〈壱〉次期当主バカグラ 

 朱ノ森あけのもり花蔵かぐらは現在「紫宮しのみや花蔵かぐら」として県立佐志原さしはら高校に通っている。


 高校の裏手にある山林地帯はすべて紫宮家の土地であり、紫宮家は高校を裏門から出て徒歩でおよそ四十分。


 舗装された道は車が行き違うことはできないが、それなりの広さがあり、傾斜さえ苦にならなければ歩くのに困難はない。ただ、それが心臓破りと呼ぶにふさわしい道であることは言い添えておく。



 使用人は基本的に住み込みで、街への行き来は紫宮家の所有する車で行っていた。


 次期当主である花蔵は学校までの道のりを送迎――などということはなく、彼女は山道など無視して、敷地内を一人ほうきで移動していた。


 蛇行した山道と生茂る木々をながめながら、彼女はそのすべてを飛び越えて家から学校の裏門まではたったの五分。正確に言うならば、花蔵がほうきで飛行できるのは裏門の少し手前にある、紫宮家の所有する小さな茶室までだ。その茶室の庇の下にほうきを立て掛け、学校へと向かう。


 花蔵が十八歳になるまで力を使うのは紫宮家の敷地内のみと定められていた。


 そして、今日も彼女は普通の学生として登校する。


 否、”普通の学生”というのは語弊があった。”出来損ないの学生”として、紫宮花蔵は朝っぱらからうるさいことこの上ない。


「ヤマトぼうっとしてないで。早く部屋から体操服取ってきてよ。遅刻しちゃうじゃない」


「バカグラ、我輩が体操服を持ってくると毛がつくぞ。いいのか?」


バカグラ・・・・じゃない。か・ぐ・ら! いいから早く取ってきてよ」


 絵に描いたような朝の喧騒である。


 四本の脚で階段を駆けあがる我輩のうしろで、花蔵バカグラはパンをくわえたまま、椅子に足をかけて靴下を履いている。


 我輩が猫だからか、花蔵は下着が見えようが、ときには素っ裸だろうが、まったく気にとめる素振りもなかった。


 我輩が人間の体に発情するわけもないのだが、年頃の娘には恥じらいというものが必要だ。そのくせ、慌てふためきながらも化粧だけはしっかりと仕上げる。


 外面よりも内面を磨いてもらわねばならぬというのに、やはり彼女はまだまだ未熟者だ。



 開け放した襖の向こうに花蔵が使っている文机が見えた。


 布団は押し入れにしまったようだが、体操服はたたみもせず文机の脇の籐の籠に投げおかれていた。


 先代が死んでからというもの、花蔵は甘やかされすぎている。


 身のまわりのことは自分で、という厳治いずはるの方針により、使用人たちが花蔵の世話をするのは最低限のことだった。そして、花蔵が七歳のときから、この家で出る一切の洗濯物についてそれをたたむことが彼女の仕事とされていた。そのはずが、今では彼女がたたむのは自分の洗濯物のみで、それすらも満足にできていない。


 使用人たちは一人残された花蔵に同情しているのか、若い娘がかわいいだけなのか、厳治の目がなくなれば甘やかし放題だ。



 そういった使用人のうち、秘術を使うことができる者が二名いた。


 まず一人目は、先代に長年仕えてきた友永ともながいさみ


 今年七十になるこの男は、現在当主代理を務めている。豪放磊落ごうほうらいらくな先代と違って友永は温厚な性格で、花蔵をしつけるどころか目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。


 もう一人は友永の孫、時雨しぐれ


 時雨は花蔵と同じ高校に通う二年生で、花蔵よりも一つ年上の、なかなかの美丈夫だが、花蔵に対して強く物を言うことができない。


 他の使用人と違って時雨は実家に住まい、週末のみ紫宮家に上がっていた。学校においては、花蔵が無闇に力を使わないよう、目付としての役割も果たしている。


 最近色気づきはじめた花蔵は、時雨のまえで慎ましい態度をとるようになった。


 時雨が毎朝でも迎えに来てくれるのならば、我輩も静かに一日のはじまりを迎えることができるのだが。


「ヤマトー! まだぁ? もう出なきゃホントに遅刻しちゃうよー!」


 秘術の導士である我輩を、花蔵は小間使いのように扱う。


 まだまだ小娘と大目に見てやりたいところだが、十五といえば大人としての自覚を持ってもいい年頃だ。とはいえ、彼女の学友などを見ると、花蔵の年では親の庇護下にあるのが常識のようである。


 親代わりになどなるつもりはないが、我輩もついつい彼女の言うとおりに手を貸してやることもあった。そのたびに自分の甘さを痛感する。


 年をとると丸くなるというのは、どうやら人間だけではないらしい。



 息を吐き、気を取りなおして言ノ葉ことのはを唱えた。


「やまといわく、…………………………也」


 くしゃくしゃに投げおかれていた体操着は綺麗に折りたたまれ、ふわりと浮いて我輩の背にのった。体から落ちないように言ノ葉で縛り、一気に階段を駆け下りる。


「遅いよ、ヤマト。完全に遅刻!」


「喋ってる暇があったら行くぞ。友永、午前の見回り頼む」


「はい。大和ヤマト様。花蔵様、行ってらっしゃいませ」


 花蔵はすでに「ほうき」に横座りで腰をかけ、我輩が彼女の背に脚をかけると、つぶくように口元を動かした。


「紫宮花蔵曰く、汝に命吹き込みて今浮遊せん。天地精霊静寂………………也」


 滑らかに浮上した「ほうき」は、間をおかず急発進する。


 ただ、彼女が乗っているのは、いわゆる「ほうき」ではなかった。


 花蔵の愛用する「ほうき」とは、書道パフォーマンスに使われる、背丈ほどもある特大の筆だ。


 漆黒の柄、艶やかな栗皮色の毛。その筆を平然と買い与えるあたり、花蔵に対する友永の溺愛ぶりがうかがえる。


 十万は下らない愛車の上で、花蔵は「いってきます」と友永を振り返った。その声は好々爺の耳に届くことなく、風切音の中に吸い込まれる。

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