第7話

 四つの庭を巡って戻ると、彼のために部屋が調えられていた。家具調度は、どれもその一つで浜辺の村であれば一生遊んで暮らしていけるような豪華な品ばかりであった。粗末な布を敷いて、それを寝床としてきた彼にとっては、紗の帳のついた寝台など目を見張るものであり、用意された夜着も寝具もすべて絹で、彼には思いつくこともなかった贅沢であった。普段の彼なら、これほどの寝床のなかで、横になった途端に眠りのなかに沈みこんでいただろうが、この夜ばかりは目が冴えていっこうに眠気がやって来ない。それが何故か、彼にはよくわかっていた。

 彼は部屋をすべり出ると庭に降りて、宮のところどころでわずかに焚かれた灯の明かりと月明かりを頼りに歩き始めた。行きたいところがないわけではなく、あるとしたらたった一所だったが、どのように行けばいいのかわからない。一度は訪れた場所ではあるので、明るい昼の内なら広大な宮といえども多少の見当をつけながら歩くことができたかもしれないが、それでもそう易々と行き着けるとは思わなかった。

 あてどなくさ迷い歩きながら、ついに彼は足をとめていかに馬鹿げたことをしているのか自分に苦笑して引き返そうとした。しかし、小さな戸の開く音を耳にして急いで振り向いた。まさかそんな都合のよいことが起こるわけがないと言い聞かせながらも、それでも湧き上がる期待は抑え難かった。

 闇の中から目を凝らしていると、宮の内から奇跡のように人影が現れた。紛れもなくかの姫だった。見間違えようがなかった。オトヒメだった。

 まだ目覚めて間もないのか、オトヒメは半ば眠りのなかにいるような目であたりを見回していたが、ほどなく夜の闇にたたずむ彼を見つけた。驚きはしたものの、怯えた様子はなかったのですぐに彼とわかったらしいが、話しかけようとしたところで、自分の身につけているのが夜着であることに気付いて、さっと身を翻して奥へ引っ込もうとした。彼は自分がどう動いたのかを覚えていない。しかし、我に返ったときにはオトヒメが閉めようとする戸を掴んで、互いの息遣いが感じられるほど間近で見つめ合っていた。ここで戸を引き開けて中に踏み込むことはたやすい。姫の力で抗えるはずもなかった。それでも、彼にはまだ一握りの理性が残っていた。それが彼をその場に留めさせていた。

 彼がはげしく葛藤していると、手をかけた戸のへりにほとんど額をつけるようにして俯いていたオトヒメが、なにを思ったのかゆるやかに顔をあげた。かつてないほどに近く、二人は眼差しを交わした。昼のうちには結い上げていた髪を解いて下ろしたオトヒメは、常にもまして素直で可憐に見えた。その姫の一点の穢れもない目に見上げられて、彼のたがは弾け飛んでしまった。

 抱え上げたオトヒメは羽根のように軽かった。彼は暗い部屋のなかを手探りに進み、どうにか寝台まで行き着くと帳を強引に開いて、中に姫を横たえた。あまりのことにオトヒメはほとんど何が我が身に起こっているのかわかっていないようだったが、それでも反射的に背を向けて逃れようとした。彼はオトヒメの手を握り、肩に手をかけて有無を言わさずに引き寄せて抱きしめた。泣いて叫んで拒まれるのを覚悟していたのに、オトヒメは彼の腕のなかで静かにしていた。まさか気を失ってしまったのかと思ったが、そういうわけでもなかった。伝わる姫の鼓動は早鐘のように早く、体は小刻みに震えていた。だが、それは彼の突然の行為にひどく心の平穏を欠いているからであって、彼をおぞましい者と思い拒絶しているわけではけっしてなかった。それは、胸に腕に伝わる姫のぬくもりを通じてはっきりと感じ取れ、この上なく彼を喜ばせた。

 彼は若干の心残りがありながらも、一度オトヒメを少し離して、ゆっくりとこちらに向かせた。部屋にはわずかな月の光が帳越しに差し込むばかりではあったが、顔に乱れかかる髪を描き分け肩へと流し、額もつかんばかりの距離で見つめれば、その表情ははっきりと見て取れた。オトヒメの花のかんばせは白い花のようで、唇はみずみずしい桃の果実のようであり、信じられないほどの間近な彼の視線に耐えかねて、その長い睫毛を伏せて瞼を閉じていた。彼はこわごわとオトヒメの頬に触れ、我知らず吐息にのせて囁いていた。

「あんまり綺麗だから、壊してしまいそうで怖いよ……」

 すると、蝶が羽を広げるように姫の睫毛があがり、目が開いた。緊張に表情はまだ硬かったが、ほんのわずかに瞳は優しく細まり、頬の彼の手に自らの手を重ねた。それが全てであり、答えだった。

 恋い慕う人を、なにゆえ恐れることがありましょう。

 そんなオトヒメの言葉を、彼は確かに聞いた。

 彼は今一度オトヒメを引き寄せると、甘い息のかよう唇に押し包むように唇を重ね、なめらかな手触りの絹の夜着まさぐり、ついに帯を見つけると、ゆるやかな手つきでそれをほどいた。

 花咲くときを待ち続けていた一輪の花が、愛の手に応えて艶やかに花弁を広げた夜だった。


 眠りに沈むわだつみの宮に夢がただよう。夢は次第に形を取り始め、今宵咲き初めのあまやかなる香りを夜気に満たした喜びの花へのもとへと向かう。

 布一枚の隔ても置かずに身を寄せ合い、指を絡めて眠る恋人たちを包み込む帳が風もなく揺れた。部屋に流れ込んできた夢は徐々にその形をはっきりとさせてゆき、雲居の月の光が再び部屋を照らしだしたとき、その夢は乙女の姿をとっていた。乙女は寝台に横になり、恋しい人の腕に抱かれて眠る姫とよく似た面差しをしていたが、その印象はくっきりと異なっていた。練り絹の肌、夜の闇よりも深いぬばだまの髪は美しかったが、折れそうなほどに痩せていて雨上がりに目にする虹よりもはかなげであり、透き通った青い炎のようであった。実際、乙女の夢はあわい青の光を帯びていた。

 乙女は彼の枕辺に立つと、眠る彼を見つめた。彼は心地よい眠りのなかにいて、その目が開いて乙女を見ることはない。水をたたえる乙女の瞳からひとすじ、きらめく雫がこぼれおちたが、それが白の敷布に染みを作ることはなかった。

 乙女は彼の頭の近くに手を添えると、屈みこんで口付けた。すると彼の体がほの白く光り輝いた。それは手足の先から体の中心へと集まってゆき、小さな玉となると喉をのぼり、重ねあわされた唇を通じて乙女の体内へと移った。

 乙女は彼から唇をはなすと、闇に溶け込むように消えて行った。

 青い火をまとう乙女の夢が消えたとき、誰もが寝静まった宮の深くで、コウヒメが目を覚ました。コウヒメは寝台の上で起き上がると、唇の上に手を当てて目を閉じた。わずかに顎をあげて背筋をのばすと胸元が光り、その光は喉を通じて唇から手のひらへとこぼれ出た。コウヒメはその光る玉を見つめた後、枕元の机から玉手箱を手繰り寄せた。箱の飾り紐を解くと、コウヒメは光る玉を中に収めて蓋を閉じると、元のように紐で封じた。

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