CABINET

1103教室最後尾左端

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 スイッチを入れると部屋に明かりがともった。休日だからか、部屋には誰もいない。


 部屋の隅の蛍光灯だけ、ちろちろと不安定に明滅を繰り返している。


 蛍光灯、替えなきゃな。そう思うと同時に、もう替える必要がなくなったことを思い出した。


 自分の席について、キャビネットの引き出しをあける。随分整理は進んだが、まだいくつか書類が残っている。私は几帳面にクリアファイルに分けられている書類を引っ張り出す。机の上のパソコンの電源を付けて、ログイン用のパスワードを打ち込んだ。打ち込むとパスワードの期限が切れていたらしく、新しいパスワードを設定するための画面が現れた。


 変えても使わないのに。私は苦笑しながら今までのパスワードの最後に0を加えただけの文字列を打ち込んでエンターキーを押した。


 年代物のパソコンはのんびりと起動し、暗い画面上には処理中を表す渦巻きマークがくるくると回った。いつもなら立ち上がりの遅さにイライラするけれど、今日は急ぐこともない。思いっきり背もたれに体重を預けると、ギシギシと耳障りな音が椅子から聞こえた。


 パソコンが立ち上がったのを確認し、書類を持って複合機に向かう。複合機に今日限りでその役目を終える私のIDカードを押し付ける。クリアファイルから1枚ずつ紙を取り出してスキャンしていく。紙が詰まってしまうと面倒だから、1枚ずつガラス面においてスタートのボタンを押す。ガーガーとやかましい音が鳴って複合機は次の用紙を要求してくる。私はガラスの端と紙の端をぴったり合わせて、過剰なくらい丁寧にスキャンをすすめた。


 私がこの職場を、なかば強制的に去ることが決まってから今日まで、私の仕事は自分のキャビネットを空にすることだった。キャビネットの中には、大量の規約集やらマニュアルやらが入っていて、自作のモノもあれば、大量の書き込みがされたものもあった。入社してすぐにもらった研修資料や、つい最近改定された社内規約など、私がこの会社に入ってから今までにもらったほとんどすべての書類がこのキャビネットには収まっていた。それを一つ一つPDFとしてデータ化していくことが、私のこの会社での最後の仕事だった。



 新入社員としてこの会社に入った時のことは、今でもよく覚えている。自分にはやりたいこともなく、また突出した取り柄も、語学力も資格もなかった。ただ普通に高校に行き、普通に大学に行った。そして、あまり精力的とは言えない、妥協にあふれた就職活動の結果、私はこの会社の事務職として働くことになった。


 どんな職場でもそうだと思うけれど、新入社員にとって会社の中は知らない国みたいなものだ。知らない用語が飛び交い、知らない文化やルールがあって、何をするにも人に聞かなければ進めない。プリーズとサンキューとソーリーしか言えないまま海外留学しているみたいな感覚。もちろんそれでうまい事乗り切れる人もいるけれど、全員がそういうコミュニケーション能力を持っているわけじゃない。誰かに迷惑をかけることをひどくためらう私のような人間にとって、あの時期の仕事は本当に苦しかった。


 忙しそうにパソコンを叩く、妙に不機嫌な先輩達に声をかけるのは気が引けたけれど、聞かなければさらに迷惑をかけることは目に見えている。意を決して話しかけると、誰もが面倒そうに返事をして、「そんなことも知らないの?」とか「一回教えたでしょ?」と言いたげな(実際に言われたこともある)表情で私を見るのだった。


 電話対応も本当にきつかった。そもそも私は電話が苦手で、あの無機質な着信音が鳴るだけで心臓が縮こまるのを感じていた。声が震え、自分でも何を言っているか分からないような拙い日本語しか出て来なくなる。自分が上手く喋れていないことを自覚すると、さらに焦って早口になったり、吃音症のように言葉が全く出て来なくなってしまったりした。時々かかってくるクレームや、こちらの心がざらつくような不機嫌な声色を聞くたびに、自分のハートがガリガリと削られるような思いをした。


 先輩達はなぜか全く電話に出なかった。明らかに手が空いているにも関わらず、受話器に手をかけようともしなかった。仕方なく私が電話をとり、担当者につなごうとすると、何故かその担当者は面倒くさそうに、まるで私が厄介事を持ち込んだ張本人であるかのようにぞんざいな対応をした。


 担当者がおらず、折り返し電話する旨を伝えると、電話先のお客はまるで私が悪いかのようにわざとらしくため息をつくこともあった。相手の声が聞き取りづらく、もう一度名前や社名を聞き返すだけで信じられないくらいに大声で糾弾されたこともあった。私がお客の質問に答えられずに、呆れたように無言で電話を切られたこともある。


 私はゲシュタルト崩壊を起こすほど、「ゴメンナサイ」と「モウシワケゴザイマセン」を繰り返した。言葉の意味は摩耗していき、同じように私の心も擦り減った。いつも何かにびくびくして、ほんの小さな物音にも飛び上がるようになった。家に帰るとぐったりとして、お風呂にも入らず、化粧も落とさずに眠ってしまうことも度々あり、目を覚ますと朝が来ていることに心の底から絶望した感覚は、まだ鮮明に覚えている。今振り返れば、自分が思い過ごしや気にしすぎがあったとも思うが、当時の私にとって、それを判別することは不可能だった。


 そんな私にとって、マニュアルや規則集は誰にも迷惑をかけずに仕事をするための唯一の拠り所だった。それを読めば、誰かに聞かなくても仕事をすすめられる。電話で何を話せばいいか分かる。絶対に正確で、人伝に聞いた曖昧な知識じゃない。誰かが書き残し、それを軸にして会社が回る。誰が何と言おうと、この規約が正しいと言える。


 同期の一部は、私の様子を見て「マニュアル人間」と揶揄した。仕事は感覚で覚えていくものだと。いちいち規約や規則集に戻るのは効率が悪いと。確かに、作業をするたびにマニュアルを点検する私は誰よりも仕事が遅かった。丁寧と言えば聞こえはいいが、単純に覚えが悪く要領の悪い奴だと思われていたのだろう。


 それでも私はマニュアルに縋った。荒波の中で木片にしがみつくように紙の資料を集め、必死に読み込んだ。研修でもらった資料はもちろん、パソコンの中に眠っていたフォルダや、他の同期は見向きもしなかった分厚い規則集をいつも持ち歩いて、自分の言葉に置き換えるためにメモを取った。先輩や上司から教わったことを書き加えたり、白紙に一から手順を書き出して自分用のチェックリストを作ったりした。


 そうやって必死に集めた資料は、私のキャビネットの中に蓄積されていき、気が付けば私の机のキャビネットは紙の束で埋め尽くされた。キャビネットの引き出しは日に日に重くなり、資料を引っ張り出すのも一苦労になっていったが、その重さに私は安心感を覚えていた。


 キャビネットが一杯になるころには、さすがに私も職場の雰囲気にもなじめるようになっていた。仕事にも慣れ、マニュアルをいちいち見なくても業務を行えるようになり、キャビネットを開く頻度は段々と減っていった。


 年次が上がると、後輩と呼べる社員たちも現れ、私に色々なことを聞いてきた。彼らの不安そうな視線にかつての自分を重ね、少しでも彼らの力になるようにと、私は喜んで蓄積してきた情報をコピーして渡した。私の「マニュアル癖」は社内に広く知れ渡り、規則の確認や、業務規程上に適切な行いかどうかを私に尋ねる同期や先輩もちらほら現れるようになった。かつて私に面倒くさそうな顔をしていた先輩達がややバツの悪そうな顔で私に規約を聞いてくると、自分にもこの会社で居場所があることが実感できてうれしかった。自分が生き残るために、何とかこの会社で生きていくために縋り付いていたキャビネットが、誰かの役に立つ。ほんの少しでも会社の支えになる。それは私にとって、言葉にできないほどの喜びだった。



「いやー。先輩のキャビネットはあれっすね。四次元ポケットですね!」


 調子のいい後輩にはそんなことを言われた。私とは真逆の、誰とでも仲良く話すことができる。人懐っこい笑顔が印象的な子だった。


「え、どういうこと? 引き出しだったらタイムマシンじゃない?」


「いや、まあそうなんすけど……。だってなんでも入ってるじゃないですか。どんなにマニアックなこと聞いてもちゃんと答え分かる資料持ってて、説明してくれるし。この会社のことならなんでも知ってるんじゃないですか?」


「なんでもってことはないよ。むしろごめんね? 私の書き込みだらけの資料とか挙げちゃって」


「いやいや、この書き込みのおかげでわかりやすくなってますから! なんで社内の規約ってこんなかたっ苦しい言葉で書いてあるんですかねぇ」


「あはは。私も最初は全然分からなかったよ」


「そうっすよね~。……ねえ先輩?」


 後輩の子は少しだけまじめな顔になった。妙にまっすぐで、どこか私を哀れんでいるような表情だった。


「悔しく、悔しくはないんすか? 自分が作ったマニュアルとか、自分が解読した規約とかを、誰かにタダでくれてやるって」


「……どういうこと?」


 私が聞き返すと、その後輩は自分の頬をポリポリと掻きながら続けた。




――俺、こう見えて中学の頃とかちょっといじめられてたんすよ。クラスの有力者? みたいな奴がいて。イケメンで、勉強できて、スポーツ出来て……みたいなありきたりな奴です。そいつに裏でカツアゲされたり、何の意味もなく殴られたりシカトされたり。で、ある時からそいつの分の授業のノートも取るように命令されてたんです。


 ま、昔の話っすから。でもその時俺、めちゃくちゃムカついたんですよ。だから、わざと間違ったノート取るようにしたんです。自分用の正しいノートと、わざと間違えたノート。公式のプラスとマイナス逆にしたり、年号間違えて書いたりとかして。


 気持ちよかったっすよ。これでアイツのテストはボロボロだって、ほくそ笑むことができた。いくら殴られようが、無視されようが、アイツの気づかない時限爆弾を用意してやったって事実が、俺を支えてくれたんです。でも……。



 俺が間違ったノート渡し始めて最初の定期テストで、そいつ学年一位とったんです。



 信じられなかったですよ。アイツ。俺のノートなんてあてにしてなかったんです。勉強はほとんど塾でしてて、学校の勉強は遊びみたいなもんだったみたいで……授業でどの範囲やってるか確認するのと、提出して内申点稼ぐためだけに俺にノート

書かせてたんですよ。


 俺がわざと間違えたことにも気づいてて、鼻で笑ってましたよ。こんなことしてもなんも意味ねえって。間違ったノートが自己主張だなんて虚しくないかって。俺、聞いたんですよ。どうしてこんなことさせたんだって。自分でもできる事、なんで俺にやらせたんだって……そしたらそいつなんて言ったと思います?


 『分業』だって言ってましたよ。自分みたいな優秀な人間が時間を割いてしょうもない学校の授業を受けるのは人類の損失だって。つまんないことはつまんない奴にやらせるのが効率的だろって。俺、何にも言い返せなくて……高校ではそいつと別れたんですけど、ずっとずっとアイツの言ってたこと忘れられないんすよ。


 先輩見てると、そん時の俺のことちょっと思い出すんです。自分が必死こいて作ったマニュアルとかそういうの、皆に普通にあげちゃうじゃないですか。後輩にも、同期にも、下手すると上司にも。それっていいように使われてるんじゃないですか? みんな自分で調べりゃ分かる事先輩に聞いて、楽してるんじゃないですか? それ見て、悔しくないんですか?―—




「……すいません。何かめっちゃ失礼なこと言っちゃって」


 一通り話し終えたその後輩は、話しすぎたと思ったのか、申し訳なさそうに口を拭った。彼がどんな思いでこの話をしてくれたかは定かではないけれど、私を思いやってくれたのだろうことは伝わった。


「ううん。色々心配してくれたんだね……」


「心配っていうか……なんていうか。悔しくないんですか? ってだけっすよ」


「大丈夫。悔しくないよ。自分の覚えてきたこととか、集めてきた情報が誰かの役に立つって言うのは、結構嬉しいものだよ。あー私、ここにいていいんだ―って思えるっていうかさ」


 私がそう言うと、後輩はじっと私の目を見た。いつもの人懐っこい笑顔からは程遠い、何か哀れむような瞳だった。


「……そうっすか」


「うん。自分が今まで頑張ってきたことが、会社に認められた、っていうか必要とされているっていうか……それって働く喜びって言えるんじゃないかな?」


 私がそう言ったとたん、後輩は大きく目を見開いて、涙でも流しそうな程に悲し気な顔つきになった。そして、深く、暗然や諦観を含んだため息をついた。そしてもう一度「そうっすか」とそっけなく言った。それからその後輩はあまり私に質問しなくなった。



「え……それは、本当ですか?」


「……分かってくれ。私にとっても苦しい決断なんだ」


 入社以来入ったことが無かった社長室に呼び出され、自主退職をすすめられた時、同じ日本語のはずなのに、社長が何を言っているか分からなかった。


「今回の騒ぎで、わが社の経営は困難に立たされている。これからは経営規模を縮小しなければ生き残れない。申し訳ないが、人員削減は避けられないんだ」


「で、でも。どうして私なんですか?」


「……こんなことは言いたくないが、君にはわが社にとって有益な資格もない。特別仕事が早いわけでも、特殊な事務ができるわけでもない。言ってしまえば誰もができるルーティーンワークが仕事の大部分を占めている」


「……それはそうですが……でも、私が一番この会社の規則とか、仕事のマニュアルとか理解して……」


 最初は哀れみを含んでいた社長の態度が、徐々に面倒くささを帯びていく。「もう終わった話だからいいじゃないか」とでも言いたげな、けだるさや苛立ちの雰囲気が身体から放たれる。反射的に「モウシワケゴザイマセン」と言いたくなったが、それを言ったら終わってしまう。舌を噛むようにグッとこらえて社長の言葉を待った。


「確かに、君はこの会社の社則や業務規程を読み込んでいる。マニュアルやチェックリストを自主的に作るなど、そう言った取り組みは、私の耳にも届いているよ。本当によくやってくれた」


「だったら……」


「でもな。それはもういいんだ。わが社は今後、そのあたりの規約を電子化することにしたんだよ」


「……電子化?」


「ああ、規約集やマニュアルを一括で検索できるようなプログラムを発注した。AIチャットを利用して、自分の知りたい情報にすぐにアクセスできる仕組みも導入予定だ。君が今までやっていたようなことは、もう全部機械で代用できるようになったんだ」


「そんな……」


 絶句する私に対し、社長は首の筋を伸ばすように頭を右に倒しながら言った。


「そもそも情報なんてものはね。多くの人間に開かれているべきなんだ。君だけが知っているとか、君に聞かなければ分からないという状況自体が不健全なのだよ。情報なんてものは正確性が担保されていれば誰のものであるかは関係ない。この会社の情報を誰よりも持っている、なんて言うのは、何のウリにもならないのだよ。残念ながら」


 社長は全く残念に思っていないようだ。私の後ろの扉に焦点があっている。今度は頭を左に倒して、さっきまでと逆の首筋を伸ばした。


 私は何も言うことができず。パクパクと口をあけたり閉じたりすることしかできなかった。一年目にやった電話対応を思い出す。何を話していいか分からないけれど、何かを話さなければならない。頭と身体が逆の動きをすることで、自分でも訳が分からなくなる。喉が震えるのを感じる。私は何かを喋ったらしい。「ゴメンナサイ」だろうか。「モウシワケゴザイマセン」だろうか。それ以外の言葉だろうか。何にせよ、私の喉から出たその音を聞いて、社長は満足そうにうなずいた。


「まあ、君はそれなりに若い。次の仕事もすぐに見つかるだろう。次の職場は私も探してみよう。なに、君ほど真面目な人間なら、どんな会社でも採用してくれるよ」


 お辞儀なのか、ただ項垂れただけなのか分からない背骨のゆがみを感じて、私は社長室を出た。部屋を出る私の背中越しに社長の声が聞こえた。


「ああ、そうそう。君が作ったり集めたりしたマニュアル類だがね。せっかくだから、PDFか何かにして保存しておいてくれないか? AIチャットシステムが完成するまでのつなぎとして是非活用させて欲しい。何せ紙の資料だと場所をとって仕方がないからね」



 それから退職まで、私は溜まった有休を消化した。時々出社したときは、社長に言われた通り自分のキャビネットに入った大量の資料を複合機を通してデータ化する作業をした。長い時間複合機を占領して申し訳ないとは思ったが、誰も何も言ってこなかった。


 社長の思い通りにするのは嫌だったが、他にすることもなかったし、何よりせっかく作った自分の資料がそのままゴミになってしまうのはあまりにも虚しかった。せめて誰かの役に立てば、と思えるほどの心の余裕はなかった。が、何も考えずにスキャンを続けている間は少しだけ心が休まる感じがした。


 ふと視線を感じて振り返ると、あの後輩がこっちを見ていた。私の処遇は社内にある程度知れ渡っているらしい。彼はあの時話したのと同じように哀れむような目で私を見ていた。


「悔しくないんですか?」


 そう、問いかけているように見えた。でも、私に悔しさを感じる生命力みたいなものはもうなかった。視線を合わせないように会釈をすると、後輩はそそくさと視界から消えた。



 複合機が不健康な光を発しながら最後の一枚をスキャンし終わった。私は資料を全部クリアファイルに戻して「スキャン済み」と書いた付箋を貼った。


 自分の席に戻り、パソコンを操作して正しくデータが送られているかを確認する。その後、画像ファイルの名前を資料の名前に書き替え、「引継ぎ」と書かれたフォルダに放りこんだ。クリアファイルに入っていた書類を全部廃棄文書用のゴミ箱に捨てると、とうとう私のデスクはキャビネットとパソコンだけになった。


 今まで私が作って来たもの、つい先ほどまで「私のもの」だった情報を共有フォルダに移すと、驚くほどあっけなく私がこの会社にいた理由は消えた。


 そして、それはすぐに別のシステムに置き換わる。私の手書きの資料なんかよりもよっぽど見やすくて、正確で、便利なシステムがどんどん作られる。それはきっといいことで、これからもどんどん進むだろう。


 私にはもっとすべきことがあったのかもしれない。他の皆みたいに、情報を集めるんじゃなくて、規則にしがみつくんじゃなくて、マニュアルを作るんじゃなくて、もっと別のこと。


「情報なんてものは、正確性が担保されるなら誰のものであるかは関係ない」


 社長の言葉が正しいのなら、この世にはどれほどの仕事が残るのだろう。どれほどの人間が退場しなければならないのだろう。


 後輩の言葉を思い出す。


「悔しくないんですか?」


 そう言った彼の言葉の意味が少しだけ分かった気がした。


 キャビネットの引き出しに手をかける。中身のないキャビネットは驚くほどすんなり、ほんの少しの力で勢いよく開いた。空っぽになった金属の空洞は、驚くほど今の私に似ていた。そっと足を入れてみる。前屈の要領で両手も突っ込んでみる。そのまま空洞の中に全身を入れてみようとしてみた。が、どうやっても入りきらなかった。


 あきらめて両手と両足を引き出しの外に出す。何をやってるんだろう、とため息をつき、引き出しを閉じた。


 やることは全部終わった。私はパソコンの電源を落とし、立ち上がった。


 そして席を離れる前に、もう一度だけキャビネットの引き出しに手をかけた。


 思い切り引き出しを引く。ガシャンと大きな音がした。



 引き出しの中身は、もちろん四次元につながっていなかったし、未来とも過去ともつながっていない。


 ただただ金属の板が、私の歪んだ影を反射しているだけだった。

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