第10話

 オトヒメの嘆きは宮を越えて海を覆い、荒れ狂う大波と嵐となって表れた。巨大な波の手は容赦なく船上の漁り夫たちに襲い掛かり、わだつみの底へと引きずり込んだ。漁り夫たちの冷たい骸は昼も夜も問わず竜宮に降り注ぎ、涙にくれるオトヒメはそのひとつひとつを掻き抱き、愛おしげに投げてから、それが愛しいその人でないことにやがて気付くと、違う違うとまた涙を流して放り出した。そのために、竜宮は無残な屍体で埋め尽くされ、死の腐臭が漂うこととなった。

 愛娘の嘆きように綿津見神の心痛は計り知れなかったが、どれほど手を尽くして心を慰めようと努めても、もう会うことの叶わない人の名を呼び、返してと叫び続ける、深い嘆きの淵に身を投げ出したオトヒメには、もはや誰の声も届かない。

 沈痛な面持ちで綿津見神は、コウヒメのもとを訪れた。この上の娘の姫になんとしてでも問い質したいことがあった。だが、コウヒメはこのところでは寝台の上に身を起こすこともできないほどに弱り、父なる神の招きに応じて参上することはおろか、娘の体を気遣ってわざわざの御見舞いにも寝台の帳を開かず横になったままでしか迎えられなかった。

 海神は、帳の向こうに浮かぶコウヒメに向かって、オトヒメの深い嘆きようを語って聞かせた。しかし、声を出すことも辛いのか、コウヒメは力なく目を閉じたままでなんの言葉も返さなかった。たまりかねて、海の大神は胸のなかで温め続けてきた一つの問いを口にした。

「そなた、なにゆえ妹の宮の上をかの若者を背に乗せて飛んだのだ。いくら夢のなかとはいえ、おのが宮へまっすぐと飛ぶこともできたであろうに」

 帳の向こうで、コウヒメが瞼を開けたようだった。乾いた唇からいまにも途絶えそうにかすれた細い声が発せられた。

「あの子は無垢でした。一点の穢れも曇りもなく、何も知らず。ゆえに愛らしく笑っていました」

 帳越しに、わだつみの大神はかすかにこちらに向いたコウヒメの微笑みを見た。

「かわいそうなオトヒメ……」

 深い憐みの籠ったわが娘の声音を聞いたとき、そこに隠された底知れない暗き闇の気配を感じて、綿津見神の背筋を怖気が駆け抜けていった。病に弱りきってやつれたその微笑みはしかし凄艶な輝きを持ち、いままでにないほどに美しかった。

 綿津見神が口を開いて何かを言いかけたとき、帳を揺らす風が起こり、コウヒメの体が陽射しに透ける海の青色の光に包まれた。風に翻る帳から垣間見えたコウヒメは、いまこそ心満たされた静かな面持ちで笑みを浮かべていた。行くな、と父の大神が伸ばした手は届かず、コウヒメは風に運ばれて宮から翔り去った。


 普段と変わらない日々を過ごしていた海辺の民は、ある朝、空の彼方に二つの光を見つけた。

 美しい朝だった。清らかな光が夜の闇を払いながら白々と昇りくる黎明のなか、洗われるような清々しい風が吹く。澄みきった空の青と、優しく豊かな海の青のとけあうそのあわいで、二つの光は浮かんでいた。巌に打ちつける波の清い白の光に向けて、きらめく海のその輝きの中から生まれ出でたような淡い青が向かってゆく。ついにその光と光が出会ったとき、神々しい輝きのなかに人々は、手と手を取り合う見目麗しい若者と乙女の姿を見た。彼は愛おしげに笑いながら乙女を見つめ、乙女は長く隔てられていた連れ合いにようやく巡り逢えたかのような微笑み、二人は抱き合い一つになった。

 それから空を覆うほどの光が放たれ、村人たちの目のくらみがおさまり再び空を見上げたとき、彼らはそこに一対の鶴と亀を見出した。永久の象徴の神々は、戯れ睦みあいながら遠くの空へと飛び去って行った。


 現代の日吉という場所に、銀杏並木を経て至る若者たちの学び舎があり、同市内の海へ向けて南へ下ったところに、慶蓮寺という寺がある。この寺には明治期に浦島寺と呼ばれていた観福寺を合寺したことから、いまも浦島太郎の伝説が残されている。

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浦島異聞伝 和泉瑠璃 @wordworldwork

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