第2話
喫茶レグルスはあまり大きなお店ではない。
扉をくぐり抜けると正面にカウンタースペースがあって、席は4つ。
それから左右にひらけていて左右両方のスペースにそれぞれ四人掛けのテーブルと二人掛けのテーブルが一つずつあるだけ。
ランチ時には満席になることもあるけれど、それが過ぎてしまえば常連のお客さんがかわるがわる来るだけで、店内はいつも静かだ。
店長は祖父からこのお店を引き継いだと面接の際に限りなく簡略された説明の中で言っていたけれど、あまり気を張りすぎていないすこし古めかしいくらいの店内の雰囲気がわたしはすきだ。
なんだか時間が外よりもゆっくり動いているような気さえする。
思えば友人の彼女にはじめて連れてきてもらったときから、私はまたここに来るような気がしていたし、実際にそうなっている。
まさか客としてではなく、店員として通うことになるとは思ってもみなかったけれど。
「……どうでしょう…?」
「……苦い」
今は十四時をまわったころ。店内にお客さんはいない。
食器洗いや、店内の掃除をあらかたやってしまってから、近頃私はあらたなこころみをしている。
「苦いっていうのはまずいってことですか?」
「いや、別にまずくはねーけど」
「先週淹れたものとくらべてどうです?」
「先週?いや、ちょっと待て、そこまで覚えてねーよ」
「どうやったら店長みたいにおいしく淹れられますか?」
「練習じゃね」
ここでわたしができることは少ないけれど、できるかぎりやれることを増やしたくて、先日から珈琲の淹れ方をおそわっている。
お客さんのいない短い時間だけであるから、あまり頻繁にとはいかないけれど。
ただこの人は、教えるということに対してあまりにも感覚的すぎるきらいがある。
こちらが聞いたことに対して、あまりにもふわりとした返答しか返ってこない。
「秘伝の技を簡単に言えませんよね」
「いや全然違う。そもそも何回も言ってるけど、俺もちゃんと教わってねーから説明のしようがねーんだよ」
何回かやってたら感覚で覚えるだろ。さっきからこの激しく投げやりな言葉ばかりだ。
彼の祖父も見て覚えろの精神だったのかもしれない。
彼がそれを言葉に変換できないのであれば、私はおとなしく見ることでその技法を身に着けるしか方法はないようだ。
再度店長に珈琲を淹れてもらおうと思い立ったとき、扉につけられているアイアン製のドアチャイムが控えめにカランと鳴る。
「いらっしゃいませー」
いつもはいの一番に挨拶なんてしないのに、店長は扉の向こうから現れた常連のご婦人に「どうも」と短い言葉を付け足しただけで厨房のほうへひっこんでしまった。
私はすこしだけうらめしい視線を厨房へ投げてから、このひとがいつも座る一番左側のカウンター椅子を引く。
「春子さん、こんにちは」
「いい匂い。また教わってたんだ」
「はい。でもやっぱりうまくいきませんね」
「先生がいい加減だもんね」
「もうくじけそうです」
このお店に来る常連さんとも少しずつ話しができるようになってきた。
とくに彼女は、わたしがアルバイトに入ったばかりのころからいつも優しい言葉をかけてくれているので、話すときの緊張感もすこしずつ薄らいできたところだ。
年は70代くらいだろうが、話し方が年齢を感じさせないところがあって、わたしでさえ話しやすさからその年齢差を忘れそうになる。
いつもやわらかい色の洋服をきて、色のついた眼鏡をかけている。
今日も淡い紫色のコート着ている。それを受け取ってからコートかけに掛ける。
「ねえ早苗ちゃん、珈琲のなかに混ざって甘い匂いもするね」
「春子さん、よくわかりましたね。さっきクッキー焼いたんですよ」
「やっぱり。ほら、目がみえない分、他の感覚がするどくなるんだよねえ」
「珈琲と一緒に、こっそり持ってきますよ」
彼女はずいぶん前からこのお店の常連であるらしかったけれど、そのころから彼女は目が見えていないらしい。
けれど私なんかよりもこの喫茶店は勝手知ったる場所のようで、杖はおろか壁伝いなしですいすいと店内を行き来する。
私自身、はじめて説明を受けるまでまったく気がつかなかったくらいだ。
「店長、さっき焼かせてもらったクッキーなんですけど」
こっそりとは言ったけれど、もちろん無断で出せるわけではない。なにせそれは私が申し出てさせてもらっていることのひとつで、お店のメニューにはないものだからだ。
厨房に入るとすでにドリッパーにお湯をそそいでいる店長が横顔で生返事をかえしてくる。あまり声をかけるにはいいタイミングではなかったけれど、彼の声色はあまり意に介してはいなさそうだ。
「ああ、一緒に出せば」
「え、いいんですか」
まだ最後まで言っていないけれど先読みされていたらしく、なんともあっさり返事がかえってくる。
このお店のメニューには甘味らしいものがほとんどなく、私が入った当初は冷凍庫の中にバニラアイスのパックがあるだけだった。
お店のメニューに加えてもらうつもりは毛頭ないけれど、常連さんにだけは時々出すことを許可してくれている。とは言っても、お客さんに出すことを申し出るのはいつも私の方で、それをいまだ断られたことがない、というだけなのだけれど。
「もう出すって言ってんでしょ」
「…はい」
「もう淹れおわる」
「店長、味見してください」
「…いや、別にいいよ、もう」
カップにコーヒーを注ぎ終わった店長はちょっとだけ目を細めてこっちに一瞥をくれる。これは彼が面倒だ、と思ったときにする癖だ。
「何かあるとまずいです」
「何かって何」
「おいしくないとか」
「大丈夫だろ」
確かにわたしが作ったお菓子をいままで幾度も食べてきてもらってはいるけれど、大切なお客さんに出すのだから、そのくらいの慎重さは持ち合わせておくべきではないのだろうか。なんというか、あまりにも適当すぎないだろうか。
「お願いします!珈琲冷めちゃうんで」
「わかったっわかった」
彼の適当さにこっちっが心配になることはよくあることだ。
彼のその生き方そのものが、この喫茶店の雰囲気をそのままつくっていることは確かなのだけれど。
無理やり口元にクッキーを差し出すと根負けして受け取ってくれたので、彼が咀嚼し終わるまで静かに待つ。
この瞬間は先ほど私がいれた珈琲を飲んでもらっているときと同じ感覚で、何度体感してもいたたまれない数秒間だ。
「…どうですか」
「……甘い」
「知ってます!」
なんとなく予想はしていたけれど、彼の真意はやっぱりつかめない。
まずいとは言われていないので、きっと大丈夫なのだ、と毎回自分の心を納得させている。
「春子さん、おまたせしました」
「ふふ、いいよ」
多分私たちのやりとりを聞いていたであろう春子さんはわたしの方を向いてやさしくほほえんでくれる。
珈琲とクッキーを載せた小さいプレートも一緒にテーブルの上にできるだけ静かに置く。
「いただきます」
春子さんは律義に毎回ちゃんと手を合わせてから珈琲に手を伸ばす。
その手はカップに吸い付くように伸ばされていく。
本当に見えているみたい。
どうしてカップの置いた場所がそんなに正確にわかるのだろう。
けれどそれを聞いたって、本当の意味では理解しえないにきまっているから、なんだかいつも聞けないでいる。
彼女の脳裏にはどんな風景がひろがっているのだろう。
「……ふふ」
しばらく珈琲とクッキーを交互に味わっていた春子さんが急に笑い出したので目を見張る。
彼女はよく笑う人ではあったけれど、いまここに面白いところがあっただろうか。
何か失礼なことでもしてしまったかもしれない。
「え、春子さん、すみません、クッキー…だめでした?」
思い当たる不安といえばそこしかない。彼女の口には合わなかったのかもしれない。
たとえば甘すぎて、珈琲の味を邪魔してしまっていたとか。
悪いほうの想像が頼んでもないのに次々に浮かんでくる。
「ちがうよ、ちょっと、意外だったから」
いまだに笑いをこらえきれないでいる春子さんの表情はいつもやさしくて、だけど時々、にやりとしたわるい表情も混ざっていて、その笑顔を見ていると、さらに若々しく、幼い少女のように見えてくるからほんとうに不思議な人だ。
「ねえ、早苗ちゃん。この珈琲は、彼が淹れたんだよね?」
「はい?もちろん」
彼女の笑顔に見とれていたら、春子さんは内緒話をするときみたいに声のボリュームを落とすので、ついわたしもそれにならって顔を近づける。
この店で珈琲を出せるのは店長しかいないのだ。もちろん答えはひとつ。
「今日の珈琲ちょっと変えてるね」
「……え」
思いもよらない言葉が聞こえて、思考が少しのあいだ停止した。
味を変える?
「…変えてるって、どういう風にですか」
「なんていうのかな、ちょっと苦みが強いっていうか」
「…なんで、ですか」
「なんでって、早苗ちゃんのおいしいクッキーに合わせてきてるよね、これ。すごごくぴったりで、どっちもおいしい」
春子さんの言った言葉がなんだか遠い国の言葉みたいになっていく感覚があった。
その意図を読み解くのにとても時間がかかる。
「ねえ、あの人って一見なにを考えてるかわからなかったり適当なことも言うけど、口以外ではよくしゃべるんだよ」
クッキーを出すことを申し出た時には店長はすでにドリッパーにお湯を注いでいるタイミングだった。
これも感覚で覚えろってことなのだろうか。
だとしたら、とうてい私には遠くおよばない。
ただでさえ、私が作ったお菓子を、大切な常連のお客さんに出すことを許可してくれるだけで、はんとうはこころが沸き立つくらい嬉しいのに。
それをうまく伝えきれないでいるうちから、そんな風に彼の気持ちに触れることになるなんて思っていなかった。
私のほうが、彼との話し方を知らなかっただけなのだ。
きっといままでも、いろんな方法で、彼なりに、言葉をかたちに変えて伝えてくれていたのかもしれない。
音になったものだけが、きっと言葉じゃない。
気を抜くと涙がこぼれそうだった。
「店長、適当だけど、やさしいなあ」
「聞こえてますよ」
春子さんがボリュームをもどしてから厨房にむけて声を飛ばすと間髪いれずにかえってくる。春子さんはまたちょっとだけ、わるい笑みをふくませている。
ひそひそ声で話していたって、彼にはきっとわかっている。
長年この喫茶店に通っている春子さんが、珈琲の味が変わったことに気が付かないわけがないのだ。そうしてその理由までも。
「ありがとうございます!」
私も春子さんにならって声をあげたら「うるせーよ」と至極面倒そうな声がかえってきた。
冬をおおう @Regulus_
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