〈六〉潜入 

 茶室の濡れ縁で丸くなっていた。隣にいたミヤビが立ち上がる気配にピクリと耳を動かすが、彼女はいつも通り何も言わずどこかへ行った。


 しばらくしてチャイムの音が聞こえた。


 ――花蔵ぁ、先輩来てるよ。


 ――あっ、時雨先輩。どうしたんですか?


 ――これを。


 ――へええ。リュックよりいいかもしれないですね。私の鞄も毛だらけにならないし。ありがとうございます、先輩。


 何かしら我輩が入るものでも準備したのか、時雨らしいといえば時雨らしい気遣いだ。


 不意に、弾けるようないくつかの笑い声が聞こえた。


 学生らしい教室内の他愛ないやりとりが、誘い合わせるような会話とともに徐々に減っていく。


 学校が終るとほぼ毎日まっすぐ家に戻る花蔵は、これまで学友からの誘いを何度か断っていた。


「家が厳しいの。今度抜け出すからまた誘って」と笑って教室を立ち去る花蔵が、そのあと教室で交わされる「ノリは良いのに、つき合い悪いよね」という友人の言葉を聞き逃しているとは思えない。あいつも耳は良い。


 ――れん、お前これから図書館行くの? じゃあまた誘う。バイバイ。


 ――悪いな。また明日。


 図書館という言葉が引っかかった。学校帰りに図書館で勉学に励む、そういった学生もいるのだろう。花蔵バカグラに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだ。


 バイバイという花蔵の声が聞こえ、我輩は体を起こし伸びをした。


 スン、と気配を嗅ぐと清浄な空気が肺を満たす。風に、かすかにミヤビの匂いを感じた。まだ近くにいるのか、残り香か。


「お待たせ、ヤマト」


 花蔵はなかなか凝ったものを持ってきた。


 鞄の中には我輩が入れるくらいの大きさの箱があり、その上に図書館の本が二冊乗せられている。


 身動きはできそうにないが、守衛のいるゲートさえ通過すれば後はどうにでもなる。


 そして思った以上にすんなりと図書館に入ることができた。当然だ。ほんの一、二分じっとしているだけでいいのだから。


 花蔵の歩くのに合わせて揺られ、ピタと固定した場所に置かれた気配があった。箱が開けられ、見上げると花蔵は体で鞄をおおい隠すようにして周囲をうかがっている。


「ヤマト。出てきてもいいよ」


 鞄から顔だけ出してあたりを見回すと、書架の端に置かれた椅子に花蔵は座っていた。


「あっ」とつぶやいた花蔵が強引に鞄を閉じ、また我輩は箱のなかに押し込められる。放課後ということもあり、館内にはそれなりに人がいるようだった。


 そっと、様子を探るように鞄が開けられた。


「ヤマト、このあとどうする?」


 そう口にした花蔵は鞄の中をのぞき込むこともなく、どうやら本を開き、利用者を装っているようだ。我輩もじっと箱に身を潜めたままでいる。


「例の書は一般の書架には置いてないようだ。友永は保管庫ではないかと言っていたが」


「貸出中ってなってるのはやっぱり嘘なのよね?」


「さすがに鈍感のお前でも書の気配は分かるか」


「分かるわよ。お祖父様の気配だもの。でも……何か違う。紫宮じゃないものが混じってる気がする。なんか気持ちわるい」


 思わず顔を出すと、花蔵の口元がかすかに強張っていた。


「花蔵、どんな気配だ」


「分かんないよ。ヤマト、感じない?」


 神経を集中した。館内にあふれかえる紫宮の気の陰に、花蔵は何を感じたのか。


 だが、花蔵の言う「紫宮じゃないもの」を我輩が察知することはできなかった。


「……花蔵。『ことだまひびきわたれり』は遺族から返却して欲しいと申し出があったそうだ」


「遺族?!」


「友永が今日確認した。紫宮義治の名で申し出があったと」


「……うそ」


「本人かどうかはまだ分からん。どちらにしろ警戒を怠るわけにはいかない。花蔵、試しに閲覧を申し出てみろ。遺族は閲覧可能らしいからな。学生証があれば遺族と認めてもらえるはずだ。受け取りは無理だろうが……いや、その前に閲覧できるかどうかも怪しいが」


「遺族なら閲覧可能なんでしょ?」

    

「力のない図書館の人間に、『縛』の施された書が見つけられるとは思えん。仮に持ってきたとして、偽物の可能性がある。……が、ものは試しだ。行け」


「分かった」


 人目を避け、我輩は花蔵の肩を踏み台に書架の上に飛びのった。


 舞い上がった埃に思わずクシャミをし、慌てて身を低くする。誤魔化すように花蔵が咳をした。


 馬鹿のわりになかなか気が利く、と思ったら「ヤマト、バカなの? ばれるじゃない」とブツブツつぶやく声が耳に入った。明らかに我輩に聞かせようとしているが、いちいち反応するほど子どもではない。


 無視していると、花蔵は大人しくカウンターへ歩いていった。


 ――ああ、御遺族の方ですか。お昼にも使用人だったとおっしゃる方がいらして。


 ――はい。見せてもらえなかったんですよね。


 ――すいません。ええっと、お孫さんなんですね。では書庫の方見て参りますので、しばらくお待ち下さい。


 花蔵の応対をしたのは、友永が昼間に接触した人間だった。


 得意げな顔でこちらを振り返っている花蔵を見ながら、どうすればあれだけ暢気で楽観的な人間が育つのか、つくづく不思議になる。


 彼女の人生の半分以上を見守ってきた身としては、あれはもう持って生まれた性質としか思えなかった。

 

 ――お待たせしました、紫宮さん。


 ――あっ、はい。本、ありました?

   

 ――すいませんが保管用書庫には置いていないようで。担当者がどこかに移したようです。


 ――その、担当者の方は。


 ――今日はお休みをいただいてまして……。すいません。確認できましたら、こちらから連絡させていただきます。



 とぼとぼと意気消沈した面持ちで戻ってきた花蔵は、書架に隠れるようにして我輩を見上げる。


 花蔵ほど安易に期待を持てれば幸せかもしれないが、長く生きれば生きるほど、期待することに虚しさを覚えるだけだ。


「現物を確認しておきたい。我輩はその書庫に行く。お前は『紫宮じゃないもの』の痕跡を探せ」


「分かった。ヤマトひとりで平気?」


「何かあったらこの美声で人間を魅了するだけだ」


「保健所に通報されないようにね」


「導士を甘く見るな」


 ふたたび鞄のなかに入り、カウンター脇まで花蔵に運ばせた。


 カウンターの中には三人。


 そのうち一人が電話を受けて姿を消し、一人が返却の応対にあたっているところで花蔵にもう一人に声をかけさせた。


 そっと鞄から身を躍り出し、言ノ葉を唱えて自らの体を使役する――つまり、我輩のもつ力を普段よりも解放した。

    

 周囲をうかがいカウンターのなかへ、そして利用者の目にとまらぬよう図書館員が座る椅子の脇を抜け、保管用書庫に続く通路へと一気に駆けた。


 狭い通路にはいくつかキャスター付きの本棚があり、その陰を縫ってさらに進む。


 さしたる苦労もなく保管用書庫にたどり着き、そのありかは探すまでもなくすぐに分かった。


 ビリビリと毛が逆立っている。


 花蔵の言った「紫宮じゃないもの」の正体がそこにあった。



 書に施されているのが「縛」のみであったとして、それでも書を奪還することは困難だった。


「縛」を解くには、施された「縛」の力と均衡する「散」を発することが必要だ。


 強大な「縛」ならば強大な「散」が、微弱な「縛」ならそれと等しく弱い「散」が。それは「縛」を施すよりも余程難しい。今の花蔵では無理だ。


『ことだまひびきわたれり』あの書には元々「縛」が施されていた。それは鍵のようなものだ。


 厳治の死後、長くその鍵が開けられることはなく、この春、厳治の蔵書整理と時を同じくして初めて「散」によってその書を開いた。開けたのは花蔵だ。


 初めて「散」の言ノ葉を唱えた花蔵が、うまく鍵を外せる、つまり「縛」を解くまでに三度失敗し、一度は家屋が揺れた。


 以来、我輩がいるとき以外「散」の言ノ葉を唱えることは禁じている。


 そのあと花蔵が書に施した「縛」も必要以上に強いものだったが、頑丈な鍵をいくつも付けたようなものだからとそのままにした。


 我輩も導士であるから「縛」も「散」も習得している。


 だが、紫宮の人間が施した「縛」を、我輩の「散」で解くことはできなかった。


 猫と人間。同じように言ノ葉を使いながら、その本質の部分で何かしら異なるものがあるのかもしれない。


「それにしても……」


 目の前にありながら触れることすらできない書。


 強引に手を伸ばしたところで弾かれるのが関の山、五体満足でいられるかも定かではない。


 まるで図書館全体が結界に覆われているかのような強固な縛りは、たしかに「縛」だった。


 が、その背表紙に貼り付けられた一枚の紙切れは明らかに我輩の知る紫宮の術ではない。


 五芒星がそこにあった。



 ――「縛」が秘しているのは魔法陣かもしれん。



 いつかの、厳治の言葉が脳裏に蘇る。


 目の前の五芒星が西洋魔術のものなのか、それとも陰陽道、もしくはまた別のものなのかは分からないが、こうして重ねあわせ相殺することなく力を強めているのは、二つの力の親和性が強いということだろう。


 義治ではないのか、あやつが何者かと組んだか。


 この五芒星により強められた「縛」が「散」により解けるものなのか確証も得られぬうえ、力の制御もままならない花蔵がこの「縛」と同等の「散」を発しようとすれば、ことがこの場だけで収まるとも思えなかった。

    

 紫宮家の山林に張られた結界、ひいてはあの碑・・・に施された「縛」まで蹴散らしかねない。しかも、その「縛」は当主代理友永のもの。


 均衡な力でなくば「縛」は解けぬとはいえ、花蔵が力を抑制できねばその後何が起こるか保証はできぬ。


 震えが走った。


 紫宮の一切の力が「散」により蹴散らされ、紫宮の使命であるあの「縛」が解かれたとき、我らは一体何を目にするのか。


 悪寒が背を上るのは恐怖か、好奇か。


 長く生きると大抵のことには驚かない。そして、より強い刺激を欲するようになるものだ。


 知ることを禁忌とされた紫宮家の存在理由とは――。



 足音が聞こえ、我に返った。


 物陰にそっと身を隠し、そのまま通路へと駆け戻る。


 求めても知り得ぬことだ。豪胆にも禁忌に挑み続けた厳治ですら、「縛」の下に埋もれた真実は推測の域を出なかった。


 どうやら、この館内を覆う何とも言えぬ空気にあてられたらしい。


 カウンターから通路へと蛍光灯の光が漏れ出し、そのまばゆさに我輩はようやく正気を取り戻したように思えた。

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