〈弐〉県立図書館
臙脂色のスカートの裾がはためいている。
濃紺のカーディガンをはおった花蔵の肩の上で、我輩は周囲の気配を嗅いだ。
清浄な匂いがする。花蔵の傍にいる限り、それは常のことだった。
ゆるく結わえた花蔵の髪が、ふわりと風に吹かれて頬をかすめた。手を伸ばしたのは本能で、我輩に罪はない。
「……いッ、痛! もう、ヤマト。私の髪でじゃれないでって、何度も言ってるのに」
「じゃれてなどいない。ちょっと引っかかっただけだ」
手にはむずむずとした衝動が残っているが、我輩の理性でそれを抑えるのは容易いこと。ぱしりと尻尾で髪をはじき、花蔵の髪が視界に入らないよう背をつたって「ほうき」の柄に足をかけた。
ぱさりぱさりと
「スカートもダメだからね」
花蔵はその言葉のあと口元で言ノ葉を唱え、体に軽く圧を感じた。スピードをあげたようだ。
花蔵の操るほうきは魔法具などではない。飛ぼうと思えば彼女は身ひとつで宙に浮くことができる。
「無生物を動かす方が楽だから」
横着者の花蔵は悪びれずに言い、呆れてタメ息を吐く我輩のことなど知らぬふりだ。
正直なところ、自らの力のみで浮くということがどれほど体力なり精神力なりを消耗するものか、我輩には分からない。だが、先代の
長い紫宮の歴史のなかにはそういった力を持つ者もいたと聞くが、我輩の記憶にはなく、当然我輩も浮遊などできない。
それを、花蔵は幼いころ誰に教わることなく、飛び立つ雀を追いかけようと宙を歩いたらしい。
彼女がそのとき何と口にしたのか、周囲の誰もはっきりとは聞き取っておらず、本人も覚えていない。
紫宮家にとって言ノ葉は体内に眠る力を覚醒し、表出するためのものであるが、花蔵にとってそれは自らの力を制御するためにあった。
放っておけば無意識のうちに力を撒き散らす花蔵が、朱ノ森家でどのような扱いを受けていたのか。
聞こえてきた噂に厳治は眉間に深く皺をよせ、そして花蔵を引き取ると決めた。彼の数日間の煩悶は、家を出ていった息子を思ってのことだ。
花蔵を次期当主として迎え、紫宮に彼の息子が戻る場所はなくなった。
若葉が濃く色づきはじめた山林を越えると、眼下の景色は一気にひらけた。数キロ先の海岸線まで扇状に街並みが広がっている。
「…………」
花蔵が言葉を紡ぎ、ほうきはその角度を変え、すぐ近くに迫った佐志原高校へと下降しはじめる。
ふいに、空間の
「花蔵、分かっているか?」
「え、何が?」
「県立図書館だ。先週末より結界が強まっている」
花蔵は「そう?」と首をかしげる。
高校の建物よりも少し先、県立図書館の屋根に視線を向けると、その周囲が陽炎のように揺らいでいる。花蔵もそちらを見ているが、どうやら彼女には分からないようだ。
花蔵の潜在能力は猫である我輩などより桁違いに強い。しかし、強い光が淡い光をかき消すように、彼女は周囲の「力」に鈍感だ。
だからこそ彼女には力を制御する術を身につけて貰わねばならない。
紫宮家に来て無自覚に周囲を使役することはなくなったが、それでも彼女の力は流れ出している。だからこそ彼女の近くは常に清浄であり、そして邪悪なものを見えにくくする。
彼女に見えないものが見えるのは、我輩がそれなりに長く生きた猫だからだ。
「早いうちに対処しないと、あの書は紫宮に戻らなくなる」
「うそ! ダメよ」
「駄目って、元々はお前のせいだろう」
「もう! まだ疑ってるの? 絶対、私はやってないから。寄贈書のダンボールにお祖父様のあの本を入れるなんて、さすがに私でもしないから!」
二ヶ月ほど前、花蔵が中学を卒業した春休みに
読書家だった先代の蔵書の一部を県立図書館に寄贈し、その仕分けをしたのは我輩と花蔵だ。
そして、あの書が紫宮家から消えた。
その所在が分かるまでにそれほど時を要しなかったのは、佐志原高校と目と鼻の先にある県立図書館に紫宮の気配があったからだ。そこには書に込められた厳治の力の名残も感じられた。例によって花蔵にはまったく感知できなかったのだが。
以来、折を見ては図書館に出向き、貸出という形で穏便に奪還を図ろうとしているのだが、なぜか十数人が予約待ちという不可思議な状況にあった。
だが書の気配は図書館内にあり、貸出がされている様子はない。
そして、どうやらその書に施されている紫宮の秘術「縛」による結界が徐々に強まっていた。
紫宮の秘術を記した書が、我々の知らぬところで紫宮の秘術により封印されている。
図書館に書があると判明した当初は友永を疑ったが、その疑いはすぐに晴れた。
簡単な話である。友永では図書館に張られている「縛」ほどの結界を成すことはできないのだ。
それができていれば、友永は「当主代理」ではなく「当主」の座におさまることができたかもしれない。
友永だろうが花蔵だろうが、紫宮の血が絶えることに変わりはない。
花蔵は一貫して無罪を主張している。だが、それ以外図書館にあの書が紛れ込むなどありえない。
たとえ無実だったとして、どちらにしろそれは問題ではないのだ。
思考をめぐらせるまでもなく思い当たるのは一人、厳治の息子しかいない。
これほどの「縛」を、厳治よりも強い「縛」を成す人間が、今さらあの書を手にして一体なにをしようというのか。
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