未知の充足

 春風が吹く。柳の若葉が、うれた桃のような肌をそっと撫でる。そのやさしい肌触りと、雲間から顔を出した日の光のあたたかさが、うすい目蓋をゆっくりと開かせて、それは二、三度まばたきをした。見上げる柳のカーテンの隙間から、ちらりちらりと、眩しい光が見え隠れする。まるで水面のようだ。きらり、とかがやく光の下で、柳は網目をえがいて不規則に揺らぐ。

 溺れたみたいに身体を捩って、こぽりと息を吐き出して、だんだん意識が浮かび上がる。———ここは?……どこかのお庭。———私は?……ただの学生。

 ふっと身体を起こして柳のカーテンを手の甲で払う。あたりはどことなく見覚えのある庭園で、少し向こうに真っ白で洋風なデザインのテーブルと椅子が薔薇の木に囲まれてあるらしい。それ以外に見えるものすべて植物。シロツメクサの絨毯に混じって咲く黄色はよく見るとタンポポだった。

 柳の枝をかいくぐり、テーブルのところへ寄ると、どうやらそれは木製の古いテーブルらしかった。ところどころ剥がれた塗装の下に、木の焦げ茶色がむき出ている。私の重みで折れてしまいそうに見えたけれど、座ってみると、案外しっかりとした脚が地面を踏みつけて、クローバーを茶色い土に押しつけた。覚えのある感触。私はこの椅子によく座っていたらしい。くつろいだ気分で、背もたれにぐたりと上体をあずける。自然と空を見上げていた。

 そういえば、私は記憶がおぼつかない。ただの学生であるはずの私が、どうしてこんな広い庭園を知っているのだろう。あたりまえに持つべき疑問に、いまさら頭を働かせた。ここが危険な場所ならば、すぐにでも逃げないといけないはずだ。でも、どうしてここに馴染みがあるのかしら。ここは誰の場所?誘拐犯?お金持ちの親戚?どうして私は覚えていないの?

 席を立って薔薇の木に近づいてみると、黄色い薔薇がいくつか咲いている。さらによく見ると、枝を切った跡がある。そういえば足元には枯れた花びら一枚落ちていない。管理の行き届いた高級な庭園のようだった。

 ふっと吹いた緩やかな風が白いワンピースをたなびかせて、バラの棘に引っかかる前にそこを離れた。そういえば足に履いているのも白いサンダルだけど、白ばかり着ているのは私の趣味なのかしら。

 そのまま生垣に沿って歩くと、美しい光景に驚かされた。目の前にはさまざまな花がいろとりどりに咲いていた。パンジー、チューリップ、すみれ、勿忘草、野菊。咲いていない草木などないらしい、不思議なほどに春色の花ばかりが咲きみだれていた。さきほどの柳といい、この花畑といい、私の好きなものばかりあるような気がする。ここに住めたらきっと幸せだろう。花畑の中を歩きつつ、かどを曲がって可憐な酢漿の群れをみつけたところで、遠くに人の声がした。

「お嬢さん」

 若そうな、男の人の声が、私を呼んでいる。返事をしあぐねているうちにも、声はだんだんと近づいてきて、とうとう姿を現した。

「お嬢さん」

 スーツのような服を着た男の人は、私をみつけてほっとしたように声をやわらげた。私は、どうしたものかわからなかった。

 男の人は、そんな私の様子に違和感をも持たないらしい、近づいてきて、少しはなれたところで、ちょうど足を止めた。

「お嬢さん、ランチを持ってまいりましたから、向こうのテーブルで召し上がりませんか」

「けれど、あなた、何も持っていないでしょう」

「お食事は向こうに置いてきましたので」

 嘘を言っているようには見えなかった。それどころか、この人をあやしいと疑う気持ちさえ湧かなかった。しばらく黙ったまま考えて、

「いくつか尋ねてもいいかしら」と言ってみる。すぐに返事が返ってきた。

「もちろんです」

「食事は三食出るのかしら」

「三時のおやつもお出しします」

「寝るときはどこで寝ればいいの?」

「この先を生垣に沿って歩いた先にハウスがございますので、そちらでお休みください」

「お花摘みは?」

「風呂、お手洗い等生活に必要な基本的なものは、すべてハウスにございます。そのほか欲しいものがありましたら、ベルを鳴らしてください。すぐに御用を伺いに参ります」

「そう。ちなみに、ここは安全なの?」

「自然災害、火事、犯罪、あらゆる危険を想定して未然に防ぐ設計がされています。風邪などの病気や紙で指を切るなどの日常的な怪我も、呼んでいただければすぐに対応可能です」

「そう。それなら、いいわ」

 すべての問いに彼は躊躇うことなく答えた。そして、彼の回答によると私の生活は隅々まで保証されているようだった。彼の答えは十分すぎるほどに都合が良く、この庭園は見るかぎり素晴らしいところだった。私はこれからの生活を想像して充足した。ならば、これ以上考える必要もない。

「私は、ここで暮らせばいいのね」

「その通りでございます」

 彼は表情を少しも変えずに返答した。もしかしたら、このやりとりに慣れているのかもしれない、けれど、考える必要もない。

「わかったわ。でも、ランチは木陰で食べたいから、木陰のあるところに案内してちょうだい」

「承知いたしました」

 慇懃な態度でお辞儀をして、彼はもと来た方へ歩みを進めた。私は、その名前も知らない人の後ろを、ただ離れないようについて歩いた。

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