第8話
竜宮に青年が訪れてから、三度の夜がめぐった。その朝は慌ただしかった。宮中が浮き足立ち、慶事の気配は一人きり寝台で横たわるコウヒメにも伝わってきた。
最初ばかりは、綿津見神は難色を示した。彼が名のある神ではなく、人の身であり、それもなんら身分を持たない漁り夫であるからだった。いくら海神の姫を救った若者といえども、それだけであり、姫の相手に叶うはずもなかった。しかし、ほとんど間を置かずに許した。それは二人が比翼連理であることは一目瞭然であり、その仲を引き裂くのは生木を裂くように酷であって、そんなことをすればいかばかりかオトヒメが嘆くか想像に難くなかったからである。
コウヒメの部屋を訪れたオトヒメは、幸せのただなかにあって美しさをますます増していた。開きかけた蕾が花開いた明るさと艶やかさが備わっていた。久しぶりに見る妹姫を、コウヒメはまぶしく見上げた。オトヒメがコウヒメへの見舞いを欠いたのは、初めてのことだった。三日も姿を見せないなど、いままででは考えられない。そのオトヒメは、相も変わらず邪気のない瞳で姉姫を見た。
「少し見ないうちにお美しくなられましたね。おめでとう。お幸せそうでなによりです」
オトヒメは微笑み頷いた。
「お伺いすることができずにいて申し訳ありませんでした。お加減が優れないと聞いて心配し申し上げていたのですけれど、お邪魔になってはと思い、遠慮させて頂いておりましたの」
コウヒメは小さく笑い声をたてた。
「お気づかいなさらなくてもよろしいのよ。背の君とお話して、楽しく過ごされていたのでしょう」
姉に言い当てられて、オトヒメは恥ずかしそうに顔を伏せた。そのあとで気を取り直して彼の話をした。
「ぜひお姉さまにお会いして頂きたかったのですけれども、なにか考え事がおありのようで、どうしてもご一緒して頂けませんでしたの」
コウヒメは、そうでしょうね、と言った。怪訝な目で見やるオトヒメに、コウヒメは告げた。
「わたくしの部屋からお帰りになったとき、貴女は背の君から故郷にお戻りになると聞かされるでしょう。そして、背の君はもう二度とお戻りにはなりません」
笑ってすませるには不吉すぎる予言に、オトヒメは顔色を失って椅子から立ち上がった。
「お姉さま、なんということをおっしゃいますの。いくらお姉さまでも、そのような……」
オトヒメ、とコウヒメは妹の名をなだめるように呼びかけて、椅子に座らせた。
「辛いことかもしれませんが、受け入れなければなりません。人とはそういうものなのです。今頃、背の君は故郷のことを懐かしく思い出していらっしゃるはずです。そして、貴女に別れを告げるのです」
いいえ、とオトヒメは激しく首を横に振った。
「お姉さまはご存じないのです。ずっとひとりで病に伏せっきりのお姉さまは、思い慕い合う絆がどれほど強いか、相手の不幸になることを望まず、幸せになることだけを願うものか。あの御方は、わたくしがいっときも離れることが辛いことをよくご存知です。ですから、そのようなことを言いだされるはずがないのです」
オトヒメはまなじりに涙をためて姉姫のことを見た。生まれてからひとりきりで宮の奥で、病に侵されて自由に立ち歩くこともままならず、心通わせる相手を持たない姉を、憐みを込めて見つめた。
「かわいそうなお姉さま……」
コウヒメは黙ってオトヒメの言葉を聞いていたが、寝台の傍の机の上から玉手箱を手に取った。
「ご覧なさい、オトヒメ」
言いながらコウヒメは、玉手箱の封を解いた。すると、蓋を開けたとたんに三つの光る玉が飛び出した。それはコウヒメの顔のあたりにゆらゆらと浮かんで留まった。その光る玉からは、潮騒と賑やかな人々の声、そしてなにより彼の声と気配が含まれていた。
「なにも知らないのはどちらでしょう、オトヒメ」
声もなく見つめているオトヒメに、コウヒメは教えた。
「これは、あの御方の時間です。わだつみの水の途切れたその先の世界と、この宮とでは、時の流れが異なります。竜宮に住まうものは、老いることも息をひきとることもなく、暮れた陽と昇る陽は変わらず、同じ一日を繰り返してゆくのです。しかし、海の上からやって来た異なる時の流れをもつあの御方は、そういうわけにはいきません。この宮にけっして馴染むことはなく、もしわたくしが御体に溜まる時を取り出していなければ、それは澱んで濁り、あの御方をむしばみ、とうに冷たい骸と成り果てておられたことでしょう」
オトヒメは返す言葉もなかった。ただただ信じられずに、姉とそのまわりを浮遊する彼の時だという光の玉を見た。コウヒメは三つの光る玉を元の通り収めて封をすると、その玉手箱をオトヒメに渡した。
「これを持ってお帰りなさい。そうして、お戻りになるとあの御方が仰られたら、この玉手箱をお持ちになられるように申し上げるのです。もし開けずにお戻りになられたら、そのときには今まで住んでおられたところと決別し、その生活を忘れて、故郷を懐かしむ心は断ち切られ、あなたの傍にずっといることができるようになります。お父さまもそのようにお取り計らいくださることでしょう。あの御方が人の身を離れていつまでも宮に住まうことができるように」
ひとすじの希望に、オトヒメの顔が少し明るくなった。
「その玉手箱を開けずにお戻りになられたら、もう二度と離れずお傍にいることができますのね」
コウヒメが頷くと、オトヒメは胸に抱くように玉手箱を受け取った。
「必ずお戻りになられますとも。必ず。わたくしは、信じておられます。きっと、お姉さまにもおわかりになられますわ」
そう言い残して部屋から立ち去ろうとしたオトヒメの背中に、静かな声音でコウヒメは語りかけた。
「あの御方が本当は誰に惹かれていらっしゃったのか、貴女はご存じのはずですよ、オトヒメ」
オトヒメの足が止まった。その脳裏を、初めて会った日の冬の庭での打ち明け話がよぎっていた。彼が夢で見た乙女が誰であるか、聞いてオトヒメはすぐにわかったが、それは口に出さなかったかわりに微笑みを返したのだ。玉手箱を抱く手に力を込めて、オトヒメはコウヒメに振り返った。
「それでも、あの御方がいまお慈しみ下さっているのは、わたくしです」
コウヒメが言葉を返す前に、オトヒメはその場を駆け去った。
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