ヘイゼル・アイズ

荒波一真

ヘイゼル・アイズ

 雅弘叔父さんの家に行くのは毎週水曜日と決めていた。

 ここ数か月は、手土産にお弁当の余り物を持っていくようにしている。たいていは卵焼きとサラダで、失敗した日には崩れたハンバーグが加わる。

 自転車を数分走らせると、目的のマンションに着いた。綿埃のようなくすんだ灰色の壁面が、曇天だからか、いつもより一層不気味に見える。『違法駐輪は犯罪です』と書かれた真新しいポスターが見えた。この地域では誰もそんなことを気にしない。住民と警察の間には、互いに必要以上の干渉を行わないという暗黙の了解がある。多分これを貼ったのは新入りの巡査だ。やる気に満ち溢れたタイプ。良い気分はしなかった。警察と好んで関わりたい人などあまりいない。

 エレベーターで四階まで上がり、一番端の部屋へ歩く。周りには誰もいない。

 ドアノブのかなり上についた黒いセンサーに目をかざした。振動音が閑静なマンション内に響き、ドアが少し開いた。簡易的な虹彩認証システムだ。今の流行りは静脈認証で、虹彩認証よりも経年変化の面で優れている。もっとも、ここの住民に高度なセキュリティシステムは不要である。盗む価値のあるものがほとんどないのだから。

 叔父さんは紺色のシャツの上に黒いウィンドブレーカーを羽織り、ジーンズを履いていた。髪を梳かしてワックスで膨らませれば、大学生と言っても通用しそうだった。ほとんど外出しないはずなのに身なりはきちんとしている。

 彼は私が入ってきたことに気付いていないようだった。相変わらず大きなディスプレイに向き合い、往年のヒット曲を口ずさんでいる。確か題名は『In Bloom』。ニルヴァーナの名曲だ。日本では十五年前に配信が停止された。

「明美です。邪魔してごめんね」

「ん」

 会釈をすると律儀に返してきた。元来真面目な人なのだ。私はカバンからタッパーを取り出して、作業の邪魔にならないところに置いた。汁が垂れていないか気にしながら。以前作品が汚れてしまった時は、ひどい落ち込みようだった。

 叔父さんはゆっくり立ち上がった。洗面所へ向かうのだ。この前より少し動きが軽くなった気がする。初めて訪問した時に比べれば、別人に思えるほど健康的だ。

 改めて部屋を見回す。あちこちにカップ麺のゴミとビール缶が転がっていた。叔父さんは自分の見た目には気を遣っている。だが、部屋の見てくれに関しては全く無頓着であった。持参したゴミ袋を開き、目につくカップ麺と箸を入れた。缶はダストシュートへ放り込んだ。金属が風を切る気味の良い音がしばらく響き、耳の奥に残る。

 かつて鬼才と言われた人物の自宅が、このありさまであると知ったら、ファンは随分幻滅するだろう。

 叔父さんはどこからか新しい割り箸を持ってきて、タッパーの前に座り込んだ。

「美味い、美味い」

 反応がまるで子供みたいだった。彼はとにかく偏食で、放っておくには忍びない。一年以上カップ麺生活を続けたという噂を幼い頃に聞いたことがある。

 今となっては私しか止める人がいない。叔父さんは世間に見捨てられたし、もっと悪いことに、家族にも見捨てられた。

「卵焼きが美味い人間は信用できる」

 彼はぽつりと呟いた。

「料理人でも胡散臭いやつなんてたくさんいるでしょう」

「胡散臭い奴は卵焼きなんて作らないからさ」

 大体五分で全てのタッパーが空になった。彼は作業机の下に手を伸ばした。豚型の貯金箱を手に取り、中から捻じれた紙幣を取り出した。

 今時キャッシュを使うのは叔父さんくらいだ。最初はその価値が分からず、銀行に問い合わせた。高校生がもらうには罪悪感が生じるほどの大金だった。

 疑問を覚えなかったわけではない。保障金受給者には払えるはずがない金額だ。今までにもらった紙幣は手を付けずに引き出しに隠してある。このことは親にも言っていない。叔父さんをこれ以上厄介な状況に追い込みたくなかったのだ。不正受給、あるいは不正就労がばれれば、世間はますます彼への批判を強めるだろう。

 紙幣をポケットへ突っ込み、とりあえずそのことについては後で考えることにした。

 私は彼の背後に回り込んだ。ディスプレイは斜めに大きく傷の入った中古品だ。差し押さえられないように自分で傷をつけたらしい。画面いっぱいの大きさのイラストが表示されている。ほとんど完成に近い。細かい線の集合体で表された模様を背景に、一人の青年が本を読んでいる。

 私は脳内にその姿を焼き付けた。巷に溢れる安っぽい絵と違い、叔父さんの作品はどこまでも細かく、気品があった。何分と経たないうちに吸い込まれてしまうような気がした。

「題名、何だと思う」

 私は首を傾げた。

「決めてないんだよね。どうせ売れないから」

「売れるに決まってます。大人になったら私が買うもの」

 彼は穏やかな表情でこちらを見た。それから画面を閉じ、体の向きを変えた。

「最近あんまり捗ってないんだよ。どうしてもデジタルには慣れない。限られた彩色で最高のパフォーマンスを生み出す方が、何つうか、張り合いがあった。『ヘイゼル・アイズ』を超える作品は、今の俺には作れない」

 ヘイゼル・アイズ。彼の口からその名前を聞いたのは初めてだった。今世紀最大のヒットを記録した問題作。叔父さんの人生を翻弄した映画だ。私は唇を固く結び、彼の口から何かが明かされるのを待った。

 期待は外れた。叔父さんはまたディスプレイを起動し、作業を始めた。ペンタブレットを恐るべき速さで動かしている。居心地の悪い沈黙が続いた。もう少しだけ叔父さんと会話がしたかった。

「叔父さんが作品描いてる姿、すごくかっこいいです」

 私は小声で言った。

 タッチペンのこすれる音がぱたりと止まる。

 しまったな、と思う。踏み込んではいけない領域に入ってしまった。叔父さんはこういう時怒りはしない。ただ悲しそうな顔をするだけだ。

「駄目だよ、俺なんて尊敬しちゃ。創作物は人を幸せにするために作られるべきだし、実際それが自分の使命だと思ってた。才能に恵まれてると信じてたんだ。呆れるくらい傲慢だったよ、俺。今はもう役立たずの劣悪品しか作れない。何なら人に迷惑をかけてばかりだ。最悪だって自覚はあるけど、今更どうすることができるっていうんだ」

 彼は続けて何かを言おうとした。少なくとも私にはそう見えた。着信音がそれを妨害した。叔父さんは気だるそうにスマホを取り、何度かはいと返事をした。

 またペンタブレットのこすれる音が戻ってきた。規則的で無駄がない。叔父さんの顔色以外、以前と変わったところはない。私は帰る準備をした。

 玄関のドアを開けようとしたとき、肩を叩かれた。見送りに来るなんて珍しいと思った。

「明美ちゃん、もうすぐ誕生日でしょう。ちょっと早めだけどプレゼント」

 そう言うと、USBメモリをポケットから取り出した。何だか懐かしい気分になった。オンラインストレージが主流となった今、紛失の可能性があるUSBを使う人などほとんどいないのだ。室内のインテリアといい、彼の時間は二十世紀末で止まっているように思えた。

「十八歳の一年は、人生で最も貴重な一年なんだ。誕生日まで開けちゃ駄目だから。叔父さんとの約束な」

 彼は綺麗な瞳を少し細めた。寂しそうな笑顔だった。メモリは少し温かかった。


 授業が終わった後、まっすぐ情報室へ向かった。

 暗幕で日光が遮断された室内には、一見誰もいないように思われた。私は照明のスイッチを入れた。

 部屋の奥の方に誰かがうずくまっている。着ている紺色のパーカーから、すぐに佐原圭だと分かった。彼ほどパーカーが好きな人を他に知らない。起こすのも躊躇われるくらいすやすや寝ていたので、いつも教師が座っている席に腰を下ろした。

 コンピューターの隣にどぎつい色のチラシが置いてあった。

『No more illegal drugs!~新薬機法制定十五周年~』

 今年に入って、何度となく見かけたスローガンだ。多分情報の授業の課題だろう。一昨年、同じようなデザインのチラシを作った覚えがある。私が教師ならこのチラシは十点だ。百点満点中の十点。理由? 題材が最悪だから。

 蛍光色のローマ字を睨みつけ、それを裏返した。目がちかちかする。裏面には長ったらしい文章がプリントされていた。

『かつての私たちは、薬剤が自由に処方されるのを良いことに、間違った薬の使い方を改めようともしませんでした。自分勝手な抗生物質の服用中止、咳止め薬の乱用。また、不適切で悪質な宣伝により違法ドラッグは神格化され、多くの若者が命を落としました。薬は使用法や量を間違えば毒になりうるのです。新薬機法施行下では、独自AIの管理システムによる処方薬の完全把握・違法ドラッグ及びそれを連想させる商品の恒久的根絶・市販薬の完全廃止をモットーに、ノードラッグ・ハイグレードな生活を皆さんに提供いたします。文責:新薬機法普及委員会』

 何重にも折り曲げてゴミ箱へ捨てた。後で怒られても知らないふりをしよう。胸糞の悪いチラシを作った下級生が悪い。

 新薬機法は多くの人の生活をめちゃくちゃにした。そのうちの一人に叔父さんは含まれている。法律は正義かもしれないが、正義が善良な人を苦しめることだってある。

 人影が近付いてきた。圭はいつの間にか起きていた。

「今日は活動ないよ。連絡したと思うけど」

「毎日あってないようなものでしょ。部員、私たちしかいないのに。とにかく頼みごとがあるの。ここに入っているデータを見せてほしい」

 USBメモリを差し出した。

 約束を破ってしまうことになる。少し申し訳なかった。だが、フライングで貰った誕生日プレゼントほど魅力的なものはない。当日まで我慢できないことくらい叔父さんだったら容易に分かるはずだ。

 プレゼントはきっと素晴らしいものだろう。イラストのデータかもしれないし、今では手に入らない洋楽の音声ファイルかもしれない。叔父さんは色々なアーティストの円盤を集めていた。新薬機法の力をもってしても、個人の財産を全て没収することはできない。

 家での作業は得策ではなかった。父親も母親も、叔父さんに関するものを嫌った。情報室は映画制作部のシマで、圭はその元締めたる部長だった。この部屋と機械関係のことなら、何でも知っているのだ。

「アナログ人間かよ」

 圭は心なしか嬉しそうだ。

 パソコンの本体にすっぽりはまったUSBは、どこか滑稽な印象を私に与えた。機械に詳しい訳ではないが、彼の表情からすると、作業は概ね順調に進んでいるようだった。

 時折足音が聞こえてきた。その度に少しどきどきした。同級生なら映画の編集という言い訳で押し通せる。問題は顧問が来た時だった。情報室の施錠時間はとうに過ぎていた。機嫌を損ねれば活動禁止になっても文句は言えない。顧問は常に廃部のチャンスをうかがっている。作業を見守りながらドアの窓をチェックするのは骨が折れた。幸運なことに、圭が作業を終えるまで誰も入ってこなかった。

「簡単なタイム・ロックだ。中に入ってるのは動画ファイル。ウイルス類も仕掛けられてなさそう」

「本当にありがとう」

「ねえ、ところでさ」

 彼は興味深げにこちらを見た。

「これは誰からもらったの?」

 返答に詰まる。本当のことを言えば、いつか叔父さんに迷惑がかかるかもしれない。黙ってやり過ごせば圭に失礼だ。

 さんざん悩んだ結果、圭の口の堅さを信用することにした。

「新畑雅弘。他の子には言わないで」

「新畑雅弘って、アニメーターで合ってる? 『ヘイゼル・アイズ』の」

 私は頷いた。

「あんまり答えたくなかったらいいんだけどさ、どういう関係なわけ? ていうか、正直、信じられないんだけど」

「ただの叔父さん。お父さんの弟」

 圭は眼鏡を外して画面を凝視した。私も画面に目をやった。フォルダの中には動画ファイルが一つ入っていた。ファイル名は文字化けのせいで判読できない。

「確かに新畑って珍しい名字だとは思ったよ。そういうことならもっと早く教えてほしかったな」

「やけに叔父さんに関して詳しいんだね。今時知らない人の方が多いはずなのに」

「映画好きだったら誰でも憧れるって。『ヘイゼル・アイズ』は日本アニメーションのバイブル的存在だったんだから。原作者にして作画総監督の新畑さんが、その当時の技術を駆使して作り上げた最高傑作。映画館で見てみたかったなあ。ほら、いろいろ問題はあったけどさ」

「新薬機法が作品内の大麻の描写を問題視し、公開中止。後にサブリミナル効果の使用が発覚。新畑雅弘はアニメーション業界から追放され、巨額の賠償金を支払わされた。そうでしょ? お母さんに教えてもらったわ、何度もね。結局自己破産して、今は公営住宅でひっそり暮らしてるの」

 彼はうつむいた。

「ひどい話だよなあ。いくら違法ドラッグが体に悪いからって、発禁はやりすぎだと思う。サブリミナルだってあの頃は規制されてなかった。明美さんは知ってる? あの法律のせいで薬局も軒並み潰されたんだ。市販薬の乱用を防ぐために。僕の両親だって失職したもの。二人とも薬剤師だったんだけど、今は目も当てられない。クラシック音楽で癌の毒素を抜くってぬかして、金を巻き上げてるんだから」

「初めて聞いたわ、その話」

「気分のいい話じゃないからね。ところでこの動画、僕も見ていいのかな?」

「一緒に見よう。きっと叔父さんも喜んでくれるはずよ」

 彼の顔がほころんだ。

 部屋の照明を落として、各々ワイヤレスイヤホンを付けた。アイコンをクリックすると、突然画面が真っ暗になった。


 画面に光が戻ることなく、唐突にピアノの曲が流れ始めた。聞き覚えのある曲だったが、これほど悲しいメロディではなかった気がする。

 お互いの様子をちらちら見ながら、ディスプレイに変化が訪れるのを待った。一分待っても変化はない。もしかして壊れたのだろうか。

 圭がEscキーに人差し指を伸ばした時、ようやく動きがあった。右上隅のエリアから、暗い画面が徐々に細かく割れ、破片が奥へ吸い込まれていく。私は息をのんだ。破片が全て消えるとゴシック体の英字が中央にせり出してきた。『Hazel eyes』と。

「信じられない。原本が残っていたなんて」

「ねえ、私たちまずいことしてる? これって見ちゃ駄目なんじゃないの?」

「もう手遅れだ。それよりほら、これ全部手描きだぜ。頭おかしいだろ」

「ちょっと静かにしてよ」

「静かにしてられるかよ。今じゃこのアニメ、予告編すら見られないんだ。全部削除されちゃってさ。値段なんて付けられないよ」

 タイトルロールが終わり、都会のビル群が表示された。真夜中の夜景。紺碧の空が金色の光に照らされて、不気味な色合いに輝いている。月は出ていない。

 画面はゆっくりズームアップされる。一つの建物が大写しにされ、さらに部屋の内側が見える。

 中には一人の少女がいた。年は十三、四くらいだろうか。こげ茶色の髪をツインテールに束ね、机に胡坐をかいている。何より印象的だったのはその瞳の色だ。髪色よりずっと明るいハシバミ色の目が天井を睨む。叔父さんと同じ目だ。

「カナコだ。物語の主人公の」

 圭が上ずった声で言う。

「ほんと詳しいのね」

「昔の映画雑誌にそう書いてあったんだ。ちょっと明美さんに似てるよね」

「ツインテールなんてしたことないわよ」

 カナコが動いた。右手を入り口の方へ徐々に伸ばし、指先までピンと張った。モーションが滑らかすぎて、少しビビる。

 中学生のくせに、彼女は妙に神々しい雰囲気をまとっていた。あるいは作画のせいかもしれなかった。生身の人間にもイラストにも似つかない独特の造形は、一歩間違えば不気味の谷へ落ち込んでしまいそうだ。

 画面の奥には叔父さんの世界が広がっていた。静止画では感じ取ることのできない、圧倒的な精密さ。狂気ともとれない意味深なセリフ。上品なようでところどころおかしい登場人物の動作。

 二時間十分の上映時間中、私と圭は時々変な感想を言い合いながら、映画にくぎ付けになっていた。しばらくの沈黙ののち、圭が口火を切った。

「この動画のこと、絶対誰にも言わない方がいい。見た感じ何も修正されてない。どこにサブリミナルが施されていたかは分からなかったけれど」

 私は全力で頷いた。新薬機法に違反していることは明らかだ。この動画は本来存在してはいけないのだ。

 USBメモリを取り外そうとした時、彼が怪訝な顔をした。画面をのぞき込んだ。

 動画のアイコンの下に新しいファイルが増えていた。相変わらず名前は文字化けしている。

「心当たりある? これ」

「全くない」

「予想っていうより願望だけど、ひょっとしたら『ヘイゼル・アイズ』の続編じゃないかな。都市伝説で聞いたことがあるんだ、カナコとその仲間たちの後日譚が描かれたってやつ」

「開いてみてよ。そしたら分かるはず」

 圭は難しそうなプログラムを起動した。二十分くらいパソコンと向き合った後、首を振った。

「最新型のタイム・ロックがかかってる。コピーもできない。お手上げ状態」

「こっちのファイルは当日までお預けってわけね。悔しいなあ」

 校門施錠の時間が近づいていた。情報室を片付け、足音を立てないように暗い廊下を走った。

 すごい映画だった。ストーリーは難解で、意味の分からない部分も多かったが、強烈な興奮感情はしばらく脳を支配していた。叔父さんがあの映画を製作している場面や、映画館でスタンディングオベーションが巻き起こる様を想像した。

 かつてないほど誇りに思えた。


 自転車を懸命に漕いでマンションに着いた。今までにないスピードで漕いだ。多分最速記録を更新したが、ちっとも嬉しくなかった。

 旧式のエレベーターには行列ができていた。以前と違い、そこら中に人の気配があった。まるで違うマンションに来たような気分だった。

 紺色のコートを着た刑事が、こちらに気付いて手を振った。

「新畑明美さんですね」

 頷くと、彼はついてくるようジェスチャーをした。人の間を縫って歩く。マンションの住人は様々な表情をしている。たいていが怒り、怯えている。明日は我が身とでも思っているのだろうか。

 ここは保障金受給者のための簡素な公営住宅だ。これまでも何度か同じことはあっただろう。問題は、今回自死を選んだ人物がかなり有名であることだった。

 人は本当に悲しいことが起こったとき、何故だか涙は出ないのだと、どこかで教わった気がする。今がまさにそうだった。

 マンション内の会議室には、父母が先に到着していた。私はできるだけそちら側を見ないようにして、促された席に腰を下ろした。

「皆さん揃いましたのでお話を伺っていこうと思います。今のところは事件性が認められないため、形式的な聴取となります。防犯センサーのデータ分析が終了しないことには何とも断言できませんが。ひとまず皆さんリラックスしていただければ」

 先ほどの刑事がそう言うと、室内の張りつめた空気が少し緩んだ。

「雅弘さんは独身で身寄りがなく、お兄さんともほとんど連絡を取っていなかったと聞きますが」

「その通りです」

 父が怒り口調で言った。

「最初は面倒を見ようとしたのですが、本人が拒否したものですから。絶縁状態と言って差し支えありません。娘だけは物好きなもので毎週遊びに行っていたようです。虹彩認証の登録も明美しか済ませていません」

 嘘だ、と思う。叔父さんが落伍者のレッテルを貼られてから、一度も助けようとしなかったくせに。

「となりますと、最後に雅弘さんと会ったのは娘さんということで間違いありませんね。えー、明美さんは何か違和感を覚えた点はありますか?」

「特に何も。いつも通りの叔父さんだった気がします」

「何かを仄めかすような言動はしていなかったんですね? 遺書のようなものも渡されなかったと」

 急に制服の右ポケットが重くなった。中にはUSBメモリが入っている。『ヘイゼル・アイズ』の動画ファイルがある。

 私はこの時気付いてしまった。叔父さんはもういない。新しいイラストを見ることはできない。涙が出てくる代わりに、心が暗く重く沈んでいった。まるで映画のタイトルロールを逆再生しているかのように。

 USBの存在を隠しておくことは、不可能ではない。今のところ事件性はないのだから。しかし、いずればれるかもしれない。私はとても怯えていたし、冷静な判断ができなくなっていた。新薬機法に違反する罪は重い。

「誕生日プレゼントなら、もらいました」

 ポケットからUSBを出した。刑事は目を丸くした。

「早速鑑識に渡しましょう」

「無理だと思います。タイム・ロックが施されているので。当日になるまでは開きません」

「我々を舐めているのかもしれませんが、少なくとも素人のロック程度なら数十分でこじ開けることができますよ。さ、渡してください」

 ただならぬ口調だった。私はメモリを強く握りしめた。

「心の整理がついていないんです。でもこれだけは分かります。このUSBは私の誕生日プレゼントです。どうするかは私が決めます。誕生日になってロックが外れたら、中に何が入っていたか報告します。駄目ですか?」

 刑事は少し迷っているようだった。私たちは別室に案内され、長い時間待たされた。

 叔父さんの最期の姿を見ることは許されなかった。保障金受給者の扱いは極めて特殊だ。所持品はオークションに出される。個別の墓を持つことはできない。遺骨は大部分が廃棄され、スプーン一杯分のみ共同墓地へ撒かれる。それで終わり。

 待ち時間は永遠に感じられた。紺色の刑事が出てきた時、私は眠ろうとしていた。

「USBを紛失しないように気を付けてください。正直上層部は、今すぐにでもそれを別部署へ回したいそうだ」

 彼は悲しそうな顔をした。

「学生時代、新畑さんの大ファンでした。こういう形で再び彼の作品を見ることになろうとは。残念なことです」

 

 自転車を押して、自宅までの道をゆっくり歩いた。多分ここを通るのは今回が最後だと思った。数分ごとに振り返り、マンションが小さくなるのを眺めた。

 突然涙が出てきた。どうしようもなく辛かった。叔父さんはこの世界から忽然と姿を消した。二度と戻ってくることはない。私はずっと泣いていた。

 何個目かのポケットティッシュを取り出した時、落ち葉の踏まれる音がした。

 自転車に乗ろうか迷う。単なる思い過ごしかもしれないし、刑事が忘れ物を届けに来たのかもしれない。

 信号を渡り、角を何度か曲がった。足音は消えるどころか、どんどん大きくなる。私は急に怖くなった。後ろの誰かは自宅まであとをつけるつもりだろうか。

 スマートフォンの無音カメラを起動して、後ろ向きにかざす。チャンスは一度だ。成功する保証もない。思い切ってシャッターボタンを押した。どうか写っていますように、と願いながら。自転車に飛び乗り、だいぶ遠回りをして家に帰った。もう足音は聞こえなかった。

 自室でUSBを何度も握りしめる。叔父さんの最後のプレゼントが誰か他の人の手に渡ることなど、あってはならない。私はこれを守らなければ。


 高校近くのカフェには思ったよりたくさんの客がいた。同級生もちらほら確認できた。各々の喋り声が一体化し、大きなうねりとなって部屋中にこだましている。

 普段であれば、来ようとも思わない場所だ。だが今回は事情が違った。土日は併設された通信制高校の登校日だ。一般生徒は校舎に立ち入れない。お互いの家には親がいる。

 昨夜の写真を見せると、圭は顔を歪めた。

「多分これは『アイシング』の構成員だ。ほら、このロゴマーク。身元を特定してくださいと言っているようなものだよ」

「どういうグループ、それ」

「薬物売買をしてたチンピラ、と言えば一番しっくりくるかな。新薬機法が成立する時、同じようないかがわしい団体はことごとく潰されたんだ。でもこいつらは摘発を免れた。どうしてかは分からない。今更売るものもないくせに、こそこそネズミのようにうろついては、何かを探ってるんだ。この前うちにも来たらしい。父親がうんざりしてた」

 叔父さんの知り合いなのだろうか。今となっては知りようがない。

「ねえ、怪しいと思わない? 叔父さんの件で関わった刑事、こう言ってたの。『上層部がUSBに興味を示している』って。それに加えてこいつが後を付けてきた。私たちの知らない、何か重大な事実が隠されてるんじゃないかしら」

「可能性としては十分あり得る。ひと騒動あったとはいえ、かつてはアニメ界の寵児だっただろ。君の叔父さん。作品が高値で取引されてた、とかかな」

「そんなことだったら警察の出る幕はないんじゃない?」

「大ありだよ。実際『ヘイゼル・アイズ』の未修正版なんてどうあがいても手に入れられないはずなんだ。裏ルートでも知らない限りね。かつて映画に熱狂してた若者たちは、今立派な社会人だ。もう一度見たいって思っても不思議じゃない。裏ルートといえば非合法組織の出番じゃないか」

 何だか納得がいかなかった。刑事の態度には鬼気迫るものがあった。私たちには言えない事情があるように思えた。

「少なくとも誕生日、つまり明日までは、僕らに分があるってことだ。USBをちゃんとキープしながら、その事実とやらを探ってみればいい」

 私はしぶしぶ頷いた。

 調査といっても、高校生二人にできることは限られている。

 叔父さんが住んでいた部屋は封鎖されていた。例のマンションは常に入居者待ちの状態なのだ。清掃が済めばすぐに次の入居者がやって来る。故人の死を悼む暇はない。

「他に親しい人はいなかったの?」

「全然。直接の親族はお父さんしかいないし、兄弟仲はいつも悪かったらしいから。あと叔父さんは、作業スペースをすごく散らかすの。誰かが遊びに来た形跡はなかった」

 言い終えてまた虚しくなった。私は叔父さんのことを何も知らない。『ヘイゼル・アイズ』についても、親の悪口や、公民の授業で得た通り一遍の知識しかない。圭と違って、調べようともしなかったのだ。

 たかが週に一度料理を持っていく程度の関係で、何を思い上がっていたのだろう。

「僕が思うに、雅弘さんは明美さんのことがとても気に入っていたんじゃないかな」

 圭がすっかり薄くなったコーヒーをすする。

「誰にも見せない作業場所を、明美さんには見せてたんだろ? プレゼントだってそうだ。普通の人には絶対渡さないよ。僕は君がとっても羨ましい」

「そんなんじゃない。叔父さんはすっかり心を閉ざしてた。何かひどい罪悪感に、悩まされているように見えたの」

「交友関係に当てがなさそうなら、職場や同僚の人に聞いていくのが良さそうかもな。『ヘイゼル・アイズ』の問題が発覚するまで、雅弘さんは株式会社ハレーで原画師として働きつつ、自作の漫画を執筆していたそうだ。とりあえず僕はハレーに連絡してみるよ」

「初耳だわ、その話」

「ああ、あの映画を見た日から結構調べたんだ。古本屋の雑誌とか、番組のアーカイブとか。ウェブ上には何も残っていなかった。新薬機法のせいで軒並み削除されたみたいだ」

「新薬機法なんて言葉、聞きたくもない。叔父さんだけじゃない。どれだけ多くの素晴らしい作品を闇に葬ってきたか、考えたことあるのかしら」

「そうだよなあ。生まれる時代を間違えたなってつくづく思うよ」

圭は大きなため息をついてから、スマホを持って屋外に出た。


 怪しげな人影がドアの外に見えた。まさか見張られていたのだろうか。アイシングの連中だったら厄介だ。

 人影は堂々とドアを開けた。そしてドリンクを注文することなく、まっすぐ机に近づいてきた。予想外の人物だった。マンションで会った紺色の服の刑事だ。今日は非番なのだろう、グレーのダウンジャケットに身を包んでいた。

「お久しぶりです、新畑さん」

 彼は空席に腰を下ろした。

「そこ友達の席なので、座らないでいただけますか?」

「すみません。お時間はとらせません。前会ったときは名乗り忘れてしまいましたね。田崎と申します」

 私が睨むと、彼は若干たじろいだ。何かに戸惑っているように見えた。

「要求はただ一つです。そのUSBを渡してください」

「明日まで待ってくれるって約束したじゃないですか」

「あなた、危険な目に遭いたいんですか。ことが済んだらお返しすると言っているでしょう。雅弘さんのことを大事に思っていたならば、私たちを手間取らせないでください」

「確かな理由も教えてくれないくせに、ずいぶん高圧的な態度なんですね」

「理由なら後でいくらでも教えますよ。今は絶妙にタイミングが悪いのです」

 彼の発言には所々ひっかかる部分があった。傷つける? 私はもう耐えられないほどダメージを受けている。今だって泣き出してしまいそうだ。タイミング云々も、全く理解できなかった。

 お引き取り下さいと言おうとした時、圭がドアを勢いよく開ける姿が目に入った。カフェの喧騒が一瞬で止んだ。

「外に不審者がいます! 誰か取り押さえてください」

 田崎が素早く立ち上がり、圭と入れ違いで出て行った。圭は呼吸を荒げながら言った。

「残念な話が二つ。まずハレーは金輪際『ヘイゼル・アイズ』と雅弘さんについて詮索されたくないみたいだ。原画もすべて処分したらしい。ひどい話だ。もう一つは、アイシングのメンバーが外の入り口を見張ってた。ところであの元気なお兄さんは誰?」

「警察官。私たち、とても運が良かった。厄介者を同時に追い払うことができたんだから」

 圭は黙って肩をすくめた。

 次に何をすべきか分からなかった。高校生と言えば聞こえは良いが、しょせんただの子供だ。カナコみたいに世の中をかき回すことはできない。

 左の太ももに伝わってきた微かな振動に気付かなければ、ここで私たちの悪あがきは終わっていたかもしれない。私はポケットに手を突っ込んだ。電話だ。しかも非通知設定だった。そういえば別れる前の叔父さんも、電話に怯えていた気がする。何となく思い出した。


 待ち合わせ場所は学校近くのカラオケ店だった。

 約束の時間まで、適当に歌を歌い、ジュースを飲んだ。それに飽きたら、もう一度『ヘイゼル・アイズ』を見た。一回目ほど混乱はしなかったが、結局内容は理解できなかった。

 二人とも疲れていた。USBを渡されてから、普段起こらないことの連続だった。

明日になれば中身は分かる。私たちはそれを警察に知らせなければならない。『ヘイゼル・アイズ』のデータを守る方法を考えたが、どれもこれも現実味はなかった。ファイルには最新のコピー防止処理がなされていた。

 電話の主の要求は至ってシンプルだ。午後十一時に指定した場所へ来ること。あなたたちの謎解きの答え合わせをしてあげる。返事をする間もなく電話は切られた。

 いたずら電話の可能性もあった。だが、自宅で手ぐすねを引いているくらいなら、最後の望みに賭ける方がまだましだ。

「僕たち、『ヘイゼル・アイズ』をもう一回見られると思う?」

 圭が言った。

「分からない。多分無理だと思う。でも、叔父さんがいつまでも悪人扱いされるのは勘弁。事情も知らされずに放っておかれるのもうんざり。それにしても私たち、プレゼントの中身を知りたいだけなのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。付き合わせてごめんね」

「何言ってるんだよ。すごい貴重な経験だった」

 十一時五分前になった。ノック音が聞こえた。スモーク加工が施されたガラスの向こうには、小柄な人物の影があった。私はすぐにドアを開けた。

「急な連絡ごめんなさい。吉村マリアと言います」

「新畑明美です。あの、雅弘さんの姪です」

「雅弘さんから話はかねがね伺っていました。やっぱりよく似てるわね」

「お二人はどういう関係だったんですか?」

 圭が口を挟む。

「雅弘さんは、美術の専門学校の先輩。下宿が同じだったからたまに料理を持っていったの。彼、とても偏食だから見てられなくて。特に卵焼きが好物で、休日はよく料理を教えた。それで変に感謝されちゃってね。卒業してからもたまにメールでやり取りしていた。飲み物取って来るから、ちょっと待っててね」

 勢いよくドアが閉まる。

「当てが外れていないといいけど」

「きっと大丈夫。卵焼きが美味しい人に悪い人はいないんだから」

「え、何それ」

 本気で戸惑っている様子が面白かったので、訳は言わないことにした。吉村さんはすぐに戻ってきた。

「できる限り順を追って説明するわ。先輩は専門学校の中でも異色の存在だった。画力に関してはずば抜けていたし、先生からの評価も高かった。同期の誰よりもたくさん仕事をこなしたの。それこそ私たちの誇りだった。でもこの数十年でイラスト業界は大きく変わったでしょう? CGでの作画は当たり前。アニメーションを受け取る側のニーズも、少しずつ変化した。先輩はそういう変化に馴染めなかったんだと思う。だから『ヘイゼル・アイズ』で一旦創作業に距離を置こうとしたわけ」

 私も圭も何も言うことができなかった。初めて聞くことばかりだった。

「彼の勤め先は決してそれを許さなかった。その頃には、彼とその監督作品は、会社の看板的存在になっていたの。『ヘイゼル・アイズ』でのサブリミナルが発覚するように仕向けたのは、彼自身。そうすれば絶対に仕事を辞めさせられるだろうからって。もちろん何度も止めた。でも、彼の意志はすごく固かった。そうこうしているうちに新薬機法が成立して、望み通りアニメ界から距離を置くことができた」

 ドアの外に人影が見えた。今度は大きい。

「もう少し話を聞いてもらえるかしら。新しいお客さんと一緒に」


 グレーのダウンジャケットが目に入った時、もうだめだ、と思った。私たちはまんまと相手の術中にはまったのだ。

彼は吉村さんの隣に座った。

「安心して。彼はUSBを取り上げたりしない。しかるべきところの手続きが終わり次第、明美ちゃんの元に戻ることになっているの。時間は少しかかってしまうかもしれないけれど」

「都合のいいことをおっしゃいますね。あなたたちがグルだとは思ってもみなかった」

 圭の口調は刺々しい。

「嘘はついていない。一度もね。電話で言ったわよね、答え合わせをしてあげるって。彼、全然経済的に困窮していなかったでしょう? 疑問に思ったことはない? どうして毎回お小遣いを払う余裕があったのか。しかもキャッシュで」

「吉村さん、後のことは私から話します」

 田崎が椅子を詰めた。

「新薬機法の成立は、色々な人に影響を及ぼしました。最も被害を被ったのは暴力団グループ。世界的に違法薬物の規制が進む中、日本での締め付けがますます強まり、覚せい剤等のやり取りが事実上不可能になりました。資金源を失い、多くの団員が路頭に迷うことになったのです。人間の性というのは奇妙なもので、何かが手に入れられなくなったら、『代用』と頭に付けて偽物で間に合わせようとします。代用コーヒーとか、代用砂糖とか。本物とは確実に風味が異なるにも関わらず、だんだんそれらに慣れていくのです。職を失った売人が、雅弘さんに目を付けたのは、あながち荒唐無稽とも言い切れません」

 だんだんと空気が冷えていくように思われた。私の頭の中で、ある一つの予想が出来上がりつつあった。

「雅弘さんの絵は、特にアニメは、コアなファンの中でカルト的人気を誇っていました。熱心なファンは何十回と映画館に通ったと聞きます。通常のアニメよりも多いコマ割りと、緻密で特殊な作画。最後の作品の中盤で演出的に用いられたサブリミナル効果。クラシックとエレクトロニックを融合させた劇中音楽。これらは上手く作用させれば、トランス状態を誘発させることができます。もちろん一般的な作品ではそれほど効果は望めません。ですから彼奴らは新畑さんに何百本ものショートムービーを作らせました。トランス状態を引き起こすことに特化した、中身のない動画です。動画は高値で取引されました。薬剤に依存していた患者や、何かにすがりたいと願う不安定な若者が、彼の作品に依存するようになったのです。この度の新薬機法の改正により、これらの動画は『新型ドラッグ』と認定されました」

「もしかして、アイシングがそれを捌いていたんですか? 僕の家にも来たんです」

「はい。とは言っても、彼らは氷山の一角です。何重もの下請け組織があったと予想されます。彼らは改正のことを聞いて怯えたのでしょう、証拠隠滅を図るために新畑さんへ連絡しました。その後は皆さんも知っての通りです。コンピューターからは多数の新型ドラッグと、取引のチャット記録が見つかりました。関係者は今頃逮捕されているはずです。これからも摘発は続くと思われます。恐らくアイシングは、そのUSBに告発文か何かが入っていると踏んだのでしょうが、勘違いも甚だしい。私は万一の事態に備えて見張りを命じられました。あなた方の安全が確保されたため、吉村さんに協力してもらい、このような場を設けることにしたのです」

 田崎が俯いて肩を震わせた。彼も新畑作品のファンだったのだ。

 誰も何も言わなかった。吉村さんは口を堅く結んでいた。圭は今にも泣きだしそうだった。私はと言えば、叔父さんの姿を思い浮かべていた。かわいそうな叔父さん。面白かった叔父さん。時にどうしようもなく怖かった叔父さん。

「もちろん彼は進んで協力したわけではありません。『言うことを聞かないと、姪に危害を加える』と脅されていたのです」

「明美ちゃん、どうか雅弘さんのことを責めないでほしいの。自分のことも。彼はあなたの前だけでは、優秀なクリエイターでいたかったのよ。そしてひどい罪悪感に苦しめられてもいた。生きて苦しむより、人生に区切りをつけることを選んだの」

「ええ、大体つかめました。叔父さんは本物の犯罪者になってしまったわけですね。それも私のせいで」

 吉村さんが、明美ちゃん、と消え入りそうな声で呟いた。私は時計を見た。間もなく十二時になる。今までで最悪の誕生日だ。

 スマホが震えた。一件の新着メール、と画面に表示される。

 正直、もうプレゼントの中身なんてどうでもよかった。ポケットのUSBキャップを指先でいじる。すっかり癖になっていた。

 タップすると信じられない情報が目に飛び込んできた。発信元が叔父さんのアドレスなのだ。

 私は首を振る。叔父さんはもういない。これはただの時間指定メールだ。

 添付された文書ファイルをタップする。まるで手紙のような体裁の文書が出てきた。実際、これは叔父さんからの最初で最後の手紙だった。

「プレゼントを二つ用意しました。一つ目は叔父さんの監督映画『ヘイゼル・アイズ』です。この作品は個人的にとても気に入っています。楽しんで見てもらえると嬉しいです。二つ目はオリジナルのショートアニメです。どうしても当日に見てほしかったので、最新型のタイム・ロックをかけてもらいました。もう一つの『ヘイゼル・アイズ』として見てもらえれば。これら二つの作品は、俺にとって子供のような存在です。最低な叔父さんだったかもしれません。でも、このアニメに罪はありません。自分で言うのも変だけど、なかなかいい作品だと思っています。気に入ってくれたら嬉しいです。 新畑雅弘」

 叔父さんらしいそっけない文面だった。こんなことなら直接言ってくれればよかったのに、と思う。

「一つ目のファイルは『ヘイゼル・アイズ』。二つ目はオリジナルアニメで、『ヘイゼル・アイズ』の別バージョンらしいです」

 田崎と吉村さんの表情が変わった。圭がパソコンを開いた。

「それ、私も見ていいのかしら」

「もちろん。田崎さんもどうぞ」

 全員が同じ側のソファに移動したせいで、とても窮屈になった。圭が再生ボタンを押すと、画面が真っ黒になる。ここまでは本家と同じだ。

 しばらく無言で待った。タイトルロールの代わりに、文章が浮かび上がってきた。心の中で読み上げる。この話の主人公は、本編よりも平和な世界で生まれたカナコです。

急に画面が切り替わった。

 カナコによく似た女の子が自転車に乗っている。違うのは髪型だけだ。黒髪のベリーショート。私は唾を飲み込む。自転車は市街地を抜け、田んぼの中に出て、再び元の場所に戻ってきた。その間服装はくるくる変わる。違う服に変わるたびに背が伸びていく。

 やがて彼女の服はセーラー服に変わった。私の着ているものと同じだ。自転車は徐々にスピードを上げていく。周りの風景もそれについていく。恐ろしい映像美だ。日が昇り、日が沈む。あまりにも転換が早いため、空は常に深い青色だった。

 カナコは自転車を止める。私の家の前に。そして、ゆっくりと歩き出す。画面の下にテロップが流れる。

 十八歳の一年は、人生で一番貴重な一年なのです。ハッピーバースデー。

 再生が終了した。

 私は圭からUSBを受け取り、田崎に渡した。

「ありがとうございました。もう満足です」

「上の許可が取れ次第、あなたにお返しすることを約束します」

「たとえ新薬機法に違反していても?」

 田崎は首を振る。

「今回の法改正で変わったのは、ドラッグの定義だけではありません。薬物の登場する作品や、中毒患者の作った音楽に対する処遇が緩くなったのです。人はある物事を禁止されればされるほど、それに対する興味が抑えられなくなります。むしろ犯罪を助長してしまうのではないかという意見が出ました。加えて、何をもって違法とするか、という問題があります。動画系のドラッグは、他の化学薬品に比べれば格段に効能が弱いのです。結局は我々と違法組織のいたちごっこになります。そういう訳で、過度な規制が問題視されるようになりました」

「じゃあ、これからも見られるんですか?」

「もちろん時間はかかるでしょう。一つ一つ作品を審査していくわけですから。数か月、あるいは数年。完全な形では戻ってこないかもしれません。それでも許可が下りた暁には、すぐにあなたに連絡します。私も一人のファンとして、その瞬間が来ることを願ってやみません。もう一つの動画は、数日中にあなたにお送りできると思います」

 田崎は一礼して出て行った。

「二人とも送ってあげる。夜遅くに呼び出してごめんなさいね」

「ありがとうございます」

 私はもう一度、自転車に乗るカナコの姿を思い浮かべた。彼女はどこまでも走っていく。ふと目を離してしまえば、一生見失ってしまいそうなくらい速く。

 車に乗り込むと、圭が眠そうに呟いた。

「USBに機密情報は入っていなかった。僕たちは五体満足で家に帰れる。『ヘイゼル・アイズ』のデータも削除されない。どだい僕らは平凡な世界に生きてるってわけだ」

「そう? 言うじゃない、事実は小説より奇なりって。ひとまず待ってみることにする。叔父さんの作品が見られるようになったら、映画制作部主催で上映会を開くの」

「いいね、それ」

 圭はあくびをした。明日は一限から学校だ。

「何だか寂しいなあ。僕も一度くらい新畑さんに会いたかった」

「すぐに会えるわよ」

「どうして?」

「叔父さんは生きてるもの。さっきの動画の中にも、『ヘイゼル・アイズ』の中にも」

 カナコの瞳がきらりと光った瞬間を思い出す。彼女の目と私の目はよく似ている。叔父さんの目も。叔父さんが絵を描いている時の目は、カナコと同じくらい輝いていた。

 将来、叔父さんのような監督になりたい。そう強く思った。

 厳しい道のりかもしれない、でも決して諦めない。叔父さんははるか前を走っている。少しでも距離を離されないように、自転車に乗って追いかけてみようと思う。私は私のつくりたいものを、全力でつくってやる。

 車の窓を開けて、思い切り星空の方へ手を伸ばした。これが私の決意表明だ。(了)

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ヘイゼル・アイズ 荒波一真 @Kazuma_Q

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