美しの野へ


 蝶の国の王女が金獅子帝国皇帝の第七妃となってからしばらくが過ぎた。

 皇帝はあれ以来、毎夜のように紫蘭宮へと通ってくる。

 そうして体を重ねるたびに、少しずつ、少しずつ毒を注ぎ込んだ。

 まぐわう舌の先から。夜毎よごと獅子の獣欲を受け入れる花弁から。

 むしの毒はゆっくりと、されど確実に皇帝の肉体を蝕んでいる。

 早ければ半年ののちにはとこせり、起き上がれなくなることだろう。


 王女はどこまでも従順に皇帝に仕えた。本物の獅子のごとく荒々しい愛撫にも耐え、皇妃として後宮で与えられる職務も粛々とこなした。空が白むまで激しい嵐になぶられようとも、日が昇れば身支度を整え、しゃんとせなを伸ばして出仕する。

 ここには王女を助けてくれる者も、案じてくれる者もなかった。

 ゆえに王女は何事もひとりで完璧にこなさねばならない。

 いずれ目的を達する日まで、誰にも弱みを見せてはならない。


 その日も王女は紫蘭宮の一角に設けられた執務室で、与えられた政務をこなしていた。間もなく雨季が明けることを暗示するような、よく晴れた日のことだった。

 毎年この時期には晴天が続く王女の祖国とは違い、帝国の冬は雨ばかり降っている。しかし三日前に雨が上がって以来、帝都では珍しく好天が続いていた。

 あれほど重く垂れ込めていたはずの雨雲はほうきで払われたように散り散りとなり、蒼穹そうきゅうにはあまねく天の光が満ちている。


 そんな日和ひよりであったためであろうか。

 すっかり日も高くなった頃、王女は不意に呼び出しを受けた。

 相手は言わずもがな帝国の若き獅子である。

 外出用の身支度をしてただちに寝殿へおもむくようにとの伝言を受け、王女は白い猛禽もうきんの羽根で作られた筆を置いた。一体何の用かと怪訝けげんに思いながらも平静を装い、言われるがままに着替えを済ませて皇帝の寝所へと足を運ぶ。


「来たか」


 ところが何の用事か見当もつかずに訪ねた王女を待ち受けていたのは、十数頭のたくましい軍馬と、絢爛けんらんな狩猟服に身を包んだ皇帝、及び彼に仕える屈強な近衛騎士たちだった。帝国に嫁いでからというもの、ほとんどの時間を男子禁制の後宮で過ごしてきた王女にとっては、眩暈めまいを催すような光景である。


「陛下……これは一体どうなされたのですか?」

「見て分かるだろう。久しぶりに遠駆けに出る。このところ戦もなく、公務で宮殿にもりきりだったからな。おかげで近頃体が重い。たまには馬にでも乗らねば、かびが生えて腕が腐り落ちそうだ」

「……」

「おまえの馬も用意させた。共に来い」


 皇帝がそう告げて器用に指を鳴らせば、若く凜々しい近衛騎士が空馬をいて現れた。まるで月夜の化身のごとく美しい驪馬くろうまである。

 しかし王女はたじろいだ。馬が恐ろしいわけではない。

 ただ、今日まで一度も馬に乗った経験を持たないためである。

 その旨を皇帝に伝えれば、太陽に愛された金髪の下で赤眼が疑念に染まった。蝶の王国では、王族に連なる者に馬術すら教えないのかと言いたげな眼差しである。


「申し訳ございません。何分、幼少の頃は体が弱かったもので……父が馬術を学ぶことを許して下さらなかったのです」

「ふん。蝶の国の王族に生まれる娘は皆、まるで呪われたように虚弱だというあの噂はまことだったわけか。ならば仕方がない。俺の馬に乗れ」

「……それは、陛下と相乗りさせていただく、という解釈で合っていますか?」

「他の解釈があるならぜひ聞いてみたいところだが。あるいは何か、俺と同じ馬には乗れん理由でもあるのか?」

「いえ……とんでもございません」


 まさか皇帝と皇宮の外へ出ることになるとは夢にも思わず、王女はやはり眩暈を覚えた。が、ここで獅子の機嫌を損ねれば、どこまでも従順を装ってきた日々の苦労が泡沫うたかたとなってしまう。ゆえに諦念という名の新たな供を引き連れて、王女は馬上から伸ばされた皇帝の手を取った。

 踏み台を使い、背後を騎士に支えられながら、どうにか皇帝のまたがるくらの前に落ち着く。しかし乗馬するとは微塵も考えていなかったがために、王女の衣裳いしょうはおよそ馬上の人となるには不向きな末広がりのドレスである。


 よって鞍を跨ぐのではなく、あぶみを踏み締める皇帝の膝の上に横を向いて座る形となった。瀟洒しょうしゃなレース飾りの日傘は邪魔になるため、付き添いで来ていた侍女へと託す。すると紫紺色のドレスに合わせた、ひさしの広い帽子ボンネットもはずせと命ぜられた。

 仕方なく顎帯リボンを解いて下ろした帽子も差し出せば、侍女は受け取るや否やサッとあとずさって距離を取る。顔を伏せた侍女の腕の中で、視界を華やがせる花飾りが音もなく揺れるのを、王女は色のない心持ちでしばし眺めた。


「しかしおまえは昼間に会うと、いつも暗い色の服ばかり着ているな」


 と、意識の外で皇帝の声がして我に返る。振り向くと、手綱を握った獅子の顔が存外近かった。初めて夜を共にしたあの日以来、ほとんど笑うところを見たことのない赤眼が、暗い王女の鏡像によってかげりを落としている。


「まるで喪服だ。まさかとは思うが、俺と会うときに限って暗い服を選んでいるのではあるまいな?」

「い、いえ……滅相もございません。自分ではあまり意識したことがありませんでしたが……昔、私にはこういった類の色が似合うと兄が申しておりましたので。ですので自然と似たような色の服ばかり選んでいたのかもしれません」

「おまえには兄がふたりいたな。そんな世迷い言をほざいたのはどちらの兄だ?」

「下の兄でございます」

「なるほど。年の始めに会ったときもいけ好かないガキだと思ったが、やはり俺の勘は正しかったようだ」


 吊り上がった口角から吐き捨てられた皇帝の言に、王女は図らずも肝が冷えた。

 確かに王女の次兄には野心がある。

 病弱で優柔不断な長兄に国を任せるのは不安があると以前からはばかりもなく公言し、父の後継者は他でもない己であると強く自負しているのである。

 そして何より、帝国の脅威に怯える父と同等かそれ以上に、この敗北を知らぬ金獅子をうとみ排除したがっている。


 そうした兄の尊大な野心を、獅子の嗅覚が嗅ぎつけたのかどうか。

 王女には皇帝の真意が読めない。

 ゆえに身を竦め、沈黙を守っていると、不意に皇帝のかいなが腰を抱いた。かと思えば号令が発され、皇宮の庭に集められた騎士たちが一斉に馬へと鞭をくれる。途端に突き上げてきた激しい揺れに王女は喫驚し、とっさに皇帝の胸へしがみついた。

 馬の背は想像していたよりも数段高く、世界が違って見えるもののあまりに揺れる。半瞬でも気を抜けば、たやすく振り落とされてしまいそうで恐ろしい。


「掴まっていろ」


 王女の恐怖を見抜いたのかどうか、皇帝は腰を抱く腕によりいっそうの力を籠めるとますます馬の速度を上げた。いわゆる襲歩と呼ばれる駆け方で、ふたりを乗せた月毛は皇帝の髪と揃いのたてがみなびかせ、金色の風となってせる。馳せる。

 皇帝に付き従ってきた騎士たちの姿さえ、あっという間に遠のくほどに。

 やがて月毛は森へと入り、ひづめかなでも穏やかになった。今にも落馬して命を落とすのではないかとおそおののいていた王女は、ようやく生きた心地がして息をつく。


「へ、陛下……お付きの騎士とはぐれてしまわれました。彼らが追いついてくるのを待たれた方が」

「構わん。あいつらが傍にいると息抜きにならんからな。だからいたのだ」

「で、ですが、陛下の御身に万一のことがあれば……」


 いかがなさるのですか、と言葉を続けようとして、しかし王女ははっとした。

 あまりに傍若無人な振る舞いに、思わず口をついて出た言葉であったが、皇帝の身に望んでいるのは他でもない王女自身である。

 そんな己が御為顔おためがおで何を諫言かんげんしようとしていたのかと、王女は震える指先で唇に触れた。この男は大陸を恐怖に陥れる元凶であり、いつ気まぐれに祖国へ牙を剥くとも知れぬけだもの。であるがゆえに刺客として送り込まれた女が宿敵たる野獣の身を案じるなど、これほど滑稽な話はない……。


「余計な心配はしなくていい。確かに俺を殺したいと願う輩は星の数ほどいるだろうが、連中が束になってかかってきたところで俺には勝てん」

「な……なぜそう断言できるのですか?」

「まあ、話はあとだ。そろそろ目的地に着くぞ」


 王女の惑いを知ってか知らずか、皇帝がそう告げて間もなくのこと。

 行く手に影を落としていた森の枝葉が不意に途切れ、目も眩むほどの光と共に、突如として視界が開けた。あまりのまばゆさに怯んだ王女がとっさに白い腕をかざせば、妖精のたわれのごとく吹き抜けた風がやわらかな芳香を運んでくる。

 その香りにいざなわれ、王女は鮮やかすぎる陽射しの向こうを透かし見た。

 途端におのが瞳へ映り込んだ色彩に、図らずも息を飲む。


 そこに広がっていたのは一面遮るもののない野花のそのだった。

 王女が知り得る限りの言葉を尽くしても形容しきれないほど無数の色が、森の中にぽっかりと口を開けた大地を彩り、咲き香っている。

 花園と言えば人の手によってつくられた庭園しか知らぬ王女は、これほど無秩序な花畑を見たことがなかった。されど隅から隅まで、視界を余すことなく埋め尽くす色彩と空の青は、今まで心動かされたどんな絵画よりも美しい。


「陛下、ここは……」

「おまえを呼びつけた理由だ。以前、何が好きかと尋ねたら花と答えただろう」

「ええ……ですが花でしたら、既に紫蘭宮の素晴らしい庭園を頂戴しましたのに」

「紫蘭宮の花が咲くのはまだ先だ。何よりおまえには、美しく見せるために花よりも、自然の花の方がよく似合う」


 茫然とする王女を差し置いて、皇帝は自明の摂理を語るかのごとくうそぶいた。

 かと思えば森を抜けたところで馬を止め、滑るような身のこなしで鞍を下りる。

 おかげで王女は常からいだつづけてきた疑問を、再び脳裏へ呼び起こさずにはいられなかった──すなわちこの男が見せる絶対的な自信と無恥とは、何によって裏打ちされたものなのだろう、と。


「来い。ここは蝶の国の姫に最もふさわしい場所だろう?」


 されど獅子はやはり王女の当惑など意に介さない。仕方なく王女は差し伸べられた手を掴み、抱き留められるようにして、花の大地へ降り立った。

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