〈七〉白洲錬
カウンターを出てすぐ脇の机の陰に身を潜めた。
四人がけの机にはそれぞれ本やノートが置かれているが、座っているのは一人だけで、その一人も熱心に本を読んでいるのか、足元にいる我輩に気づく様子はなかった。
耳を澄ますと、花蔵の声が聞こえた。
机からそっと頭だけ出してあたりを見回す。花蔵の姿は同じ並びの一番奥の机にあった。
席につき本を開いている同じ年頃の男子の隣で、立ったままその本をのぞき込んでいる。耳に入ってきた声に聞き覚えがあった。
どうやら花蔵と同じクラスの男子のようだ。
時雨だけでは飽き足らず盛んなことだと呆れつつ、我輩はそっと歩を進め、タイミングを見計らって書架の上に登った。
いくつかの書架を渡り、壁際の、もっとも彼らに近い場所で身を伏せる。埃で鼻がムズムズするが、じっと堪えた。
ここでクシャミでもしようものなら、花蔵は思い切りこちらを振り返りそうだ。
正面から見るその男子の顔はまだ青年というには幼く、見覚えはなかったが、その声に朝の記憶が蘇った。
質問に答えられぬ花蔵の代わりに、教師に指名された生徒だ。そして帰り際「図書館に行く」と言っていた。
ふと、机に積まれた数冊の書籍が目に入り、息をのんだ。
『魔女狩りの歴史』
『魔術と呪術』
『魔法陣の理論的解析』
『白魔術と黒魔術』
花蔵があの男に接触した理由はそれか。
「白洲君、魔法に興味があるの?」
「うん。演劇部の脚本書いてて、魔女のこと調べてる」
「すごい。脚本書けるんだ」
「別にすごくないよ。紫宮さんは勉強?」
「私が勉強すると思う?」
「紫宮さんは机に向かうより動いてるほうが好きそうだね」
「学校で楽しいのなんて、体育と音楽、あとはお弁当かな」
白洲からは何の力も感じられない。魔術らしい気配も、当然紫宮の気配も。
杞憂かと気を抜いた瞬間、不意に離れた場所で紫宮の気を感じた。図書館へ入ってきたこの気配は、どうやら時雨のようだ。
弱く未熟な力だがちょうどいい。時雨を「白洲」に引きあわせて探らせるか……。
「白洲錬曰く、」
唐突な言ノ葉に伏せていた身を起こし、我輩が白洲を見据えたときにはすでに遅かった。
花蔵も呆然と白洲の口元を見つめている。
彼の唇からは言ノ葉が紡がれ、聴覚を閉じねばと脳裏をかすめたが、その思考も確かな形でまとまる前に霧散する。
「汝大和今我に従わん。我身に寄り…………也」
白洲の顔を凝視し、奴と視線を絡ませた。
時雨に探らせるよりも、我輩自らが直接彼と接触すべきだ。その方が確実に情報を得られる。
そう考えたのは白洲の言ノ葉によるものだろう。そして我輩はそれに従うしかない。
書架から白洲の足元に飛び降り、我輩はなぜか時雨から身を隠すことを選んだ。彼の言霊がそうさせている。
「初めまして、ヤマト。僕は
「時雨先輩が?」
「友永時雨はじきにここに来る。詳しいことはまた後で話すから、紫宮さん適当にごまかしてくれないかな。ヤマトはちょっと借りるね」
白洲は邪気なく花蔵に微笑みかける。
「おいで、ヤマト」
その言葉で我輩は白洲の足元に置かれたスポーツバッグに潜り込んだ。
「花蔵、安心しろ。我輩ひとり逃げるくらいなら朝飯前だ」
不安げな表情を浮かべていたが、花蔵はしぶしぶ首を縦に振り、ちらと見えた時雨の姿に自ら歩み寄っていった。
我輩は気配を悟られないよう息を潜め、白洲の鞄のなかで揺られる。
開けっ放しのファスナーから差し入れられた白洲の手が我輩の視界を覆い隠し、すぐ傍を数人の足音が通り過ぎた。その足音が遠ざかると白洲は我輩の頭をひと撫でして鞄を担ぎなおし、ふたたび歩きはじめる。
まだ館内から出ていくつもりはないようだ。
花蔵と時雨のいる場所から三枚ほど書架をはさんで、白洲は彼らの様子をうかがっていた。
普通の人間であれば、当然花蔵たちの声が聞こえるはずなどない。やはり、白洲も耳が良い。
「女の子っていうのは面白いね、ヤマト。こんなに殊勝な
我輩に若干の本性を見せたつもりだろうか。白洲は平然と花蔵を呼び捨てにした。確かに声だけ聞いていると品のいいお嬢様だ。
――時雨先輩はこの後どうするんですか?
――私はここで課題を終わらせてから家に帰るつもりです。花蔵様はお一人で?
――え? ええ。ヤマトは先に帰ったの。ミヤビちゃんとデートみたい。
ミヤビか。誤魔化すにはちょうどいい。たとえ帰りが遅くなったとしても、友永が勘ぐることもないだろう。
頭上で白洲の笑い声がした。
「ヤマト、彼女がいるんだね」
「その質問に答える気はない。彼女に何かする気ならお前の首根っこを噛み千切るだけの話だ」
「いいね、ヤマト。情に厚い猫は嫌いじゃない」
――時雨先輩。私も隣で勉強しててもいい?
――それはもちろん。
――帰りは一緒に紫宮でご飯食べていきません? 友永さんに車で家まで送ってもらえばいいから。
――いえ、私のために紫宮家の方々のお手を煩わせるわけには。
――そう、残念。
――申し訳ありません。茶室まではお送り致します。
――本当? じゃあ少し遠回りしてもいい? 本屋さんに寄りたいの。
――かしこまりました。
「滑稽だ」
白洲の声は冷やりとしていた。
それがこの男の本質なのか、先ほど彼が口にしたことをどう解釈すべきか。まだ判断を下すのは早い。
「大目に見ろ。年頃の娘の恋愛ごっこだ」
「ごっこ? でも僕が言いたいのはそういうことじゃない。あれじゃあ、まるで象がアリンコに恋してるようなものだ。本気になれば花蔵は気づかないうちに蟻を踏み潰す。蟻は象の大きさを分かっていない。力の差がありすぎるっていうのは、なかなかお互い盲目になるものだね」
「お前が言うほど時雨の力は小さくない。使う術を知らぬだけだ。教える気もないがな」
「たとえその術を身につけたとしても同じだよ。蟻は蟻だ」
「その蟻は毒を持っているやも知れぬ」
「その言葉、そっくりそのままヤマトに返すよ。時雨が毒を持っていると気づかなかったのはヤマトだ」
白洲は鼻でわらって我輩を鞄に押し込め、ファスナーを閉める。花蔵たちの声は聞こえなくなっていた。大人しく勉強でもはじめたのだろうか。カリカリとペンを走らせる音がしていた。
「友永勇も、時雨もまだ自分たちが疑われているなんて思ってない。花蔵は大丈夫だよ。日が暮れないうちに行きたいところがあるんだ。入り口抜けるまで大人しくしててね、ヤマト」
鞄のなかで揺られていると、あの守衛の声が聞こえた。
――あら。さっきの茶色い猫ちゃん。黒猫さんは帰っちゃったのかしら。あなたもお帰りなさい。ほらほら。
――みゃぁうぅ……。
ミヤビは我輩に気づいている。だがこれ以上彼女を巻き込むわけにはいかなかった。
息を潜め、彼女の愛らしい鳴き声が遠ざかるのを聞いていた。じきに噴水の水音が大きくなり、周囲の足音が消えた。
「ヤマト、ごめんね。ミヤビの顔見たかったでしょ」
戦慄が走った。
「白洲、さっきの言葉は本気だ。ミヤビには手出しするな」
「しないよ。ミヤビは愛されてるね」
鞄の中から白州の表情をうかがうことはできない。彼が浮かべるのは嘲笑だろうか。
ぴたりと鞄の揺れがおさまり、光が射し込んだ。
白洲は「もう少しなかで大人しくしてて」とファスナーを開け、一瞬だけ見えたその瞳はどこか悲しげだった。
我輩と目があうと自嘲のようなひねた笑みを口元に浮かべ、そして目を伏せた。
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