〈八〉「縛」の碑
見上げると夕暮れの空があった。
薄紅色に染まった空、そこに薄っすらと青みがかった昼空の名残が混じり藤色になる。
ぐんと高度が上がるのを肌で感じる。風はときおり乱れ、我輩のいる鞄のなかに無秩序に入り込んできた。
花蔵のことが気にかかっていた。
まさか時雨が、という思いはある。
白洲は友永と時雨を危険だと云っておきながら、なぜ花蔵を一人残したのか。
花蔵が白洲の言葉を鵜呑みにして時雨を敵視することは万にひとつもないだろう。おそらくは白洲に不信感を抱いているはずだ。
白洲と花蔵の関わりなどせいぜい二ヶ月ほど。ここ三年間の時雨と花蔵とを思えば、どちらを信用するかは比べるまでもないことだ。
だが、我輩は白洲の言葉を否定できないでいる。
別の可能性も考えられた。
白洲は友永たちと敵対するふりをしながら、裏で彼らと繋がっているということもあり得る。
なによりその前に、白洲の持つ紫宮の力の出処が気になっていた。
こうして
ふっと風が変わった。
川の匂いがし、せせらぎの音が近づいてくる。そして、紫宮の気が満ちた。
「危ないよ、ヤマト。もうすぐ着くから大人しくしてて」
どうやら、白洲はその言葉で我輩を使役する気はないようだった。
鞄の際に前足をかけて眼下の景色をのぞき込むと、ちょうど紫宮家の屋敷が真下にある。そこを通り過ぎ、我々はさらに山林深くを目指して飛び続けた。
徐々にまわりに漂う紫宮の気が濃密になり、いつものことながら緊張で毛が逆立ちはじめる。
長く息を吐き、気を落ち着けた。
鞄から身を踊り出し、爪を立て白洲の腕を伝う。紺のカーディガンがわずかにほつれたようだったが、黙っていれば問題ない。
花蔵よりも多少足場の広いその肩に四本足をのせ、我輩は視線の先に見慣れた枝ぶりの樹々を見つけた。
紫宮の気が凝縮し、空間が揺らいでいる。白洲が向かっているのは、
「紫宮の『縛』の碑に向かってる」
やはり。
強まる警戒心でうっかり立ててしまった爪に、白洲も気づいたようだ。花蔵であれば口を尖らせてぶつくさと文句を垂れるところだろう。
「ヤマトは思慮に欠ける。花蔵よりはマシだけどね」
「なんだと。小僧」
「間違いない、僕は小僧だ。花蔵と同じ十五歳。今年ようやく十六歳。でも、力はヤマトより上。それくらい分かるでしょ」
紫宮の気配を消し、紫宮の秘術を使う。無生物にたよることなく身ひとつでその体を浮かせ、この「縛」を前に平然としている。あの書に施された「縛」、さらにはあの五芒星。それが白洲によるものかどうかは確かめてみねば分からないが、その可能性は十分に考えられる。
悔しいが、我輩には白洲の力を推し量ることすらできない。
「僕は四十三代目の孫だ」
予想通りというべきか。だが、それは言葉になるとそれなりの衝撃を我輩にもたらした。それこそが「言霊」の力なのだろう。
間近にある白洲の顔を観察した。
切れ長の目は穏やかで、時雨と比べると華やかさはないが、鼻筋の通った整った顔立ちをしている。
横顔が、その父親に似ていないこともなかった。
「
ははっと、白洲は渇いた笑い声を漏らし、蔑むような眼で我輩を一瞥した。
「親父は名前すら呼んでもらえないんだ。紫宮の人間は愚かだよ。紫宮厳治は愚か者だ」
「……貴様」
「知らないだろう。親父は『縛』の碑だけでなく山林全体に張られた結界をずっとフォローしてきたんだ。綻びだらけの、弱っちい厳治の結界を。友永勇なんて何の役にも立っていない」
「何を言っている。お前の親父は当主の重責に耐えられず逃亡した」
「違う!」
白洲の声に全身の筋肉が硬直した。
ハッとした様子で彼は「ごめん」と口にし、と同時に体の縛りが解ける。どうやら我輩の四肢は言ノ葉などなくともどうにでもできるようだ。
歴然たる力の差に笑えてきた。
逃げるくらい一人でできると花蔵に言ったが、それも無理そうだ。あとは、白洲が敵でないことを祈るばかり。
白洲はふて腐れたように口をつぐみ、真っ直ぐに「縛」の碑の方角を見つめていた。その真上まで来てピタリと体を止める。
花蔵をこの場所に連れてきたことはなかった。
友永は途中まで車で、その後は徒歩で「縛」の碑へと日々通っている。まだ夜も明けきらぬ早朝のことだ。それは厳治も同じだった。
我輩ひとりで来るときは樹々の上を駆けたが、こんな風に真上から碑を見下ろすのは初めてだ。
生い茂る樹々がちょうど碑のまわりだけぽかりと口を開け、そこから吹き上げる気の流れを全身で受けた。
さすがの白洲も、その顔にわずかな強張りを見せている。
「行こうか」
白洲の体は徐々に高度を下げ、我々は森のなかへと降り立った。
そこにあるのは直径二尺ほどの円盤状の石。それが「縛」の碑だ。
何も知らなければちょうどいい腰掛け石、だがこんな場所で休む人間などいない。
白洲の肩を蹴って地に降り、その勢いのまま駆けて距離をおき、我輩は碑をはさんで彼と向きあった。
「説明しろ、白洲」
歪んだ笑みを浮かべ、白州は足元の碑に視線を向けた。
「親父は気づいたんだ。この碑が、……『縛』が封印し続けているもの。山林全域にわたって描かれた魔法陣、そして、その魔法陣と『縛』のふたつの力によって大地に閉じ込められたものに」
「……魔法陣」
厳治の推測は間違っていなかった。
だが、魔法陣そのものを「縛」によって封印してきたわけではないのか?
ならば何を――。
「大地に閉じ込められたものとは、なんだ」
「ヤマトはそれを聞きたい? 紫宮の存在理由を」
長いあいだ身じろぎせず睨みあっていた。
樹々のあいまから差し込む光は次第に弱まり、白洲の背後に見える木立が薄闇をまといはじめる。
先に根負けしたのは我輩だった。
「知りたい。知りたいが、知りたくない。禁忌と好奇とは分かちがたい」
白洲はようやく表情を緩め「おいで」と口にした。だが、その言葉にはどこか迷いがあった。
このまま距離を置くことも、彼の元に行くことも、それは我輩の意思だ。
じっと彼の目を見据えると、白洲はまた自嘲のようなひねた笑みを浮かべる。
我輩は無意識に地面を蹴り、ふたたび彼の肩にのった。義治の顔を思い出したからかもしれない。
白洲は自分で口にしておきながら、驚いたように目を見開いていた。
「白洲。この下には何がある」
「……穴、だよ」
穴。
そう口にしたとき、間近にある白洲の顔が緊張で強張った。
まばたきもせず碑を睨みつけ、蒼白の頬に汗が滲んでいる。
「闇の穴だ。途方もない混沌。闇の奥で
「なにがだ」
「……分からない。でも、決して表に出してはいけない」
「白洲には見えるのか」
「うん。親父もそれを知り、紫宮の力だけではいずれ限界が来ると悟った」
「なぜ、厳治にそれを話さなかった」
ハッ、と白洲は息を吐き、首を振った。あまりにも複雑な表情に、我輩はこの花蔵と同い年の少年が抱えるものの重さを見た気がした。
白洲は
「親父は話したんだよ。厳治は一笑に付した。この体を突き刺すような恐怖を感じることもなく、当主の座で安穏としていたあの人には理解できなかったんだ。好奇に身を任せ、安易に紫宮の秘密に近づこうとしたあいつに、親父の言葉が理解できるとは思わない」
「魔法陣があるのではと、厳治も口にしていた。それが単に好奇によるものだと言えるか?」
「魔法陣の可能性を考えたのは親父が言ったからだ。書を読みあさり秘密を探ることに時間を費やすよりも、無能な人間はせめて自分の力を高める努力をすべきだった」
我らと碑の周辺で、熱をもった風が円を描き上昇気流が生まれた。それはまるで、白洲のうちにある怒りに大地が呼応したようだった。
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