落涙の行方


 第二妃が自宮で毒をあおった、との知らせが王女の耳に届いたのは、動乱の内に幕を閉じた催涙祭さいるいさいから、じきふた月が過ぎようという頃だった。

 ある朝、侍女が起床を促しにねやを訪ねたときには、既に事切れていたらしい。

 寝台には死の直前まで苦しみのたうち回った形跡と、かえるほどの血痕が残されていたそうだ。彼女がそうまでして自死を選んだのは、催涙祭からひと月余りの間に、皇帝が皇宮に仕えていた料理人と給仕人、そして毒味役の首をひとり残らずねてしまったためだろうと人は言う。


 そのような事態を招いたという自責の念を背負い切れず──あるいは次に首を飛ばされるのは自分だという極度の恐れから、とても正気ではおれなかったのだろうと。いや、もしくは皇帝が最後の慈悲として、自ら毒を呷れば親兄弟までは殺さずにおいてやる、と第二妃を脅迫したのではないかという者もいる。それらのうちのどこまでが真実で、どこまでが尾鰭おひれのついた人の業なのか、王女は知らない。


 さらに言えばあの日、自らを毒殺しようとした犯人が、本当に第二妃であったのかどうかさえ。


「あるいは真の首謀者が、口封じのために第二妃を殺害したという線もまだ消えてはいないがな」


 と、その日、事前の触れもなく紫蘭宮を訪ねてきた皇帝はそう言った。


「まあ、どちらにせよ、あの女が例の騒動に一枚噛んでいたことは間違いない。少なくともまったくの無実でありながら、何者かに濡れ衣を着せられ殺された、ということはないはずだ」


 夜のとばりが降りてからのことではない。

 盛夏の太陽が燦々さんさんと輝く、ある真昼のことである。

 いつものように表情を変えず、執務席に端座した王女の眼前には今、略式の執務服に身を包んだ皇帝が長い脚を組んだ姿勢で座っていた。

 椅子の脇息にひじをつき、白絹の手套しゅとうめられた指先でとんとんと額を叩いているさまは、彼が未だ深い思案の底にいる合図だ。


 皇室に嫁いで半年ともなれば、自らの夫でもある男が物思いにふけるときの癖なども、王女はしっかりと記憶するようになっていた。ゆえに今は余計な口を挟むまいと、退出した侍女たちがれていった紅茶にそっと唇を寄せる。

 人払いがなされた執務室に残っているのは、宮の主たる王女と皇帝のふたりだけだった。いよいよ乾季を迎えた窓の外はよく晴れて、格子の狭間から斜めに注ぐ陽光が、床を飾る絨毯じゅうたんや美しい紫蘭が描かれた陶板の壁を陽だまり色に洗っている。


「よって今後も秘密裏に調査は続行するつもりだが、おまえはどう思う?」

「どう、とは」

「おまえを殺めようとしたのは本当に第二妃だと思っているか?」

「……亡き第二妃殿下が、小国の出身でありながら妃となった私を快くお思いでなかったことは存じ上げておりますが、それ以上のことは何とも申し上げようがありません。ただ、仮に第二妃殿下が此度こたびの件の主犯であったのだとしても……かように不名誉な死を遂げられてよいお方であったとは思いません」

「なぜだ? あの女はくだらない私怨のために、帝国の君主たるこの俺の妻のひとりを手にかけようとしたのだぞ。つまり立派な反逆罪だ。本来であれば一族郎党末代まで皆殺しにされて然るべき罪を犯したのだから、どう足掻いたところで不名誉な死は避けられなかったと思うがな」

「そうであったとしても……私ごときのために死を選ぶべきお方ではなかったと、そう思います。第二妃殿下のご実家は海上の要衝ようしょうやくする名家であり、帝国の制海権や貿易における重要な役割を担っておいでだったのですから」

「その言い草は、まるでおまえを生かしておいたところで何の益もないと言っているように聞こえるが?」

「事実でございましょう。私が妃となることで陛下が得られるのは、さしたる武力も国力も持たぬ蝶の国の恭順のみです。第二妃殿下の家門がもたらす実利に比べれば、あまりにもささやかで国益と呼ぶのもはばかられます。無論、いずれ陛下が大陸統一を成し遂げられる際に、白鯨はくげい山脈を安全に迂回するためには、我が国の領土を通過する必要があることは承知しておりますが……」


 帝国軍を西へ向かわせるための道として蝶の国の領土が必要ならば、武力でもって奪い取ってしまえば済むこと。そして力づくによる制圧は今、栴檀せんだんの木から削り出された執務机の向こうで踏ん反り返っている男が最も得意とするところであり、ならばわざわざ己を人質とする必要性が薄いことを王女はとうに理解していた。


 であるがゆえに、だ。王女は第二妃の軽挙を悔やまずにはいられない。生きていようが死んでいようが大して変わらない女ひとりのために、帝国の一翼を担う家門が滅び、無関係の人々まで巻き込むほどの大罪に手を染めてしまうだなんて。

 何せ王女は知っているのだ。自らが皇后になれる器にないことも、仮に皇后に選ばれたとて、それは遠からず訪れる皇帝の死を意味することも。

 ゆえに第二妃の死はあまりに無益だった。


 ──なぜ、私のような者のために。


 ふた月前、自らの代わりに無辜むこなる聖鳥とりが犠牲となったあの日から。

 王女の中にはずっとそうした妄念が渦巻き、今も胸裏に暗い影を落としていた。

 無論、王女とてかの高慢な妃の存在を快く思っていたわけではない。

 されど真に死すべきは、帝国に仇為すためにやってきた己ではなかったのか。

 その使命すら果たせずに、生きる意味を失いつつある己ではなかったのか。


 思えば皇帝がこうして紫蘭宮を訪ねてきたのも、実に三月みつきぶりのことだった。

 皇太后の前で決定的な失言をして以来、王女は一度も皇帝に抱かれていない。

 心身を蝕んでいたむしの毒も癒え、催涙祭以来公務に復帰したという皇帝は、すっかりもとの頑健な肉体を取り戻しているように見えた。

 だというのに皇帝は一度も紫蘭宮へ通ってこない。

 今日の訪問もあくまで執務上の理由によるものであり、皇帝に王女とむつう意思がないことは、かっちりと着こなされた執務服が如実に物語っていた。


 ということは今は毎晩、他の妃のもとへ通っているのだろうか。

 そんな思考が意識の縁を掠め、王女は知らずまぶたを伏せる。

 やはり蟲の毒が抜けたことで、皇帝は夢から覚めたのだろうか。

 あれがおぞましき蟲によってもたらされていたまやかしの快楽であったことに、彼は気づいてしまったのだろうか。考えれば考えるほど膨らむ不安に息が詰まり、王女は膝の上で重ねた繊手を握り締めた。


 できることならこの心の揺らぎを見透かされる前に、獅子にはここを去ってほしい。本当に使命を果たす意思があるのなら今一度皇帝の寵愛を得られるよう振る舞い、再び蟲の毒による籠絡ろうらくを試みるべきなのだろうが、そうできるだけの自信が王女にはもはやなかった。なぜならたまらなく恐ろしいのだ。やはり卑小の身には過ぎたる使命であったと思い知ることも、己の正体と真実を暴かれることも──そして何より自らの存在や行いによって、これ以上誰かが命を落とすことも。


「おまえが気に病むことではない」


 ところがほどなく響いた獅子の声に、王女はわずか肩を震わせた。


「此度の件は、俺が女どもの愚かさを顧慮することを怠ったのが原因だ。後宮にまで政治を持ち込まねばならんことに、近頃んでいたのでな。だがもう二度と同じ過ちを繰り返すわけにはゆかぬ。後宮が乱れることで、おまえが余計な危険や自責の念にさいなまれるのならなおさらだ」

「……陛下、」

「そういうわけで、俺はしばらく別の妃のもとへ通う。子のひとりやふたりはらませれば、の関心もそちらへ向くことだろう。後継者を作るのは后となる者が定まってからでよいというのが長年の持論だったが、状況が変わった。蛇蠍だかつは蛇蠍同士、食い合わせるのが一番だからな」


 赤い瞳の奥に獰猛どうもうな光を宿し、若き獅子は不敵に笑んだ。

 見つめられた王女は身が竦み、何と言葉を返してよいやら分からなくなる。

 ──皇帝が紫蘭宮を離れる。それは王女が最も恐れていた事態であり、引き留めねばならぬ、とはらの底で本能むしが警告していた。ここで彼をつなぎ止めることあたわねば、今度こそ望みが潰えるかもしれない。されど王女は戸惑った。


 皇帝はなぜ、その事実をわざわざ王女の前で告げたのだろうか。


 本来皇妃とは皇帝の妻であり、妻であるからには五人のうちの誰のもとへ通おうとも夫たる者の自由である。だのに皇帝はまるで事前の断りを入れるかのように、当面のあいだ紫蘭宮には通わないと宣言した。王女にはその理由が分からない。

 ただ、彼の言い草はまるで、他の妃たちを敵と見なしたかのようではないか。

 皇帝が後宮に渦巻く女の策謀を嫌っていることは知っていたが、しかし、


「今日はそれを伝えにきた。おまえが妙な気を起こすとは考え難いが、誤解を招くのは本意ではないのでな。すべてはほとぼりが冷めるまでのこと、ゆえに余計な気を揉む必要はない。おまえはひとまず、これ以上他の女どもの勘気かんきを被らないよう気をつけていろ」

「は……はい。陛下の仰せとあれば……」

「しかし、本当に体の方は何ともないのだな? 調査に当たった者がおまえもあの日、聖鳥と同じ毒を食した可能性が高いと言っていたが、あれから何か変調は」

「い、いいえ……ご覧のとおり、特に大事なく過ごせております。白禽はっきんに与えたものと同じ品を口にしながら、私だけが毒に当たらずに済んだのは、真に僥倖ぎょうこうとしか申せませんが……」

「そうか。ならばよいが……やはり母上のおっしゃっていたとおり、おまえもまた不死蝶ふしちょうに守られているのやもしれんな」

「不死蝶……でございますか?」

「ああ。でなければ偶然毒を避けて肉を食べた、などという奇跡は起こるまい。俺の神は金獅子のみだが、今だけはおまえの国の神にも感謝せねばな」


 そう言って細められた赤眼と視線が絡み合うや否や、王女は思わずぱっと顔を伏せた。なぜそうしなければならないと思ったのかは自分でも分からない。

 されど今まで感じたことのない胸の高なりに、王女はぎゅうと胸を押さえた。

 ──違う。毒を食して助かったのは蟲のおかげだ。代々蟲に選ばれし姫は、赤子の頃から毒に馴らされて育つがゆえに、あらゆる毒を受けつけないと聞いていた。


 つまりいかなる者も毒によって王女を殺めることはできないということだ。

 されど皇帝は自らを金獅子に選ばれし者だと自負するあまり、王女もまた同じように不死蝶の加護を受けているのではと信じ始めている。

 だが違う。これは神なる蝶の加護などではなく、呪いだ。

 ともすれば目の前の男を食い殺すやもしれぬ、まがつ蟲の──


「では、用が済んだので俺は戻る。俺が来ない間、不自由することがあれば母上の宮へ使いを送れ。きっと力になって下さるだろう」

「へ、陛下」

「政務上の問題は俺に振って構わんが、あまり頻繁にはするな。暇人の多い後宮には、たったそれだけのことであらぬ勘繰りをする輩がいるのでな」


 そう吐き捨てた声の下から、皇帝はすっくと席を立ち身をひるがえした。

 今も政務が立て込んでいるのだろう、扉へ向かって歩き出した背中は優雅でありながら、いささか気が急いているようにも見える。

 ならば引き止めてはなるまい。そう思った。確かにそう思った、はずが、


「陛下……!」


 皇帝の手が扉の把手はしゅにかかった刹那、王女は思わず駆け寄って、金の獅子が描かれた外套ペリースの端を掴んでいた。

 振り向いた皇帝の眼差しが、珍しく驚きをあらわにしている。

 その赤眼に映り込む自身の顔を見て、王女もまた驚いた。

 なぜなら皇帝を引き止めようなどとは、わずかにも思っていなかったから。


「どうした?」

「い……いえ、あの……」


 だというのになぜ、突然彼の背にすがったりしたのだろう。

 王女は慌てて皇帝の召し物から手を放し、足もとに視線をわせた。

 まったく理解不能な己の所業に惑いながらも、懸命に釈明の言葉を探す。


「お……お引き止めして申し訳ございません。ただ……どうかくれぐれもご無理はなさいませんようにと、お伝え申し上げたく……」

「……おい」


 瞬間、うつむいた王女の頭の上から低い声が降ってきた。

 呼ばれているのだと気づき、顔を上げれば、途端に顎を掴まれる。

 はっと息を飲む間もなかった。すぐさま互いの唇が重なり、呼吸が止まる。

 とっさに後ずさろうとしたところで、にわかに腰を抱き寄せられた。

 貪るような接吻せっぷんに吐息が弾む。そうしてしばし舌を絡め合ったのち、ようよう獅子が牙を引き、腕の中の女を見下ろした。


「……おまえから誘ってくるとは珍しいな。どういう風の吹き回しだ?」

「い……いえ、そんなつもりは……私は、ただ……」

「おまえにその気がなくとも、このように縋られては離れ難い。そこまで俺が恋しかったか?」

「ち……違います、私は……」

「相変わらず嘘が下手な女だ。だが許せ。今、おまえを抱けばまた歯止めが効かなくなる。俺はそれが恐ろしいのだ。ゆえに今はこれで辛抱しろ」


 言うが早いか皇帝は狼狽ろうばいする王女のせなに手を回し、割れ物のごとく抱き寄せた。

 閨ではいつも荒々しい抱擁ばかりであったかの獅子に、このように触れられたのは初めてのことである。


「へ、陛下──」

「聞け」


 惑うばかりの王女の耳に、低い皇帝の声がかかった。しかし王女は重なり合った胸の内から、早鐘を打つ心音を聞かれるのではないかと気が気でない。


「……明言するのはまだ先になると思っていたのだがな。ひとつ訊くが、おまえの祖国では王もまた、妻は生涯ただひとりと定められているそうだな?」

「は……はい……確かに我が国では王族でも例外なく、ひとりの夫にはひとりの妻と、法によって定められておりますが……」

「俺は近い将来、同じ法を帝国にも持ち込もうと考えている。俺の母もまた、先帝のつまとなるまでに数多あまたの辛酸を舐めさせられたのでな。後宮でのくだらん内輪揉めを失くすには、初めから皇帝の伴侶はひとりだけと法で縛ってしまえばよい。先人は金と女こそが皇帝の威光を世に知らしめると信じたようだが、そんなもののために同じ国の臣が殺し合うなど、馬鹿馬鹿しいにも程があるからな」

「……! へ、陛下……それは、つまり……」

「ああ。俺の伴侶もひとりでよい。ゆくゆくは後宮から不要な女を追い出し、妻は皇后ただひとりとするつもりだ。そしてそのとき俺の隣にいる者は、おまえであってほしい、と思っている」


 耳もとで告げられた獅子の言葉に、息が止まった。

 おこりのごとく震え始めた王女の背から、皇帝の手が離れる。

 次に顔を覗き込まれたとき、王女の白皙はくせきの頬は濡れていた。

 なぜこれほど涙が溢れるのか、王女自身にも分からない。

 悲しいのだろうか。恐ろしいのだろうか。否、あるいは、


「おい。なぜ泣く」

「も……申し訳、ございません……」

「別に謝れと言ったわけではない。泣くほど俺のつまとなるのが嫌か?」

「い、いえ……滅相もございません。ですが、どうして……どうして陛下は、私のような者を……」

「羨ましい、と言っただろう」

「え……?」

「以前おまえは俺を羨ましいと言った。自らの力で未来を切り拓いていくさまがまぶしいと。だがおまえにもまた、自らの行いによって自らの未来を掴む力がある。己の価値を知らぬおまえに、それを示してやりたいと思ってな」

「私にも……陛下と同じ力が……?」


 そんなわけがなかった。今、再び唇が触れそうな距離から見つめる獅子と王女の間には、どう足掻こうとも埋められない隔たりがある。

 富も、武力も、名誉さえも、すべてが手の中にある皇帝とは違い、王女には何もない。唯一確かに持っていると言えるのは、幼い頃から友のように寄り添ってきた虚無と諦念、そして目の前の獅子を殺す毒だけだ。されど皇帝は、


「おまえは気づいていないようだがな。少なくとも俺はおまえの言葉や仕草に幾度も心動かされた。富や権力には毛ほどの興味も示さんばかりか、常に飾らず、おごらず、偽らず、ありのままの姿であろうとするおまえにな。そしてそれは他でもない、おまえがおまえ自身の手で未来をあざなったという証だ。そうは思わんか?」

「わ……分かりません、私には……」

「ならばいずれ分からせてやる。ゆえに今は俺を信じて待て。必ず迎えに来る。もう二度と、おまえがひとりで苦しむことのないように」


 太陽に愛された黄金が、王女の瞳の中で輝きを増した。おかげで王女は目を開けていられない。あまりにもまぶしくて、網膜がけてしまいそうだ。

 ゆえに顔を覆った王女の肩を、獅子のかいなが再び抱いた。

 されど王女は知らなかった。先刻皇帝が手をかけた扉──そのわずか開いた隙間の先に、青白い顔をした侍女がひとり、幽鬼のごとく佇んでいたことを。

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