へと下降しはじめた。
そこにあるのは来客用の離れだ。母屋までは歩いて五分ほどの場所にあった。
「家まで送ると友永にバレるから」と白洲は閉じられた木戸に背をもたせかけ、我輩はその肩から降り、足元で彼を見上げた。
白洲がほつれたカーディガンを見て「あぁあ」と声を漏らす。
弁償するつもりはない。我輩を強引に連れ出したのは白洲なのだ。
タメ息をつき、白洲はずるずると背を滑らせて我輩の隣にしゃがみ込んだ。
「穴は、ここだけじゃないんだ。白洲の家は西日本各所の穴を把握すべく活動してる。必要であれば結界を張り、監視を続ける。親父は僕に紫宮の監視を任せた途端、ほとんど家に帰ってこなくなった」
何を思うべきか、心の大きさが心臓の大きさと比例しているのなら、猫である我輩が
白洲の抱える寂しさなのか、虚無感なのか、何かしらその胸の内に渦巻いているのだろうが、我輩はそれについて考えることを放棄した。
結局は白洲自身の問題なのだ。それよりも――。
「我輩に穴は見えぬが、お前の力を目にした後だ。それがとてつもなく強大で危険なものだというのは分かる。そんなものが、ここだけでなくあちこちにあるというのか?」
「あるよ。ここよりも大きな、とっておきの穴もね。神話にあるでしょ?」
ヨモツヒラサカ、と白洲は口にした。その言葉にぞわぞわと毛が逆立ち、体の芯に震えが走った。
穴とはなんだ?
闇とは。
穴も闇も、そのなかで
言葉を失った我輩の喉元を白洲の指がなでた。
ふと力が抜け、条件反射でその動きに身を任せゴロゴロと喉を鳴らす。
白洲は尻が汚れるのも構わず犬走りの上で胡座をかき、我輩を脚のうえにのせた。
「あったかい」と言いながら我輩の背に優しく手を沿わせてくるのは、もしかしてハニートラップというやつか。
ちらと見上げたその顔は、邪気のない十五歳の少年のものだった。
すでに情が移ってしまっている。気を引き締めねばと思ったとき、白洲がぽつりと口にした。
「あの本、『ことだまひびきわたれり』を持ち出したのは友永勇だ」
温もりに甘んじていた身を起こす。白洲は小さく笑ったが、本気で言っているようだった。
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