〈五〉閲覧制限 

「ミヤビ。少し待っていてくれ。我輩は様子を見て来る」


 屋根の縁を蹴り一回転半で地面に着地する。


 駆け出した我輩の後ろから足音が徐々に迫り、振り返るとミヤビの姿がすぐ近くにあった。


「ついて来るな、ミヤビ。危険だ」


「みゃあ」


 ミヤビのお転婆ぶりは花蔵といい勝負だ。やはり手のかかる子ほど可愛い。それは人間も猫も同じのようだ。


「無理は駄目だよ、マイハニー」


「みゃあう」


 先刻の気配は「縛」と「散」が衝突したものだ。ともに紫宮の持つ力。


 何者かが「縛」の結界を解こうと「散」を発したとしか考えられない。


 誰が「縛」を施し、誰が「散」を発した?


 強大な「縛」に比して、発せられた「散」はあまりにも稚拙だった。


 友永に伝授したのは「縛」のみ。我輩の知らぬところに紫宮の血を引く者がいる、そういうことかも知れぬ。


 あの馬鹿息子が外でした子に秘術を教えたか、もしくは紫宮の血統の者を見つけたか。


 何にせよ、立て続けに紫宮の力を持つ者があらわれたとなれば、そのどちらかはヤツに関わる者だろう。


 二車線道路を駆け渡り、県立図書館の前庭の噴水をまわり込んで階段を上った。


 空気が身を刺してくる。


 感じるのは「縛」のみ。「散」の施術者は逃げたか――。


 館内へと続くガラス扉の前で足をとめて中をうかがった。誰か扉を開けそうな人間はいないものかと見渡してみると、一人の屈強な男と目が合った。守衛だ。


 躊躇いなく近づいてくる彼に一旦退こうとしたが、館内の気配を嗅ぐだけならばと思い直し足を止めた。そして扉が開かれ、流れ出してきた空気に身がすくむ。


「縛」の力は思っていた以上だった。


「あらあら、可愛い猫ちゃん。だめよ、この中には入れないの。ほらほら」


 ぞわりと毛が逆だったのは「縛」のせいではなく守衛の猫なで声によるものだ。追い立てられる前に体が動いていた。


 ミヤビが隣でなんとも微妙な顔をしているのを見て、少しだけ気持ちがなごんだ。


 建物と植え込みの隙間に飛び込み、花壇のレンガを伝い歩きながら、窓ガラス越しに館内の様子に目を走らせる。見慣れた白髪の後頭部は友永だ。


 あいつ、何を話している。


 ――先日、この本の予約を入れたはずなんですが。


 ――ええと。『ことだまひびきわたれり』ですね。少々お待ち下さい。……ああ、申し訳ありません。何かの手違いがあったようです。この本は現在閲覧制限がかかってます。


 ――閲覧制限? どうしてでしょう。


 ――この本は地元の名士の方の遺族から寄贈された本なのですが、御遺族から返して欲しいと申し出があったようです。著者である紫宮厳治氏の息子さんが取りに来られるまで、遺族の方以外には見せないようにと。


 ――息子、ですか? 息子というと義治よしはる様がその申し出を?


 ――そのようです。担当者が今日は休暇を取っておりまして。詳しいことは私も分かりかねますが。


 ――私、紫宮厳治の使用人を務めておりました。現在も紫宮家で働いております。身分証もお見せいたします。表紙だけでも結構です。拝見させていただけないでしょうか。


 ――申し訳ありませんが、直接紫宮様と交渉していただけますか。私どもの方で勝手にお見せするわけに参りませんので。



 友永にもう少し押しの強さがあれば文句はない。温厚なだけでは当主代理は務まらぬ。


 それにしても――。 


 あの馬鹿息子が絡んでいるのは間違いないが、しかしあの「縛」を肌で感じ、余計にヤツが分からなくなった。


 今さらあの書を手に入れたとて、この「縛」の前では紙切れどころか塵屑同然。それが分からぬヤツではあるまい。


 何を考えている、義治。隠れていないでその姿を我輩の前に晒せ。


「みゃあう」


「ああスマン、ミヤビ。やはり、出来の良いやつは面倒だな」


「みゃあうぅ」


「そうか? ミヤビは出来の良いやつがいいのか?」


「みゃあう」

    

「そうだな。出来の良し悪しは問題じゃない。ヤツと信頼関係が築けなかったのは、我輩にも問題があったのだろう」


 自覚はあった。


 我輩は拗ねているのだ。義治に置き去りにされたことを、ずっと。


 ヤツがいなくなって心の端に穴が開いた。昔を懐かしむにはちょうど良い塩梅の隙間風が抜けるが、決して埋まることのない穴。


「大和様。お出ででございましたか」


「ああ、友永。先ほどのやりとりは聞いていた。押しが足りんぞ」


「面目次第もございません」


「それより。『散』が弾けたとき、お前どこにいた」


「大和様もお気づきでしたか。私はそこの入口の辺りで、ちょうど館内に入る所でございました。『散』は図書館の受付カウンターの奥で発せられたかと」


「カウンターの奥か」


「はい。保管用の書庫があるようです。おそらく例の書もそこに」


「分かった。ご苦労。我輩も、あとで花蔵と中に入ることにしている。その時に確認する」


 不意にミヤビが体を擦り寄せてきた。我輩が人間と話しているときに邪魔をするなど珍しいことだ。


「ミヤビ、どうした」


「みゃぁう」


「……二人になりたいそうだ。友永、我輩はここで失礼する」


「かしこまりました。ミヤビ様、またいずれ」


 友永の後ろ姿が駐車場に停められた黒のセダンの中に消える。と同時にミヤビは警戒を解いた。


「ミヤビは友永が嫌いか? 悪い奴ではないよ。長年の付き合いだ」


「みゃあ」


「拗ねるなミヤビ。あんな老いぼれに嫉妬してどうする」


 何年この世に生きようと雄は雌に弱い。


 我輩は彼女の機嫌をうかがいつつその首元を舐め上げ、額を頬に擦りよせた。


 身を寄せあわねば居られぬほどに「縛」は変わらず図書館の空気を歪めている。

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