虫喰まれゆくもの
今からおよそ五六〇年前、神なる獅子に見初められた初代皇帝が大陸に覇を唱え、金獅子帝国の建国を宣言した日を讃える祭事である。
三日三晩夜を徹し、国を挙げて行われるこの盛大な祝祭には、帝国全土のみならず、多くの従属国からも祝いの使者が駆けつけるのが常だった。
そして
彼女が頭を垂れた先で
年明けに帝国の地で別れて以来、数ヶ月ぶりに再会した兄は、相も変わらず凍てついた氷の大地を思わせる
帝国最大の祝祭に浮かれ騒ぐ人々の様子に鼻白んでいるのか、険のある面持ちである。次兄は幼い頃からいつもそうだ、と一抹の緊張が背筋を濡らすのを感じながら、王女は床に目を凝らし重圧に耐えていた。何をしていても退屈そうで、世のすべてを嫌悪という名の高みから
顔を会わせずにいた月日の分だけ、沈黙が重い。
王女はもともと彼と言葉を交わすのが苦手だったが、身も心も離れて過ごすうち、何と声をかけ合うのが兄妹として適当であるのかも分からなくなっていた。
そうした妹のありさまに呆れたか、はたまた苛立ったのか、聞こえよがしの嘆息が響く。その音色に王女がわずか震えたのを
帝国の圧倒的な富と豊かさを見せつける室内に居合わせているのはこの兄妹と、王子の警固のため祖国から付き従ってきたふたりの護衛騎士のみである。
「久しぶりだな、皇妃殿下。見たところ変わりなさそうだが」
「はい。おかげさまで息災に過ごしております。お父様やお兄様もご健勝で?」
「私は至って健康だ。が、近頃兄上だけでなく、父上もお体の具合が優れんようでな。さすがにお歳には勝てぬご様子、ゆえに
「……お心遣い、痛み入ります。ですがお父様の体調が優れないというのは気がかりですね。私が国を離れる前も、お母様を亡くした心痛と国内の情勢不安で、だいぶお
「おまえも人並みに父親の心配をするのだな。だが父上のお心を最も煩わせているものが何であるかは、おまえが一番よく分かっているはずだ」
抑揚に乏しい王子の言葉は、
が、対面に座した王女がうつむき答えに迷っていると、不意に王子が軽く手を挙げる。合図を受けた騎士のひとりが兄妹の前に銀の杯を並べ、
いつか王女が血のようだと感じた、不吉なほど赤い葡萄酒だった。
「皇帝陛下は息災なようだが」
と、その杯を早速手に取り王子は言う。
「首尾の方はどうなっている? 吉報はまだ届かぬのかと、父上が大層気を揉んでおられるぞ」
「……申し訳ございません」
そう声を絞り出す喉が震えそうになるのを、王女は懸命にこらえた。
少なくとも今、王子の背後に控える騎士は、蝶の国の王室に伝わる〝
ゆえに彼らの耳にはきっと、王子の言は懐妊の兆候を尋ねる問いに聞こえているのだろう。無論、兄の真意は皇帝の息の根は一体いつ止まるのかという一問にあるのだが、王女は何も知らぬ騎士たちに怪しまれぬよう──そして何より兄に疑念を抱かれぬよう、慎重に言葉を選んで言った。
「既にお兄様のお耳にも届いていることかと思いますが……このところ陛下のお渡りが絶えて久しく、吉報をお届けできるのはもうしばらく先のことになるかと存じます。陛下には陛下のご
「ふん。嫁いだ当初は、皇后の最有力候補である第一妃をも
「いいえ。例の事件は、その……私の代わりに毒を喰らった聖鳥のおかげで、未遂に済みましたので。むしろ陛下はあの事件を皮切りに……後宮でのご自身の身の振り方を、再考されたご様子でございます」
「ほう。つまり陛下の寵愛が絶えたのは、皇妃同士の
「そう
「仮にそれが事実だとすれば、今後おまえが務めを果たすのはなおさら困難になりそうなものだが。おまえが陛下の寵愛をつなぎ止めておけなければどうなるか、分かっているのだろうな?」
「……はい。無論、承知しております」
「ならばよりいっそう君寵を
「……」
「どうした。浮かぬ顔だな。まさかとは思うが、自分さえ生き延びられれば祖国がどうなろうと構わぬなどと、愚かな考えを抱いているのではなかろうな?」
「……とんでもございません。私は今日まで、祖国の盾となるために生かされてきた身なのですから……与えられた使命は、何としてもまっとうしなければ」
「そうだ。王族たる者、祖国を守るという使命すら果たせぬようでは、もはや生きている価値もない。私もいずれ祖国を支えるひとりとして、そう肝に銘じている。おまえも蝶の国の姫ならば、全身全霊をもって王族としての務めを果たせ」
「……はい。お言葉……胸に、刻ませていただきます」
そう答える傍らで、王女は自身の左手が、膝の上で右手をきつく握り締め、震えていることに気づかなかった。生きている価値もない。たった今、兄の口から放たれた言葉が劇毒のごとく全身を駆け巡り、王女の心を
若き金獅子は言った。おまえはおまえの価値を知らない、と。されど王女は。
王女は──
「まあ、いい。私も今日から数日間、帝国に滞在する。兄妹で言葉を交わす機会はいくらでもあるだろう。それより今は、おまえの侍女と話がしたい。悪いがしばし貸してもらえるか」
「侍女を……でございますか?」
「ああ。郷里で帰りを待つ一族の者たちから、伝言と
「……左様でございましたか。では侍女には夕刻までの
「分かった、伝えよう」
兄が
否、違う。王女は逃げ出したかったのだ。
何もかもすべてを見透かしているような兄の眼差しから。
そして、己が心を惑わす憂苦という名の
*****
「……そうか。やはり愚妹には荷が重かったようだな」
と、人払いがなされた部屋で、独白のように王子は呟いた。
館の中にいても伝わる
金獅子帝国の名に
つい半刻前まで妹が座していた席に座る女は、終始青白い顔を伏せたまま震えている。相変わらず気が小さく臆病な女だ。
まあ、だからこそ王子はこれは使えると、彼女を妹の侍女に推したのだが。
「だが皇帝がそこまで妹に入れ込んでいたとは想定外だ。まさか王族の生まれであるという以外、何の取り柄もない女を皇后に選ぶとはな……」
身を竦めて震えることしかできない侍女を余所に、王子の独白は続く。
蝶の国の姫が金獅子帝国の国母となることは、一見祖国の悲願が最善の形で叶う未来のように思えるが、一概にそうとは言えない危険を
なぜなら王女が帝国の実権を握れば、その段になって心変わりを起こさないとも限らない。仮に皇帝の理想が実現し、金獅子帝国にもまた一夫一婦制が導入されれば、あの男が蟲の毒に当たって死ぬのはもはや時間の問題だった。
さすれば帝国の覇権はすべて妹の手中に収まってしまう。
それを蝶の国の一族が裏から思いのまま操ることができたなら、途方もない力を手に入れられることは事実。されど祖国に何の未練も愛着もない王女が、果たして大人しく
何しろ大陸の歴史を
されどそうしなかったということは、やはり妹も一抹の野望を胸に秘め始めているという証左ではないか。ここで王女の翻意を許せば、祖国に待つのは破滅のみ。
しかしそのような未来は到底受け入れ難い──長い長い
「……こんなこともあろうかと、備えに万全を期していたのが幸いしたな。愚妹はどうやら祖国を捨てる道を選んだようだ。であれば私も次期国王として、何としても国を死守せねばなるまい」
「えっ……ひ……姫様が、蝶の国を敵国にお売りになるとおっしゃるのですか? い、いくら望まぬ婚姻を強要されたとは言え、あの方がそこまでされるとは……」
「いや。あの女が祖国を恨む理由は他にもある。
「そ……それは……!」
「此度の計画は取るに足らない小国の姫が、帝国において人質以上の価値を持たないことを前提に練られたものだった。だが愚妹が皇后として帝国の実権を握るおそれが出てきたのなら話は別だ。ゆえに──よく聞け。其方にこの国での最後の任務を与える。私が今から言うことを忠実に遂行できたなら、其方をただちに祖国へ連れ戻し、相応の恩賞を授けることを約束しよう」
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