〈四〉使用人の力

 紫宮しのみや朱ノ森あけのもりは元をたどれば同じ一つの家だった。両家には同じ血が引き継がれ、だがその力には歴然とした差がある。


 紫宮の家に生まれながら言ノ葉を一切操ることのできなかったある男が、この地を離れ興したのが朱ノ森家だ。


 その子孫にはポツリポツリと力を持つ者もあったらしいが、取り立てて記憶に刻まれるほどの才を有する者はいなかった。


 力はないが商才はあり、歴史の転換点において紫宮家は朱ノ森から数度の資金援助を受けたという記録もある。


 何にせよ、花蔵は変わり種なのだ。


 紫宮家においても、かつて彼女ほどの力の持ち主がいたのか我輩には分からない。


 ずいぶん長く紫宮と関わっているが、あれほどの力を持ち、且つ、あれほどの馬鹿は目にしたことがない。


 頭が働けば今の状況に危機感を抱くはずが、あれでは大砲を手にした幼子と同じ。厳治いずはるが逝くのが少々早すぎた。


 使命の重さは我輩も重々承知している。とはいえ、することと云えばあの碑・・・の前で言ノ葉を唱えるのみ。それも友永の仕事で、我輩がすべきは彼の施した「縛」に綻びがないか確認する程度のことだ。


 変わりのない日々に甘んじているのは我輩も同じ。


 気を引き締めねばならぬが、如何せん花蔵は我輩を敬う気が欠片もない。秘術の導士というより口うるさい姑でも見るような目を向けてくる。


 本格的な修練は高校に入ってからと、先延ばししてきたのが間違いだった。


 あの書、『ことだまひびきわたれり』に厳治が書きおこした言ノ葉を、彼の死後すぐにでも花蔵に伝えるべきだった。


 だが精神的な成熟度と彼女の潜在能力を考えると、あまりにも不均衡過ぎる。危険を犯して使命を継ぐものがいなくなるよりは、現状維持が最善の選択だったのだ。


 そう考えるのも単なる言い逃れかも知れぬが。


 秘術の書は紫宮の血を持たねばただの本。読んで力を得られるわけでもなく、子ども向けの空想物語として愉しむのがせいぜいだ。


 厳治がそのような形で秘術を書き残すのを机の傍らでながめながら、無関係の人間が目にしても怪しまれぬよう配慮しているのだろうと、その当時は思っていた。だが、我輩は最近その考えを改めた。


 あれは、馬鹿の花蔵にも読めるようにという、厳治の苦肉の策だ。万一あの書の中身が誰かの目に触れても怪しまれることはない。


 だが、無自覚に紫宮の血を引くものはいる。たとえば、友永勇のように。


 友永が紫宮の血を継承していると発覚したのは厳治のほんの戯れのせいだった。


 簡単な言ノ葉を試しに使用人に教えた。その中に血を引くものがいるとは、厳治も我輩もまったく考えてはいなかった。


 そのとき友永が動かしたのは屋内に入り込んだ蜂で、それを外へ追いやっただけのことだが、本人は目を見開き腰を抜かしていた。



 時が経ち、その才の片鱗を見つけた友永が連れてきたのが時雨だった。


 彼が紫宮家に仕えるようになったのは厳治の死後、今からちょうど三年前の、花蔵が中学にあがった年のことだ。その頃から彼は目付としての勤めを果たしている。


 実際のところ、目付というよりは友永の過保護だ。花蔵に何かあったとして時雨にできることなどなく、せいぜい電話で事を知らせる程度のこと。



 友永にしろ時雨にしろ、力を持つとはいえ彼らがしているのは基本的に自己暗示に近いものだ。


 無意識に制御されている力を解放し、筋力をわずかに高める、感覚器官を鋭敏にする。それだけでも使用人としての業務効率はぐんとあがる。


 実務により鍛えられた二人の能力は、決して低いものだとはいえない。日常的に精神を研ぎ澄ませ、聴覚については言ノ葉など唱えなくとも常人以上だった。


 とはいえ二人あわせても花蔵や厳治の力の一割にも及ばないだろう。だが今以上の力を彼らに求めるつもりはない。


 友永には当主代理として「縛」に関する必要最低限のことは教えた。


 花蔵が当主となるまであと二年少々。それまで持ちこたえてくれればそれでいい。


 正統に当主の責務を負う人間以外が力を持つことは、危険の種を撒き散らすだけなのだ。



 ――すいません。飼い猫が体操服くわえて逃げ回るものだから、家を出るのが遅くなって。


 花蔵バカグラの声が風に乗って耳に届いた。


 我輩のいる裏門の上からは当然彼女の姿を確認することはできないが、どんな顔をしているかは簡単に想像がつく。


 まったく、バレていないと思っているのか、好き勝手に嘘八百を並べる。言葉に対して真摯であらねばならぬ身だと、口酸っぱく言っているというのに。


「大和様」


 声をかけられ目をやると、門の脇で友永がこちらを見上げていた。


 存外、このジジィは気配を隠すのが上手い。いつか寝首を掻かれぬよう気をつけねばと戯れに考えたりもするが、すでに半世紀以上の付き合いになる数少ない同士。信頼こそすれ、無用な警戒は神経を擦り減らすだけだ。


「友永か。今から図書館に行くのか」


「はい。どうやら結界が強まっているようですね」


 加えて、友永はなかなか感受性が鋭い。花蔵の力が影響するこの地点で結界の力を察知できるとなると、それは相当なものだ。


「分かるか、友永。何か紫宮以外の痕跡がないか、気をつけて見てくれ。前にも話した通り、おおかたヤツ・・の仕業で間違いないだろう。だが、それ以外の可能性も捨てるわけにいかぬ」


「かしこまりました。では」


 この感覚の鋭さを花蔵が身につけてくれさえすれば言うことはないのだが、身内にそういう力を持つ者がいるというだけでも儲けもの。


 それぞれの力は歪だが、異なる能力を持っていれば何かしら不測の事態にも対応できる。


「……みゃあう」


 愛くるしい鳴き声とともに、楊梅色やまももいろの柔らかい毛並みが目に入った。我輩よりひとまわり小さい野良猫だ。


 野良にしては美しく毛がつくろわれ、所作にも気品がある。


 野良と云うのはあるいは嘘か、飼い猫が野良に堕ちたか。家無しとはいえ、彼女の美貌ならば何軒か出入りの家もあるのだろう。


「おはよう。ミヤビ。今日はどこに行こうか」


「みゃぁう」


「そうだな。あそこのトタン屋根は暖かくて気持ちいい」


 門を飛び降りると、ミヤビは甘えるように体を擦り寄せ、我輩の背を舌で撫でた。


 秘術の導士とはいえ、色恋御法度というわけではない。何の呪いか我輩の人生は他の猫より途方もなく長いようだが、その猫生を謳歌する権利はあるのだ。


「そういえば、ミヤビに出会った頃はまだ黒猫だったのだがな」


 我輩がポツリとつぶやくと、ミヤビは不思議そうにこちらを見て、また白斑の浮かぶ我輩の背を舐めた。気分が若返るのはミヤビのおかげだろう。


 ミヤビと並んで校庭の端を駆け、職員用駐車場で軽自動車を足場に塀に飛び上がる。校外へと足を下ろすまえに花蔵の教室に目を向け、耳を澄ませた。


――じゃあ紫宮。昨日の復習だ。この例文訳してみろ。


――はい。ええっと、ケイトは昨日……、昨日、


――昨日どうした?


――どうしたんでしょうね。


――紫宮。また飼い猫のせいで復習を怠ったか? 座れ。代わりに白州しらす。分かるか?


――はい。


 花蔵には十八になるまでに覚えねばならぬこと、身につけねばならぬことが山積している。


 夜ごと秘術の鍛錬に励んではいるものの、彼女の自由になる時間は今のところ十分にあった。


 勉学に勤しむべきその時間を、花蔵は我輩の目を盗むようにしてファッション雑誌などめくっているのだ。そしてこの体たらく。


 当主の座に就いたものの留年の繰り返しで延々高校生などということにでもなったら目も当てられない。


 時雨に勉強でも見させるか。いや、それでは花蔵が惚けるだけだ。


「みゃあう」


「ああ。すまん、ミヤビ。我輩のあるじは手のかかるやつでな」


「みゃあ」


「ああ。手のかかる子ほど可愛いものだよ」


 高校と道をはさんだ赤いトタン屋根の倉庫の上で、我輩はミヤビとともにその温もりを享受した。


 県立図書館の駐車場脇にあるこの建物。トタンの温もり以上に、漂ってくる歪な空気が神経を逆撫でする。


 やはり、この結界は「縛」としか思えぬ。


 気配を嗅ぐが、それ以外の力を感知するまでには至らない。


「ミヤビ、眠れないだろう。猫ならばこの気配を感じぬはずはない」


「みゃあお」


 ミヤビの首元を舐めた我輩の背後で、突如気配の一部が弾けた。


 ぞわりと毛が立ち、慌てて身を起こし図書館に目をやる。隣でミヤビが爪を立てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る