はさみの手

立談百景

はさみの手

 朝、目覚めると、右の手がはさみのようになっておりました。蟹のように、血色も悪くごつごつとしたやつです。

 布団をはさんでめくると、ぶつりと綿の切れる心地がしました。いつもの癖で右手を使ってしまったのが悪かったのです。ああこれはいかん、妻に見つかれば怒られるぞと思い、私は左手を使って布団をめくりました。随分と勝手の悪い手になってしまったものです。

「こうなってしまったがね。」

 私は妻の菊子に右手を掲げて見せました。菊子は居間の窓辺で縫い物をしておりましたが、その手を止めて、さぞ驚いた様子でした。

「まあ、まあ。大変ですこと!」

 随分と困ったもので、私は如何様にすべきか、菊子に尋ねました。菊子はまだ弱冠も越えぬ娘で、私とは十ばかり歳が離れていました。気立ても良く、私とは違ってしっかり者です。生活の難儀は菊子に聞きさえすれば良いと思いましたが、しかしこの手は、菊子にさえ見当がつかなかったようです。

「ひとまず、お医者の先生に診せてはいかがです。」

「医者は嫌いなのだ。」

「子どもみたく、そんなことを言っているときですか、十之助さん。」

 菊子は裁縫道具を仕舞い込むと、すぐに私に身支度をするよう言いました。私は襦袢に浴衣を羽織っただけの起き抜けの姿でした。何せこの手では着物も満足に着られないのですから、困りものです。

 嫌いな医者に行くのを渋りながらも、私は菊子に促されるまま支度を調えました。結局は何も出来ないので、ほとんど菊子の手を借りました。

 家を出て私たちは大通りへ向かいました。はさみの手は袖に仕舞い、私は菊子の隣をえっちらおっちらとついて行きます。売文家業で食っている私はあまり外に出ないものですから、普段からテキパキとした菊子とは違い、歩くのも遅いのでした。

「十之助さん、それではお仕事に障りますわね。」

 菊子は私の仕舞い込んだ手を見ながら、気遣うように言います。私は書きかけの連載のことを思い出しました。

「ああ、そうだね。これは困った。物書きは手と筆が商売道具だからね。」

「代筆をしようにも、私は文字が書けませんので。」

「そうだね――そうだ、これを機に字を憶えてはどうだい。」

 菊子は田舎農家の三女で、さほど裕福な家の出でもなく、字を習っておりませんでした。私との生活の中で読みは少々上達しておりましたが、字が書けなくば不便もあろうと思い、私は軽い思いつきでそう提案しました。

 しかし菊子には丁重に断られました。

「折角ですが、ご遠慮いたします。仕事を奪ってまで、亭主を穀潰しにしようとは思いませんもの。」

 なるほど、しっかり者の菊子らしい言い分でした。

 与太話で気を紛らすうちに、あっという間に町の診療所まで着いてしまいました。生憎ながら中は空いていて、私は少しも待たされずに診察室へ通されました。お医者の先生は壮麗の小綺麗な方で、多くの医者にあるような高慢味を感じさせませんでしたが、やはりどうにも苦手でいけません。気の進まないまま、私は先生に手を見せました。

 先生は便底眼鏡を持ち上げながら「それはなんだね」とぎょっとしていました。医者にさえこの手は理解に難いようで、いよいよ私はどうしたら良いか分からなくなりました。

 腫れ物か何かも分からず、医者からは一巻の包帯と赤チンを渡されました。これでひとまずは右の手を隠して置きなさいとのことです。変わったことがあればすぐに来いとも言われましたが、これ以上変わったことがあっては参ります。しばらくは不便が続きそうでした。

 それから幾日かは、用を足すにも、机に向かうにも、片手で動くのに一苦労でした。右手の包帯を取るのは寝るときと、湯を浴むときだけでした。私が小説を寄せている雑誌社には一通りの事情を説明し、締切を少し延ばしてもらいました。このため私の小説が休載する折は「著者急病につき御免致します」と目次にちらりと載りました。なるほど、どうやらこの手は病のひとつに数えられそうでした。

 それこれの事情を近所の馴染みに話してみるや、からからと笑われました。

「そいつは君、実に難儀だねえ。」

 近所の馴染みである甚右衛門は、私の幼少の頃からの腐れ縁です。私は犬の散歩に出ていた彼に、軒先で声をかけたのでした。

「人のことだと思いおってからに。」

 甚右衛門があからさまに笑うので、私は少しむっとしました。しかし甚右衛門のやつは気に揉む様子もありません。

「人のことだろうに。いや、愉快だ。」

「全く不便でならんよ、この手は。もう着物を二つもお釈迦にしてしまった。」

「まあ、何かあれば遠慮なく言いたまえよ、十之助。仕事はつっかえておらんかね。」

「両利きではないのでね、書き物には四苦八苦していたよ。だが左で文字を書くのも上達してきてね。」

「なるほど器用な男だとも君は。君にとっちゃあ、手が無くなっちまうなんざ、瑣末なことなのだろうな。全くうらやましい、俺の出番はなさそうだ。」

「器用貧乏というやつさ。」

「それでも不器用よりは幾らかマシだろうさ。――それではそろそろ俺は行くがね。くれぐれも奥方にはよろしく言っておいてくれよ。器用な君が掴まえた、大層な細君だ。」

「ああ、くれぐれもよろしく言っておこう。また酒でも呑みにきたまえ。」

「是非そうさせてもらおう。」

 それじゃあと手を上げて、甚右衛門は犬と共に川辺の方まで歩いて行ったようでした。しばらくその犬の尾がふらふらと揺れるのを眺めていましたが、それが豆粒ほどに見えなくなると、私も家の中に入りました。家の中からは味噌汁の香りがしていました。菊子が昼餉をこさえてくれているようです。

 ほどなくして料理は居間に運ばれ、私たちは食べ始めました。食事も半ばに差し掛かったところで、私は先の甚右衛門とのやりとりを菊子に話しました。

「さっき甚のやつに右手のことをからかわれたよ。」

「まあ、甚右衛門さんに。あなた方は仲が良くて、妬いてしまいますわ。」

 そうは言いつつも、菊子はどこか楽しげでした。

「あいつとは小便を垂れてた頃からの腐れ縁だがね。もはや遠慮も知らんのだ。」

「でも長く付き合うというのは、そういうことでございましょう。うらやましくありますわ。夫婦というのも、かくあるべきかも知れませんわね。」

「甚とお前は違うよ、菊子。」

「あら、如何様に違いますの?」

「あいつは俺の船の隣にずっといる、行き先の違う別の船のようなものだ。」

「では私は?」

「お前は私の漕ぐ船に乗り、私が花園まで届けておるのだ。」

 私の言葉に、菊子はくすりと吹き出しました。

「何がおかしいんだ、菊子。」

「いえ、作家先生は言い回しも洒落ていると思っただけです。素敵な考え方ですわ、十之助さん。」

 私は少しばつが悪くなり「しかし全く、この手は不便だ」と話を逸らしました。

 菊子は随分おかしそうに笑っていましたが、少し落ち着いてから「ちっとも治らないのは、困りましたねえ」と答えました。

「あなた、何か心当たりはないのですか。」

「心当たりかね。」

「はい、何かそのはさみの手を持つことになった、理由でございます。」

 私は妻に言われ、ふいと考えてみました。蟹のような手を持つ理由です。

 しかしそんなものはとんと見当もつきません。蟹の知り合いも、はさみの知り合いも私にはありません。蟹に怨みを買う憶えも、はさみに呪われる憶えもありません。

「ともすれば、何かの気まぐれではないかしらん。」

「気まぐれで、ございますか。」

「神か仏か。蟹かはさみか。そんなものが気まぐれに、私の手から便利を奪っていったのではなかろうか。」

「まあまあ、随分と呑気なご意見ですこと。」

 確かに呑気すぎるきらいがありますが、どうにもならぬものに悩み続けるほど、鬱屈とした気概は持ち合わせておりませんでした。

「うまく折り合いをつけるしかあるまい。治ればそれで良い。しかし治らねば、このはさみの手で生涯を過ごさねばならんだろう。」

 私は包帯に巻かれた右手をしげしげと眺めました。「詮無いことかもしれませんが、はさみの手なんて、うまく使えますかねえ」と菊子は言いました。

「気に病まないことは結構ですが、でも本当に困ったなら、言ってくださいましね。先日はお断りしましたが、私が文字を覚えることだって、吝かではありませんわ。」

「ありがとう菊子、心配はいらないよ。最近は左手でも文字を書けるようになってきた。忌み嫌ってばかりいては、心持ちも宜しくないからね。長く付き合うとは、そういうことだろう。」

 私は笑って見せましたが、そうは言っても、はさみは手になりえません。はさみの手は結局、包帯に巻き付けられたままでした。紙に物を書くとき、文鎮代わりにはなりえます。しかし着物の帯は結べず、眼鏡もうまく上げられず、髪が切れてしまうので頭も掻けません。

 しかしそんな右手でしたが、ひと月も経てばその程度しか使えない生活にも慣れていきました。仕事も、以前よりは筆が遅くなってはしまいましたが、それでも差し支えないくらいにはこなせるようになりました。

 もうこの右手はこんなものだろう。そんなことを思いました。やがて私は普段の生活通り、右手にも不満を漏らさなくなりました。

 はさみの手を患ってしばらく後の日、起き抜け、居間にいた菊子へ声をかけました。菊子は窓辺に座り、また縫い物をしておりました。

「おはよう、菊子。」

「あら、十之助さん。おはようございます。」

「縫い物か。朝から精が出るね。」

「あなた、時計はごらんになりましたか。もうお昼に近い時刻ですよ。」

「私が起きたときが朝なのだ。今は朝だよ。」

「あらあら。まるで神様のようなことをおっしゃいますのね。作家先生はごまんといるでしょうが、皆あなたのような人ばかりなのでしょうか。どこもかしこも神様ばかり、八百万の神とはよく言ったものですわ。」

 菊子は少し呆れた様子でしたが、慣れたものでした。私はちゃぶ台に肘をついて胡座をかきました。

「私は人だよ。右手はこんなだがね。ああ、ところで。この右手の包帯だがね。医者にもらったやつを切らしてしまったよ。何か替えのものはあるかい。」

 包帯は洗いながら使っていましたが、弾みで切り刻んでしまうことも多く、あっという間に無くなってしまいました。

「端布で宜しければ、幾らでもありますよ。」

 そう言って菊子は裁縫箱から幾らかの布を引っ張り出して見せてくれましたが、どうにも柄が入っているのは好みに合いませんでした。

「すまないね、やはり包帯にしておくよ。昼になってから、薬屋にでも行ってこよう。」

「そうですか。それじゃあもう少し縫ったら、朝餉を用意しましょうね。」

「ああ、頼む。」

 私は菊子の縫い物をじっと見ていました。何を縫っているのかは分かりませんでしたが、二枚の布切れが手際良くすいすいと合わさって行く様は、見ていて存外に心地良いものでした。やがて菊子は糸を留め、布を膝の上に置き、裁縫箱を漁り始めました。

「どうしたね。」

「糸切りが見あたらないのです。」

「寝室ではないのかね。」

「そうかも知れません。ああ、ちょっと十之助さん。」

 菊子が私の傍へ寄ってきます。何事かと思う間もなく、菊子が私の右手を取り上げました。私の右手の包帯が外され、はさみが露わになります。

 菊子は好い遊びを思いついた子どものように言いました。

「どうぞ、そのはさみで、この糸を切ってくださいまし。」

 私は訝しんで「このはさみでかね」と尋ね返しました。菊子は「ええ。そのはさみでございます」とおかしそうに言いました。私は少しだけ逡巡して、頷きました。

 菊子が差し出す布切れから出た糸に、私は右手のはさみを入れました。ぷつりと糸の切れる感触があり、白い糸くずが、畳の上にはらりと落ちます。

「十之助さん、便利な手を持ちましたね。」と菊子が笑いました。

「ああ、そうかも知れないね、菊子。」

 菊子があんまり嬉しそうなので、私もつられて笑ってしまいました。


<了>

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