血濡れた獅子
その王女の黒髪に侍女がゆっくりと
純白の寝衣に身を包んだ王女はひとり、
今夜、皇帝の渡りがある。
迎賓宴とは名ばかりの、新たな妃を値踏みする品評会を終えた晩のことだった。
側室に当たる皇妃の
ただ公の場での顔見せを済ませ、主上に後宮入りを認められさえすれば、いかなる女も皇室に嫁いだことになるのである。
もっともこの世でただひとり、皇帝の正式な伴侶を名乗ることを許される皇后ともなれば、国を挙げての祝宴でもって遇されるのだろうが。
残念ながら王女は取るに足らない南の小国から、大陸全土を呑み込まんとする強大な獅子へ捧げられた供物に過ぎず、皇帝の伴侶となるには卑小すぎた。
いかな一国の王族と言えども、もはや大陸の支配者と称して差し支えない帝国の皇帝からしてみれば、辺境領土を治める一貴族と大して変わりない。
ならば何を夢見ることがあろう。
王女の役割はただ人質として祖国の露命をつなぐこと。その使命を果たすことさえできればいい。それが今日まで生かされてきた理由なのだから。
「皇帝陛下のご来臨です」
紫蘭宮と呼ばれる小さな離宮の一室で、王女は耳慣れない声を聞いた。
見ればいつの間にやってきたのか、つい先刻顔合わせを済ませたばかりの中年女が、扉の前で
王女が祖国から連れてこられたのは今、櫛を手に髪の手入れをしてくれている侍女ただひとりで、あとはすべて帝国から与えられた人材が紫蘭宮を囲んでいる。
そこに王女の味方はいない。唯一妹の輿入れを見守りに来た兄王子も、帝国との同盟締結に係る諸務さえ滞りなく片づけば、即刻帰国の途へ就くのだろうし。
そう考えると、ほんの数刻前まで王女を
「お待ち申し上げておりました、陛下」
ほどなく扉の向こうから現れた若き獅子に、王女は帝国の淑女の礼でもって
その姿が存外新鮮で、顔を上げると同時に王女の視線はすうっと、
「本日は我が国の使節団を迎えるために、あのような盛大な宴を催して下さり大変ありがとうございました。本来であれば国王自らご挨拶に
「前口上はいい。決まり切った社交辞令など聞き飽きた。侍従に酒を持たせてきたが、飲むか」
「……では、ご
なんて性急な人かしら、と内心小首を傾げつつ、王女は皇帝の誘いを
ときには敵将を生きたまま
──ゆえにゆめゆめ陛下の機嫌を損ねるな。
──可能な限り
──さすればあとは、ひそやかに
次いで「下がりなさい」と静かに促せば、
「若いのにずいぶんと陰気な侍女だな。
ところが閨でふたりきりになるや否や、卓の上の
「どうかご容赦下さい。彼女は
「ふん、退屈な話だ。そう言うおまえは宴に姿を現したときから妙に落ち着き払っているが、
「そういった女人がお好みなのでしたら、そのように振る舞うこともできますが」
「よせ。俺は器量もないのに気位だけは高い女のが苦手だ。見ていると無性に殺したくなる」
「では、器量のある愚姫を演じればよろしいですか?」
「……よほど己の才覚に自信があるらしいな」
「滅相もございません。ただ……父からゆめゆめ陛下のお気に召すよう心がけよと命ぜられて参りましたので」
王女が役目を終えた硝子瓶を卓に戻して答えれば、皇帝の眼がぎろりと灯明かりを弾き、闇に赤い軌跡を描いた。束の間、そのあまりに
「正直者だな。おまえは俺が恐ろしくはないのか?」
「実際に帝国へ足を運ぶまでは、恐ろしいお方やもしれないと覚悟はしておりました。ですが私はつい先刻、陛下のお顔もようやく拝見したばかりですので……果たしてどのようなお方なのか、今はまだ判断がつきかねます」
「ククッ……ほとほと風変わりな女だ。俺は同じ質問を先の妃六人にもしてみたが、いずれも必死にご機嫌取りの言葉を並べるか、青ざめた顔で取り繕うかのどちらかだったぞ」
「それは他の妃様方が皆、帝国の由緒ある家門のご出身だからではございませんか? 己の失言ひとつで一族が立場を失うともなれば、少しでも陛下のお心に添おうと努めるのは至極当然かと存じます」
「ほう。ならばおまえは、己の失言が原因で祖国が滅びても構わんというのか? 愚直なだけでは俺の機嫌は取れんぞ」
「私は……可能な限り、父の言いつけを守ろうとは思いますが……しかし
と、王女は自身のために用意されたもう一方の銀杯を手に取りじっと見つめた。
杯の中で微か揺れる赤い
ところがほんの束の間、王女の思考を染め上げた陰惨な空想を
「まったく
「……陛下のお気に召す回答だったのでしたら光栄です」
「ああ、実に愉快だ。おまえは己の祖国が恋しくはないのか。まるで滅びたところでさして困らんとでも言いたげな口振りだが」
「祖国……と申し上げましても、陛下もご存知のとおり、私は私が育った城の、限られたごく一部の区画しか存じ上げませんので。私にとっての祖国とは、あの閉ざされたいくつかの部屋の連なりでしかないのです。ですから……国が滅びるというのがどういうことなのか、身に迫って実感することができず……」
それが王族として恥ずべきことだと知りながら、王女はありのままの真実を口にすることしかできなかった。
すると皇帝は改めて、値踏みするような眼差しを注ぎつつ杯を傾ける。
「そうか。だが王は、娘のおまえを城から一歩も出したがらぬほどに溺愛していたということだろう? その父が死ぬと思えばさすがに恐ろしいのではないか?」
「……そう、ですね……父や兄を永遠に失うのは……恐ろしい、ことなのかもしれません。ですが、私は……」
王女は血の
言えるはずもない。この身は
ゆえに王女には帰るべき場所も居場所もない。これまでも、これからも。
されど、王女は──
「……なるほど。つまりおまえは祖国を愛してはいないのだな」
刹那、皇帝の喉から
「いいや、祖国どころか肉親すらも愛せなかったか。果たして何がおまえをそうさせたのか、気になるところではあるが──」
次いで杯を置く音がしたかと思えば、王女の上から卓が除けられる。
あっ、と驚き、声を発する暇もなかった。
気づけば皇帝の右手に杯はなく、代わりに王女の白い顎を掴んでいる。
「安心しろ。ならば愛されるとはどういうことか、この俺がとくと教えてやる」
「陛下──」
長い
絡み合う舌からは葡萄酒の──赤い血の味がする。
衣擦れの音の狭間で、燭台の明かりが消された。
王女の細い腰は獅子に
*****
蝶の王国に生まれた姫は、
この蟲は毒性のある粘液を発し、生まれたばかりの赤子の
が、大抵の赤子は蟲の発する毒に当てられ、早々に命を落とすのが常だ。
蟲の毒に耐え、生き延びることができるのは五人に一人か、十人に一人か。
しかし文字どおり生まれて初めての試練を生き延びた赤子は、蟲に選ばれた姫として大切に大切に育てられる。
そうして姫は〝蟲〟となるのだ。
美しく妖しげな魅惑を振り撒き、されどあらゆる粘膜から分泌される体液に、人をゆっくりと死に至らしめる毒を持った〝蟲の王女〟に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます