第2話

<八五郎>「おーい、タクシー・・・お、おい、止れよ」

キキィ・・・。

<運転手>「あ、危ないじゃないですか、なんですか、急に道に飛び出してきて」

<八五郎>「なーに言ってやがんだよ。お前が手を上げたのに止まらないからいけないんじゃねぇか、危ねえのはそっちだろ。あーびっくりした。殺されるかと思った」

<運転手>「殺されるって、何をおっしゃっているんですか。だいたいお客さん、手なんぞ上げていませんでしたよ」

<八五郎>「それはお前、手を上げようとしていたら荷物がね、こう両手にあるもんだからね。どうやってこれを上げようかと、思案しているところをお前がさっさと行っちまおうとするから・・・いけねえんだ。だいたいね、タクシーっていうのはね、こう、獲物がいたらね、もしかして手を上げるんじゃないか、そう考えながらそろりそろりと運転をしないとならないんじゃないかね?」

<運転手>「お客さん、そんなことしていたらそこらじゅう渋滞になっちゃいますよ。それに獲物ってなんですか、あたしゃそんなことを考えて運転していたことなんぞありませんよ」

<八五郎>「なーにをいってるんだ。タクシーの運転手なんて獲物を探して街を流しているようなもんじゃねぇか。そこに不幸にも足の弱った獲物がいると、さっさとかっ攫って金を巻き上げようと、そうでも考えていなけりゃ、流しなんてしないだろう?」

<運転手>「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ、お客さん。乗るんですか」

<八五郎>「ほら、やっぱり攫おうとしているじゃねぇか」

<運転手>「攫いやしませんよ。乗らないんですね、行きますよ」

<八五郎>「いやいや、まてよ。攫われてやろうじゃねぇか、巻き上げられてやろうじゃねぇか。持ってけ泥棒」

<運転手>「やめてくださいよ・・・人が聞いてますよ。無理して乗っていただかなくても結構ですから」

<八五郎>「お、乗車拒否か?上等じゃねえか」

<運転手>「乗車拒否なんかしませんよ。ただでさえ景気が悪くて客が少ないんだから、そんなことしたら会社に叱られちゃいますよ」

<八五郎>「よーし、獲物と見たら誰でも乗せる。とりわけ俺のように財布の太った獲物は逃さない。それでこそタクシーの鑑だ。雲助の伝統だ」

<運転手>「雲助って、本当にもう、やめてくださいよ」

<八五郎>「まあ、そう固いことを言うなって。ドアを開けろよ」

バタン

<八五郎>「よーし、それでいいんだ」

<運転手>「どちらまでですか、お客さん」

運転手さん、不機嫌な声を出します。

<八五郎>「どちらまで、洒落たことを聞くじゃないか。ここを真っ直ぐだ。もうずーっとまっすぐ行って、地球を一回りして帰ってこい。その間に行き先を思い出す」

<運転手>「そんなことできるわけないでしょ」

<八五郎>「だよな。心配するなって。こういう時のために女房がね、ちゃんと持たしてくれているんだよ、住所ってやつを」

<運転手>「お客さん、自分の自宅の住所、覚えていないんですか?」

<八五郎>「まあ、覚えちゃいるけどね、覚えちゃいるけど、酒を飲むとね、忘れちゃう。それにほら寝ちゃうこともあるだろ?そう言う時のために住所を女房が書いてくれているんだよ」

<運転手>「ああ、いいおかみさんですね」

<八五郎>「そうだろ。俺には自慢することなんぞないが、女房だけは自慢ができるんだよなぁ、ほれ」

 そう言ってまあ、酔っ払いが紙切れを渡します。昔のタクシーは住所なんぞ言っても連れて行って貰えなかったんですが、今はカーナビってもんがありますから、

<運転手>「ああ、有難いですね。私もタクシーの運転手を始めて日が浅いもんですから」

<八五郎>「そうか、どのくらいになるんだ」

<運転手>「今日が初日です」

<八五郎>「今日が初日?そりゃあ頼りないなぁ。日が浅いって浅いもくそもないじゃないか。お湯を入れはじめたばかりの風呂みたいに浅いね」

<運転手>「お客さんが初めてのお客さんで」

<八五郎>「俺が初めての客・・・処女か?」

<運転手>「処女じゃないですよ。女ですらないです。えーと品川区西五反田・・・近いですね」

<八五郎>「近くて乗っちゃ悪いか。乗車拒否か」

<運転手>「やめてくださいよ。乗せますから」

<八五郎>「うん、わかった。ところで運転手さんの名前はなんて言うんだ」

<運転手>「なんだか、嫌だなぁ、お客さんに名前を教えるの、でもまあ、書いてありますからね。そこを見てください」

運転手さんが仕方なさそうにネームプレートを指します。タクシーには運転手の名前が必ず書いてあります。お客ともめた時のためでしょうね。なんですね、あんまり個人情報が守られていないような気がしますが、それよりも宅配便の方が凄いですね。タクシーの運転手さんは客だけに開示ですが、宅配便の運転手さんなんか車に書いてありますもんね。何の何某が運転していますって、もうダダ洩れですね。もっとも本当かどうかなんてわからないわけですが。

<八五郎>「お、兄ちゃんの名前は山野ハスか。変わった名前だな。ハスっていうのはね、山には生えてないんだよ。あれは泥沼に生えているんだよ。なんだ山野って・・・。泥沼から引き抜いたレンコンのような顔しやがって」

<運転手>「いや、ハスって書いてレンて読むんです」

<八五郎>「あ、ハスじゃないの?れんちゃんか、なんか、ついているときの麻雀の親みたいな名前だな」

<運転手>「なんでちゃん付けで呼ぶんですか?あたし、あなたとそんなに親しかったですっけ?」

<八五郎>「まあいいってことよ」

<運転手>「よかあないですよ。泥沼から引き抜いた顔とか言って。えーと二丁目の・・・ですね」

<八五郎>「そうだよ、たぶん」

<運転手>「たぶんって・・・。はい。入れました」

<カーナビ音声>「ルート案内をはじめます・・・・目的地周辺です。音声ガイドを終了します」

<運転手>「え?」

運転手さん、入力を間違えたかと慌てて手元の紙を見ると、住所だけじゃなくて名前が書いてあります。

<運転手>「山田八五郎さん・・・」

<八五郎>「はっつあんと、呼んでくれていいよ。あんただけは・・・おれもレンちゃんと呼ぶから」

<運転手>「勘弁してくださいよ。そんなんじゃなくて・・・なんかお宅ここから近いみたいですよ。カーナビに情報提供拒否されちゃいましたよ」

言いながらふっと脇の家の名札を見ると、そこに「山田八五郎・澄子」と書いてあります。

<運転手>「お客さん、もしかしたら奥さんの名前、澄子さんですか」

<八五郎>「あん?なんでお前が俺の嫁さんの名前を知っているの。初対面だよね、運転手さん」

<運転手>「そうですが・・・」

<八五郎>「初対面なのに妻の名前を知っている・・・疑わしい」

<運転手>「疑わしい?」

<八五郎>「もしかして、レンちゃん、お前、俺の女房に気があるな」

<運転手>「まさか・・・」

<八五郎>「まさかって、俺はお前の女房の名前を知らねぇよ。でもお前は初対面だっていうのに俺の女房の名前を知ってる。怪しいじゃねぇか」

<運転手>「だって、表札に書いてありますよ」

運転手の指先を辿って、八五郎が見ると確かにそこに、山田八五郎・澄子と書いてあります。

<八五郎>「お、同姓同名か、びっくりだな」

<運転手>「何言ってんです。ここ、絶対にお宅じゃないですか」

<八五郎>「お宅?気の利いたしゃべり方をするな、レンちゃん。あなたの家じゃないですかって言わないところが気に入った。たいていの運転手は、そう言いやがるんだ」

<運転手>「あ、お客さん、初めてじゃないですね。こういうことやるの」

<八五郎>「細かいことを言うなって。じゃあ、ここ、入れ。門突き破って、居間まで送れ」

<運転手>「いいんですか?あたし、いっちゃいますよ」

運転手さん、いい加減腹を立てています。

<八五郎>「冗談だよ、冗談・・・本気にするなよ。ああ、支払いはっと、おいくら?」

<運転手>「一億円です」

<八五郎>「一億・・・んな、わけねーだろ」

<運転手>「まっすぐ行って地球を一周してきたんですから、一億。ええ、どうせ私は雲助ですから」

<八五郎>「お、言うねぇ。地球一周か、覚えてないねぇ。その間おれは何をしていた」

<運転手>「寝てました」

<八五郎>「寝てた、、、どのくらい?」

<運転手>「八十日間くらい・・・」

運転手さん、八十日間世界一周という本でも読んでいたんですかね、思わず八十日と口に出します。

・・・・。

・・・・。

<運転手>「あ、本当に寝ちゃった。お客さん、起きてくださいよ」

<八五郎>「ああ、良く寝た。今日で八十一日目か。月で言うと三か月、三か月経ってもここら辺はかわらないねぇ、運転手さん。八十日間・・・髭をそった覚えもないのに顎がつるつるだ。八十日間風呂も入っていないのに臭くねぇ。もう一寝入りするか」

<運転手>「分かりました、分かりましたから、もう起きてください。お代は結構です」

<八五郎>「お代は結構?あったりまえじゃないか。車は一ミリも動いてないじゃないの。それを一億円とか・・・」

<運転手>「あああ、すいませんね。冗談です」

<八五郎>「冗談で一億払わされちゃかなわねぇ。雲助どころの話しじゃねぇだろ。おっと、あ痛、たたた」

<運転手>「どうされたんですか?」

<八五郎>「あんまりレンちゃんの冗談が詰まらないもんだから腰をやられちまった」

<運転手>「冗談が下手だから腰なんて・・・やられるもんですかねぇ」

ぶつぶつ言いましたが、そのまんまじゃ商売にならないので運転手さん、車から降りて、

<運転手>「頼みますよ。この手をお客さんの方から掴んでくださいね。運転手の方からお客さんの体に触っちゃいけないんですから」

<八五郎>「そうなのか、てやんでぇな規則だな」

文句を言いつつも、客が車から降ります。そのまんまほっておいてもいいんですが、運転手さん、気の良い人で、

<運転手>「そこのうちでしょ、お送りしますよ」

なんて言いながら表札のあった家のブザーをおします。

<奥さん>「はい、ちょっとお待ちください」

奥さんらしい声がブザーから返ってきます。

<奥さん>「あら、あなた、またこんなに酔っちゃって」

<八五郎>「なーに言ってんだ、おれは酔っちゃいねぇ。ただあんまりつまらない冗談を聞いたもんだからちょっと腰を痛めただけだ」

そういいながら大あくびをすると玄関でごろんと転がって鼾をかき始めます。

<奥さん>「あらま、たいそう酔っぱらっちゃって。運転手さん、申し訳ありません。お代は・・・?」

運転手さんは横に首を振ります。

<奥さん>「あら、まあまだ払ってもいないんですね。しょうがないわねぇ。おいくら」

<運転手>「おいくらも何も、乗せていないんですよ」

<奥さん>「あら、乗せていただいていないのになぜ連れてきてくださったの・・・」

<運転手>「一般的に言うと、変な人・・・いやいやご主人に絡まれちゃったということなんですがね、ご自宅の前で止められて、ご自宅まで送れと、そういうことで。」

<奥さん>「あらまあ、ご迷惑をかけたんですね」

<運転手>「まあ、迷惑と言われれば・・・」

<奥さん>「本当に申し訳ないですわ。せめて初乗り料金だけでも」

そう言って奥さんが奥へ引っ込みます。そうですか、と言いながら運転手さん、

<運転手>「こういう時、東京の初乗り料金が下がっちゃったのは痛いなぁ。田舎なら600円にはなるのになぁ。別に初乗り料金じゃなくってもいいのに。本人も財布の太った獲物とか言っていたけど、ただ体が太っているだけじゃないか。」

ぶつぶつ言っていると

<奥さん>「申し訳ありませんでしたね、運転手さん。お釣りは結構ですから」

と500円玉を渡されます。お釣りは結構ですって言っても80円ですから、立ち食いソバも食えない。せいぜいコンビニのコロッケです。子供じゃないんですから、気のどくなものですが、そこは客商売、ありがとうございます、と帽子を取って挨拶をして帰ろうとしますとくだんの酔っ払い、すなわち、山田八五郎氏が目を覚まし、

<八五郎>「お、レンちゃん、俺を置いていくのか。この薄情者め」

<運転手>「薄情者って・・・。奥さんからお代を戴きました。これで失礼します」

<八五郎>「お前、今、俺の悪口を言っていただろう、デブだとか・・・」

<運転手>「そんなこと言っていませんよ。失礼します」

運転手さん、這う這うの体で逃げて行きます。これが運転手になっての最初の客、どうもあんまり明るい未来は見えてまいりません。


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