第9話

 オトヒメが涙を拭いながら自分の部屋まで戻ると、考え事があるからと庭に出ていたはずの彼がいた。ほっとして笑みを浮かべて歩み寄ろうとしたオトヒメに気付いて、彼のほうが先に口を開いた。

「やあ。戻ったのか。実は、少しばかり故郷の方へ戻ってこようと思ってね。それで、ここへ来たときに着ていた服があっただろう。それを出してほしいんだ。これを着て帰ったのでは、どこのお大尽が来たのかと、誰も俺に気付いてくれないだろうからな」

 袖を広げて、彼は笑って見せた。いまの彼は、漁り夫の色褪せた粗末な衣ではなく、父の綿津見神が着るような帯を締めた衣に袴姿だった。オトヒメは彼に合わせて微笑もうとしたがどうしても出来ず、さきほどの姉の不吉な予言ばかりが耳の奥でよみがえって、堪える間もなく涙が零れ落ちた。彼は驚いてから、笑ってオトヒメを抱きしめた。

「まったくかわいいな。そう泣かなくてもいい。すぐに戻って来るから。俺には父も母もいて、音沙汰もなしに帰らずにいたら心配して夜も眠れずにいるだろうと、今朝方ふと思いついて、それで気がかりになったんだ。あと、昔なじみの連中にも別れを言っておきたいし。それだけだ。泣くことはないんだよ」

 オトヒメは彼の胸にすがりつき、涙にくもる瞳で見上げると必死に確かめた。

「本当ですね。すぐにお戻りになられますね。そのまま帰っていらっしゃらないことなどありませんわよね」

 まるで幼子のような念の押し方に、彼は苦笑して頭を撫でてやった。

「大丈夫だ。すぐに戻るから。第一、俺があんたに寂しい思いをさせておいて平気でいられるわけがないだろう?」

 オトヒメはなんとしてでも引き止めたいと思ったが、彼の親を思う気持ちを出され、また聞き分けのないことを言って困らせて、なんと子供っぽい、と呆れられて愛想をつかされてはと思うと強くは言えなかった。何度もなんども涙を拭われて、ようやくオトヒメは泣くのをやめると、侍女に言い付けるのではなく自ら彼の着物を出して渡した。

 彼は手早く身につけると、「行ってくる」と言って部屋を出て行こうとした。そこをオトヒメは呼び止めて、玉手箱を差し出した。当然のことに、これはいったい何かと彼は尋ねたが、オトヒメは躊躇った。もし箱の中に収められているのが自分の時だと知れば、彼は開けたくなるに相違ない。

「お許しください。中身を申し上げることはできません。どうかお尋ねにならないでくださいまし。ここへお戻りになって、わたくしといついつまでも一緒に暮らしたいと思って下さるのなら、この箱はけっして開けてはなりません。そしてそのままここへお戻り下さい。お願い申し上げます。この箱をけっして開けないで下さい」

 彼は面食らったが、オトヒメの真剣さには有無を言わせないものがあった。ただの箱一つを開けずに持って行って帰ってくるだけだと気楽に構えて、彼はわかったと玉手箱を受け取った。

 オトヒメは最後まで彼を見送りたかったが、海の大神の姫という身分上、表まで出てゆくことは叶わなかった。それでもオトヒメは庭へ降りて、ここからならば海の上を目指して上ってゆく彼の姿が見えるだろうと、待っていた。ほどなく彼の姿が見えた。それは遠かったが、気付いてほしいと一縷の望みをかけて、オトヒメは肩にかけていた領布を振った。彼が気付かなくとも、諦めずに振り続けた。その腕が疲れて辛くなってきたとき、オトヒメは彼ではなく、彼を送り届ける使者にも目を向けた。それはどうやら亀であるらしかった。

 亀、とオトヒメは、はっとした。目を凝らし、声にならない悲鳴のために口元を覆った。手を離した領布が土に落ちたが、そんなことは気付きもしなかった。遠目で見てもわかるほど、亀は美しかった。上質の墨で塗り込めたような黒の甲羅に、一度も陽にあたったことがないかのような白い肌を持つ、美しい亀。それは、コウヒメの夢の姿にほかならなかった。姉姫の夢の背に乗って、彼は去ってゆく。

 あぁ、もう二度とあの御方はお戻りにはならない、と。オトヒメは深い絶望の予感に涙が浮かんで彼の姿がぼやけて見えなくなり、それから目の前が真っ暗になって膝から力が抜け、無残に手折られた花のように庭に崩れ落ち、倒れ伏した。


 海から出て浜に立った彼は、再び出会いここまで送り届けてくれた亀に礼を言おうとして振り返ったが、波間に隠れたか水にもぐってしまったのか、姿を見失ってしまった。まあ考えてみれば帰りもあることだし、礼は竜宮に帰ってから言っても遅くはないだろう、と気にせずに歩き出した。

 最初に違和感を覚えたのは、浜を上って砂が途切れて芝生のはえる道まで来たときだった。久しぶりに帰って来たとはいえ、家の立ち並びが変わったように見えるとはおかしなことだった。最初のうちは気のせいだと言い聞かせていたのだが、近付くにつれて目の前の家々とその並びにまったく見覚えがなく、見知らぬ村を見ているとしか思えなくなり、これはなにかがおかしいと胸騒ぎがした。

 暗雲立ち込めるように胸に広がる不安に耐えられなくなり、とうとう彼は駆け出した。一目散に我が家のあるところまで駆けて行った。浜から続くゆるやかな上り坂を駆け上がり、息を切らせながら向かった先には、藁葺の屋根の小さな家があるはずだった。それはわだつみの宮とは比べるべくもない、貧相な住まいではあったが、彼が生まれ育った何処よりも懐かしい場所だ。炉端には母がいて繕い物をして、その傍らで父は漁の道具の手入れをしている。二人とも何の前触れもなく消えてしまった息子にたいそう気を揉んでいるに違いない。波の気まぐれで二度と帰らない漁り夫は珍しくないのだから。帰れば驚いて出迎えるのだ。連絡をよこさなかったことを叱られるかもしれないが、それでも喜んでくれるだろう。そしたら、あの夢のような竜宮でのことを話すのだ。

 しかし、彼は家のなかに飛び込んで父と母に顔を見せることは出来なかった。彼の家はまるでそれこそが夢だったかのように掻き消えており、後には風に揺れる草が生えているばかりだったのだ。彼は愕然として膝をついた。

 いったい何が起こっているのかまったくわからなかった。もしや亀が間違えて別の浜に着いてしまったのではないかと思い、振り返って海を見下ろしてみたが、残酷にも海へと続く道や木々の並び、浜の様子やそこに広がる海といった景色ばかりはなにも変わらず、彼の故郷に違いなかった。

 彼が立つ気力もなく座り込んでいると、その様子を怪訝に思ったらしい村人が近づいてきた。ぼんやりと仰ぎ見たが、その顔は知り合いのものではなく、着物も彼が知っているものとは形が違っていた。村人は彼に声をかけたが、彼にはその言葉すら耳慣れない。音の響きや声のまわしや調子には似通ったところがあるが、少なくとも彼の親しんだ言葉ではなかった。彼は必死になって、ここに浦島という家があったはずだということを伝えた。お互いにわかる言葉を拾いながらの手探りの会話となったが、それでようやく得た答えは、浦島という家は聞いたがないわけではないが、気の遠くなるほど昔にとっくに途絶えている、ということだった。

 彼は再び海まで降りて浜辺の松に背中を預けて呆けていた。さすがの彼も笑い飛ばすことができない変事だった。亀の背に乗って浜を出てからまだ三夜しか経っていないにも関わらず、それまでごく当たり前にあった彼の日々というものは砂に描いた絵のように虚しく消えてしまっている。まるで、竜宮での一夜がこちらでは百の夜に匹敵しているようである。まさかそうなのかと考えて空恐ろしくなり、彼は途方に暮れた。呼べば亀が現れて竜宮に連れて帰ってくれるのかもしれないが、いまはその気力もなく、まだ心のどこかでこれは何かの間違いだと叫んでいた。こうしてここに座っていれば、ひょっこり知り合いが現れて、それはあのいがみ合っていた獅子っ鼻の男でもいいのだが、そんなところでなにをしているんだと言って来て、なんだやっぱり気のせいかと笑って冗談にしてしまえるような気がしてならないのだ。それがなおさら彼の腰を重くしていた。

 ほかにすることもなく、見渡せば故郷の景色を背景に知らない人々の暮らしが見えるのも辛いので、彼は手の中の玉手箱のことを見つめていた。何度目かのため息をついたとき、彼の耳が懐かしいざわめきを捕らえた。それは彼のよく知る浜の男たちと漁を終えて、家に帰る道々で語り合ったときの笑いのさざめきだった。彼はすぐさま顔をあげて辺りを見回したが、人の影すら見えない。空耳を聞くほど心弱りしたか、と苦く笑って顔を伏せたところでまた聞こえてきたので、首をかしげた。そして、もしや、と玉手箱に顔を近づけて耳をすませた。すると、先ほどよりもはっきりと声が聞こえてきた。浜の漁り夫たちのたてる声の騒がしさ、彼に群がり集まる女たちのかまびすしい声、母の声、父の声、そのほか彼を取り囲んでいた懐かしい音たちが、そこから聞こえてきた。彼はほとんど無意識で紐に手をかけていた。

 お願い申し上げます。この箱をけっして開けないで下さい。

 彼の愛しい妻の涙ながらの声が耳の奥で甦ったが、彼が躊躇って手を離そうとすると、玉手箱から漂う懐かしさの気配はいよいよ色濃く高まりを見せ、彼を誘った。まるでこの蓋を開ければ、彼が狂おしいほどに求めるものが、そっくりそのまま返ってくるのだと囁きかけるかのように。

 彼は何度も迷い、手をかけては離すことを繰り返したが、ついに玉手箱の誘惑に負けた。彼の手の中で紐は解かれて、蓋が開かれた。

 陽と月が一度に彼を照らしたかのような強烈な光が彼を射た。目を焼くほどの白い光に包まれて、意識が遠のいてゆくなか、彼は自分にあの懐かしい日々と時間が返ってくるのを感じた。それと引き換えに体の感覚は失われていったが、自分を手放す前のその一瞬に、彼は微笑んでいた。

 空を突く光の柱が現れ、それが消えてふたたびもとの静寂が浜に訪れたとき、その松の根元には、蓋の開いた玉手箱が置かれてあるのみだった。

 わだつみの底の宮のなか、ひとりの姫が身を引き裂かれるほどの悲しみで嘆きの声をあげたが、それは尽きることのないさざ波に飲み込まれ、光に抱かれながら消えていった青年の耳に届くことは、ついぞなかった。

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