第3話

さてもう一方の八五郎、はっちゃんの方ですが、玄関にだらしなく伸びていたのを奥さんが叩き起こします。

<八五郎>「いてぇよ、いてて、いてえな、そんなに乱暴しなくても起きるよ」

<奥さん>「もう本当にいい加減にしてくださいよ。ご近所にみっともない」

<八五郎>「すいませんでしたね・・・でもここらへん、ご近所なんて言ってもたいしたことないよ。この間、隣のばあちゃんは溝に落ちていたよ」

<奥さん>「あら、ちゃんと助けましたか?」

<八五郎>「助けたよ。その上区役所に電話して溝の蓋を付け替えさせた」

<奥さん>「あら、あなた意外と偉いのね。見直したわ。でもね、遅くなる時には電話位してくれませんか。電話じゃなくても最近はLINEとかメールとか便利なものがあるでしょ。そのためにスマホを買ったんですから」

<八五郎>「スマンホントに」

<奥さん>「何を下らない洒落をいっているの」

<八五郎>「ところで、どうも小腹が空いてきたな。何かちょっとつまむものでもないのかね」

<奥さん>「何もありませんよ」

<八五郎>「なんか探せばあるだろう。冷蔵庫にとかさ」

<奥さん>「冷蔵庫には何にもございません」

<八五郎>「そんなことがあるわけないだろう、この間お中元でもらったウナギのかば焼きの残り半分がある筈じゃないか」

<奥さん>「うなぎ・・・ああ、あれ、食べちゃいました」

<八五郎>「え?」

<奥さん>「昨日のお昼に戴いちゃいました」

<八五郎>「俺のいないところでか・・・ひどいじゃないか。あれはウナギ茶漬けにしてあとで食おうってととっとといたんじゃないか」

<奥さん>「だから・・・私がウナギ茶漬けにして食べました」

<八五郎>「なんだよ、じゃあ、九州へ出張へ行った時の明太子の残りがあったろう、あれ冷凍庫に入れていたんじゃないか?」

<奥さん>「明太子・・・ああ。あれ食べちゃいました」

<八五郎>「え?」

<奥さん>「今日のお昼、明太子茶漬けにして食べちゃいました」

<八五郎>「なんでもかんでも茶漬けにするなぁ。他に何か、ああ・・・」

<奥さん>「食べちゃいました」

<八五郎>「まだ何も言っていないじゃないか?」

<奥さん>「何にも残っていないから、どうせ食べちゃったんですよ」

<八五郎>「バキュームか・・・?いや茶漬けの国のブラックホールか、お前は。本当に何にも残っていないのか」

<奥さん>「あ。一つ残っています」

<八五郎>「何が?」

<奥さん>「頂き物のマカロンが」

<八五郎>「マカロン?酒の後にマカロン?そんな話は聞いたことないね。っていうか、お前、まずマカロンから食えよ、女ってマカロン食うもんだろ」

<奥さん>「マカロン、お茶漬けにできませんから」

<八五郎>「なんで茶漬け縛りなんだよ」

ぶつぶつ言った八五郎ですが、その時腹の虫がきゅうっといい音をたてます。

<八五郎>「ほらみろ、腹の虫がないていらあ」

<奥さん>「あら、あなた。おなかに虫を飼っているんですか?それならお医者さんに・・・」

<八五郎>「その虫じゃないよ。なんだい人を、蟯虫飼っているみたいに。今や、令和だよ。おなかに蟯虫飼っている人は昭和で絶滅したんだよ。ちゃんとした落語家と一緒に消えちまったんだよ」

<奥さん>「あらそうですか、知らなかった。ところで何です、その蟯虫っていうのは?落語家なんですか」

<八五郎>「お前は蟯虫も知らないのか、弱ったね。三遊亭蟯虫なんて噺家はいないよ。とにかくね、もう九月になったんだ。通りの向こうにね、コンビニがあるだろ?」

<奥さん>「ありますね、行ったことはないけど」

<八五郎>「お前は、コンビニに行ったことないのか?」

<奥さん>「ありませんよ、あなた。オーナーがバイトも雇えずに死ぬほど働いているところなんて知りませんよ」

<八五郎>「なんだ、知っているじゃないか。ってか内情にも詳しいな。まあ、とにかくあそこでもうおでんを売っているんだ」

<奥さん>「あら、おでんなんて冬の食べ物じゃないのですか?」

<八五郎>「ところがどっこい、おでんは九月に売れる」

<奥さん>「なぜですか?まだ暑いじゃないですか」

<八五郎>「お前は物事を知らないな。初ガツオって知っているか?」

<奥さん>「知ってますよ、その位。初ガツオっていうのは春から初夏にかけて黒潮に乗って太平洋を北上する鰹ですよ。目には青葉 山ホトトギス、初ガツオというのは山口素堂が詠んだ俳句ですよ。ちなみに山口素堂は1642年生まれ、その年には譜代大名も参勤交代を命じられることになったのですよ。一方その19年後に生まれた宝井其角はまな板に小判一枚初ガツオという句を詠んでいるのですね。その頃は初ガツオは女房子供を質に置いてでも食え、と言われたものです。嫌ですよ、私を質に入れちゃ」

<八五郎>「お前・・・ウイキペディアかなんかか?それになんだい質に入れちゃいやだとか?人間は質にいれられないものだよ」

<奥さん>「あら昔質屋の広告で、旦那さんは質に入れられないってやってたけど、あれは旦那だけじゃないんですか?」

<八五郎>「ええっと、何の話をしていたんだっけな?」

八五郎さん、暫く考えて、

<八五郎>「そうだ、初ガツオっていうのはね、出始めだから貴重なんだ。初物だから高く売れる。おでんだってね、こう秋風がちょいと吹いてね、あ、ちょっと涼しくなったな、ちょっと温かいものが食べたいな、っていう時期にふらっと女の子がコンビニに入ってね、明日の朝食のために何を買おうかしら、糖質ゼロのヨーグルトにしよう、ダイエットだし・・・なんて言いながらレジに並ぶと、ぷんと出汁のいい香りがする。あら、おでん、と思った途端にダイエットなんて無粋な言葉はどこかに吹っ飛んでますよ。あ、ゆで卵、つゆのしみた大根、ちくわぁ・・・。やっぱりヨーグルトいりません、ってことになるんだよ」

<奥さん>「そう言えば、おでん、おいしそうですね。そんな季節になったんですね。腹の虫も秋になると鳴く」

<八五郎>「変なことを蒸し返すんじゃないよ。おまえの分も買ってきていいから、いっといでコンビニへ」

<奥さん>「そうですか、わたし何にしようかしら。がんもどきにしようかな」

<八五郎>「がんもどき・・・変なものを選ぶね。だいたいがんもどきっていうのはね、名前からして変だろ?雁の擬きだよ。つまり謎肉だよ。っていうか、そもそもお前は雁の肉を食べたことがないだろ。それなのに擬きを食べちゃいけないよ。そんなことしちゃ擬きかどうかも分からなくなるだろ?」

<奥さん>「いいじゃないですか、私が何を食べたって」

<八五郎>「いや、そういうものを選ぶときに品性っていうのが出るんだよ。それにがんもどきってのは茶色でなんかゴマみたいなぶつぶつが入っているじゃないか。あれは日焼けでしみができたよな顔だよ。美白じゃないよ。お前は、美白美白ってさんざん言っているじゃないか。美白ならはんぺんかちくわぶーにしなさい。ちょっとトイレに行ってくるから鍵を閉めて置くんだよ」

八五郎さん、そそくさとトイレに行ってしまいます。その後ろ姿を見ながら、

<奥さん>「なんでちくわぶーってブーのところだけのばすんだろうね、あの人は。何よブーって、だいたいこんな遅くに帰ってきておでんを買いに行けなんて、あの人は昔は結婚するのはお前しかいないとか言って一生大切にするからとかうまいことをいうからついつい結婚したのに、ちくわぶーとか。そもそも私の事をどう思っているんだろ」

ぶつぶつと奥さんは文句を言っていますが、ふと旦那スマホがテーブルの上に置いてあるのに気付きます。普通スマホっていうのは暗証番号が必要なんですが、亭主と一緒にスマホを買いに行った時に、奥さん横に居ましたから。その時、

<八五郎>「えーってパスワードねぇ。おい、俺の誕生日、何月何日だっけ?」

なんて亭主が聞いてきましたから、パスワードは見当が付きます。ちょちょいと入れると、あいちゃうんですね。本当に亭主は気をつけなければいけません。知らず内に飲み屋の女の子との写真を撮っちゃってますからね。ほんと、どういうわけか気が付かないうちに撮っちゃっているから。

でも、奥さんそんなことは思いもせずに、

<奥さん>「そうだ、コンビニに買い物行っている最中に何を言うか聞けば、私の事をどう思っているか分かるかもしれないわ」

そう呟くと、ビデオ電話を立ち上げちゃうんですね。旦那はからっきしこういうのがダメで会社ではITネアンデールタール人と呼ばれているような人ですから、ネアンデールタール人っていうのは、あれは人ではないんですね、類人猿なんです。つまりは人に似た猿っていう事ですね。猿と人の闘い、猿、負けちゃうんですね。

<奥さん>「よーし、じゃあ、私の方のマイクにはセロハンテープを貼ってこっちに聞こえないようにすれば気づかないでしょう。ちょっと画面を暗めに設定して」

もう、スパイですね。スパイと猿の闘い、そんな闘いがあるかどうかは知りませんが・・・。

さて、はっつあんはそんなことも知らずにトイレから戻って来ますと、出かけようとしていた奥さんが財布一つ、手ぶらで行こうとしているのを見て、

<八五郎>「おい、手ぶらで行っちゃダメじゃないか。今時はコンビニで袋はタダじゃないんだよ。さっき、タクシー運転手に500円、やっちゃったろ。あれ、袋100枚分だよ。少しは節約しなきゃダメだろ」

<奥さん>「あら、どうすれば良いの?」

<八五郎>「どうすれば良いのって、そりゃ入れ物を持って行くんだよ。ほら鍋があっただろ?あれを持って行くんだよ」

<奥さん>「鍋を持っておでんを買いに行くんですか?まるで江戸時代じゃないですか」

<八五郎>「江戸時代、洒落ている時代じゃねえか。テレビでやっていたけれど、江戸時代っていうのは環境にいい時代だったらしいよ。エコ時代っていう位だから」

<奥さん>「何を言っているんですか。もう、なんかみっともないわねぇ。ご近所さんに見られたら恥ずかしいわ」

<八五郎>「そういうご近所さんの方が恥ずかしいんだよ。環境を守って何がいけねぇんだ」

<奥さん>「そうですか、なんか貧乏くさく見られそうですけど、実際貧乏なんだから。甲斐性なしと思われるのはあなたなんですから、私はいいですけど。わかりました。じゃあ、行ってきます」

<八五郎>「よ、乙だよ。色っぽいよ。亭主のために鍋を抱えておでんを買いに行くなんて、絵になるよ」


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