透明な呼吸

 割れた瞬間のことは、よく思い出せない。コップを取ろうと伸ばした手が、別のコップに当たって落とした。ただそれだけのことで、聞き慣れたガラスの音が響いて、見慣れない破片が散らばった。ガラス片の細かさに、目を塞ぎたくなったことを覚えている。

 心が脆いことを、ガラスのハート、なんて言う。一つ一つの破片を拾う私は、自分の心の中で、豆腐にガラス片が突き刺さっているのだと思った。衝撃吸収といえば聞こえはいいが、少しの衝撃で大きな傷を作ってしまう。その上、他人には見えにくい。

 ため息を吐くこともできずに、ただ唇を結んで破片を拾った。新聞紙に重ねていくと、ちゃり、ちゃり、と音がした。大きなガラス片は案外指に刺さらなかった。むしろ、小さなガラス片をやわらかいティッシュに包んだ時、ティッシュ越しにガラスが刺さりそうで怯えていた。

 床に転がる破片をかき集めながら、この作業は、自分の過失を拭う作業は、永遠に続くかと思われた。なんせ、ガラス片は透明だ。細かく散ったものが、あとどれだけあるかわからない。明日、三日後、一週間後に、私の素足の皮を破るかもわからない。

 途方に暮れて、いっそ、舌で床を舐めたいくらいだ、と馬鹿な考えが脳裏をよぎった。自覚していた以上に落ち込んでいたのかもしれない。幸い、床はしっかり拭けば素足で歩いても何の違和感も感じないほどに綺麗になった。ただ、一つ、棚からガラスコップが消えただけに終わった。

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かふぇいんの教室 蜜柑 @babubeby

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