〈参〉紫宮の使命
ふくれっ面の花蔵の、はためくスカートの向こうで県立図書館の空気が揺らいでいる。じわりと不安が込み上げてきた。
そろそろこちらから仕掛けていかねば手遅れになるやもしれぬ。
そんな我輩の心中など
「本当にやってないんだから」
などと、まだぶつぶつと文句を垂れている。
「分かった分かった。それよりも早く対策を練らねば。館内の状況をこの目で一度確かめておきたい」
「ヤマトは猫だからなぁ。午後の見回り、リュックの中にでも入って一緒に行く?」
「そうだな、そうしてくれ。学校が終わるころに裏門で待ってる」
分かったと返事をした花蔵の意識は、すでに別のところにあった。
「あっ、時雨センパイっ」
裏門に時雨の姿をとらえた花蔵の頬が、かすかに朱に染まった。
秘術の漏洩よりも色恋に興味がある年頃なのだろう。次期当主、その重責を花蔵はまだ分かっていない。
『ことだまひびきわたれり』
あの書に施された「縛」が本当にヤツ――
逃げ出した先でどのようにしてその力を身につけたのか。気になるところではあるが、こうして書の奪還を妨害してくるあたり、ヤツが紫宮に頭を下げて戻ってくることはないだろう。
先が思いやられ、つい吐息が漏れた。
「ヤマト、朝からため息つかないでよね。辛気臭い。白髪が増えるよ」
「余計なお世話だ。お前のせいで心労が絶えない」
我輩の背に白い毛が生えてきたのは最近のことだ。
長く生きてきたがこんなことは初めてで、かといって老いたというわけではなかった。むしろその逆だ。以前よりも体に力がみなぎり、感覚が鋭敏になっている。
トンとほうきの柄を蹴り花蔵の肩にのった。
着地の寸前に花蔵はふっとその体を浮かせ、地面に足を着くと同時に片手に持ったほうきを庇の下に立てかける。
毎日のこととなると一連の動作は流れるようだ。足を着く位置もほぼ同じだった。
条件に合わせて洗練されていく力、それはこういった日常のなかで培われる部分もある。
「花蔵様、大和様、おはようございます」
「早くないだろう。悪いな、時雨。花蔵のせいでお前まで遅刻だ」
「おはようございます、時雨先輩。遅くなっちゃってごめんなさい。折角だから一時限目サボってどこか行きません?」
言ってみただけというような花蔵の戯言に、時雨は長身痩躯のその体を半分に折って糞真面目に「すいません」と謝罪を口にする。
祖父である友永に似て温厚な質で、花蔵相手に年上振ることも慣れ合うこともなく、頭をあげた彼は柔らかな笑みを口元に湛えていた。
「花蔵様、急ぎましょう。ホームルームはもう終わってしまいますが、走れば授業には間にあいます」
「花蔵、馬鹿なこと言ってないで早く行け。時雨に迷惑かけるなよ」
「はあい。もう、うるさい小姑」
駆けていくその背は以前よりも女らしさをまとっているものの、まだまだ子どもにしか見えない。時雨への気持ちも「恋に恋する」といった類のものだろう。
十八になれば否応なしに彼女はその責務を負わなければならない。それまでの恋愛ごっこも時雨相手ならば面倒なことにはなるまい。
時雨は花蔵との色恋など身分違いだと退けるだろうし、実際に時雨の手に負えるような相手ではない。二人の力の差は歴然としているうえに、中途半端に力を持つ者は欲をかくから信用できぬ。
花蔵の伴侶となる者はまったく無力な人間が望ましい。力によって使役されていることさえ気づかぬほど鈍い方が、花蔵にとっても相手にとっても幸せというものだ。
『サボってどこか行きません?』
あの言葉を花蔵が言霊の力をもって口にしたなら、時雨は従わざるを得ない。使役されていることを知りながら、むしろ喜んでそうするだろう。
言霊による使役は苦痛を伴うわけではなく、快楽を与え惑わせる。本気でサボろうと考えないあたり、花蔵もまだ可愛いものだ。
厳治の息子、あれは四十五年間サボりっぱなしで、生きていれば六十前後。
どうやらこの地に帰ってきているのだろう。一体何のためなのか。
県立図書館に張られた紫宮家と同種の力。それは日本古来の陰陽師などとは別種のものだ。
紫宮の力は西洋の魔術に近いものと伝えられているが詳細は不明だった。
口伝のみで受け継がれてきた紫宮家の力、それは
長い時を経て力の発動にかかる所作を簡素化し、紫宮は言葉だけで、つまり「呪文」で力を使うようになった。その呪文を「言ノ葉」と呼んでいる。以前は魔法陣のようなものが用いられていたとも聞くが、その痕跡は一切残っていないない。
紫宮家は秘術によって
だが、伝えられるのはその術のみで、そのために施す「縛」が実際に何を封印しているのか知ることはできない。
紫宮に伝わるのは「縛」と、「縛」を無力化する「散」のふたつの秘術だ。
当然「散」をもってすれば封印は解くことができる。だが知るということは即ち紫宮の責務を放棄すること。その後なにが起こるのかさえ分からない。
謎を知ろうとすることは禁忌なのだ。
「縛」によって封印されているもの。それが先祖の遺した魔法陣だという厳治の推測は、果たしてあっているのか。
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