伝える

増田朋美

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その日は、なぜか寒いのと暑いのが交互にやって来るような、そんな日だった。そういうわけだから、体調を崩す人も多いだろう。なかなか、仕事がはかどらないとか、家事がはかどらないなどで、愚痴を言い合う人が、多数見られた。

普通のひとでさえ、そういう風になってしまうのだから、病んでいるひとにはもっと最悪だ。何もきっかけがないのに、体の具合が悪くなったり、そういうひとは結構いると思われる。

ブッチャーの姉の須藤有希もそんな感じだった。今日は、弟のブッチャーこと須藤聰が、いつも通り、着物の発送の仕事を終えて、家に帰ってきたところ、事件が起きた。いつもなら、準備されているはずの、昼食が、今日は全く準備されてない。

「おい、姉ちゃん、今日は何かあったのか?」

と、ブッチャーが聞くと、

「いえ、何か疲れちゃっただけ。お昼をつくる作業が、ちっとも進まない。」

と、有希は答えた。有希の前には、昼食の材料が並べられている。でも、有希は、何もできないでいるのだ。

「何かあったのかい?いやなことでもあった?」

と、ブッチャーが聞くと、

「何もないわ。ただ、疲れただけよ。」

と、有希は答えた。ブッチャーが、天気予報でも見るかと思ってテレビのスイッチを入れようとしたところ、

「テレビは怖いからやめて!」

と有希が甲高く言ったため、ブッチャーは、また姉ちゃんは、別のせかいに行ってしまったのか、とやっとわかった。

「姉ちゃん。一体何があったんだよ。また、インターネットで、何かひどいことでも言われたか?」

と、とりあえずそういうことを言ってみる。彼女が、自分の障害について成文化することができる

かどうか、を確かめるのだ。それができていれば、まだ、取り戻せる可能性がある。

「いえ、わからないわ。ただ、苦しいだけなの。」

と有希は答えた。

「例えば、頭が痛いとか、足が痛いとか、そういう風に症状があるのか?」

ブッチャーが聞くと、

「いいえ、わからないわ。なんとなく、体が熱くて、汗がすごく出るのよ。」

と、有希は言う。そういうことには、ブッチャーも、対処ほうがわからないことだった。

「じゃあ、二階の部屋で、しばらく休むんだな。無理をしちゃだめだぜ。ご飯は俺が作るから。」

ブッチャーはそういうが、有希の考えはまたおかしなところがあった。

「ダメよ。働いてないんだから、こういうことは必ずしなくちゃ。だから、聰はそこで待ってて。」

「でも、姉ちゃんは、今は疲れているんだから、お昼をつくってたら、もっと疲れてしまうよ。だから、休んでくれていいよ。」

ブッチャーがそういっても、有希は、その場を離れようとしなかった。こういう風に現在の事だけではなくて、過去の事、あるいは自分が抱えている不安などが、複雑に出てきてしまうというのが、精神障害というものの怖さだった。今ある事実だけに目を向けるということは、どうしてもできないのだ。

「いいえ、私はご飯の支度しなきゃいけないの。それは、働いていないんだから、そういう風になるでしょう。だから急いでやっちゃうから。でも、どうしても、体が熱くて、それができないのよ。ああ私どうしたらいいんだろう。なんでこんな簡単なこともできないんだろう。それでは、外へ出て働くなんて到底無理じゃないの。」

そうやって、結局できない自分を責めてしまうことも、精神障害の特徴であった。仕方ない、と思うことができなかったり、変に自分を奴隷的に扱われているので、絶対服従しなければならないとか、そういうことが症状なのだ。別にブッチャーは姉に、必ずご飯をつくってもらわなければいけないという義務はない。だから、自分でカップラーメンでも作ればそれでよいことなのだ。でも、有希のほうは、兵役の義務を怠ったような顔をして、自分がいけないいけないと騒ぎだすのである。

「姉ちゃん!頼むから薬飲んで寝てくれよ。また、リストカットなんかされたら、俺はたまらないよ。其れよりも、今日は、こんな天気なんだから、体調崩しても仕方ないよ。だから、薬飲んで寝ればそれでいいんだよ!」

とブッチャーは、そういったが、有希はそうなんだと思えないのだった。日ごろから働いていない人間だからという理由が付いて回るんだろう。彼女はこういうことを言う。

「だって、私は働いていないのよ。だから、休むことは許されないの。働いていないのは、悪いことだって、言われてるんだから、その通り動かないとだめじゃないの。だから、ご飯の支度だってしなければならないのよ!」

「そうだけど、姉ちゃん、言われていると言っても、誰がそんなこと言ったのさ。」

ブッチャーが思わず聞くと、

「学校で先生がそう言ったわ。それに今だって、近所の人も親戚もみんな同じことを言っているのよ。須藤さんのお嬢さんは、何も働かないで親のすねをかじって甘えすぎてるって。私、ちゃんと、親せきのおばさんがそういっているの、聞いたんだから。間違いないわ。」

有希のこの症状は、ある意味幻聴と言えるものかもしれなかった。ブッチャー自身は、姉の単なる思い込みと思っていたが、もしかしたら、親せきがそういうのが、実際に姉には聞こえているのかもしれない。

「それはいつのことだ。いつ親戚のおばさんがうちに来た?そして、どこで、姉ちゃんはそれを耳にした?はっきりと思い出してくれ!」

具体的な日付を思い出させるのは、精神障碍者と一緒に暮らすための、必要なテクニックであった。

「えーと、親せきのおばさんが来たのは、八月の中頃だからお盆のころだったかしら。」

有希は、そこは覚えてくれたらしい。

「それでは、今が何日なのか、一寸そこのカレンダーを見て、言ってみてくれないか。」

ブッチャーが言うと、

「ええ、今日は九月の22日だわ。」

有希は、壁にかかったカレンダーを見て、そういうことを言った。

「ほら、もうお盆はとっくに過ぎてるじゃないか、だから、親せきのおばさんは関係ないんだ。もう姉ちゃんは、夏の疲れで自立神経が乱れているんだよ。そういう時は、安静にしているのが一番だ。だから、二階で布団に横になって、安静にしてくれればいい。幸い、ここには俺だけで、姉ちゃんをとがめる親戚は誰もいない。それに、姉ちゃんが、休むのを監視している人は誰もいないから、姉ちゃんは、しっかり休んでくれ。な、頼むから!」

ブッチャーは、有希にそう懇願した。こんな当たり前のことを言わなければならないなんて、ブッチャーは少々、気が抜けてしまうけれど、姉の有希はそういうことが欠落してしまっているから、仕方ないと思って接するしかない。心が病むというのは、食べ物を食べなくなるのとはわけが違う。認識したり、結論を出したりすることができなくなったり、変な方向へ行ってしまうということだからだ。

「頼むよ、姉ちゃん。誰もとがめる人はいないから、二階で休んできてくれるか。」

と、ブッチャーがそういうと、有希はまだ納得しない様子であったが、でも、通じてくれたようで、

「じゃあ、申し訳ないようだから、私は休むわ。後で、金額を言ってね。職務怠業した罰金はちゃんと払うから。」

とだけ言った。その罰金を払うなんていらないとブッチャーは思うのであるが、有希はどうしても、そうしなければならないと思っているようで、そうしてといった。

「それでは後でお金をもらうから、姉ちゃん、頼むから二階で休んできてくれよ。薬は必ず飲むんだぞ。薬を飲めば、体の熱くなるのも消え去るよ。だから、それを忘れないように考えてな。」

と、ブッチャーはそういって、姉を部屋から二階へ送り出してやった。姉は、本当にしんどいという顔をして、二階に上っていく。あーあ、まったくこういう基本的なことを、教えていかなければいけないのかあとブッチャーは思ったが、そういう風になってしまったのだから、仕方ないと思いなおした。それにしても、何とかして姉の、この悪い症状を、何とかしてくれないかなという気持ちも、ないわけではなかった。

ブッチャーが、一人で作ったカップ焼きそばをたべていると、インターフォンがなった。

「はい、どちら様でございますか?」

と、ブッチャーは、急いで受話器を取り、こえをかける。

「ああ、あの、須藤、有希さんの、お、宅でいらっしゃいますね。」

その声が、変なところを強くいったり、変なところで切れていたりしていたので、姉の有希に用事があってきたことにブッチャーは、数分かかった。

「はい、須藤有希はうちにいますけど、あなたはどなたですか?」

とりあえずそういってみる。

「は、は、はい。有森、ご、ろうと、も、申します。職業は、ふ、布団の、製造を、しています。こ、の、た、び、須藤有希さんから、布団、を、つくって、くれ、とおねがいがありました。それで、今日は、その、寸法、の、ことで、お、う、か、がいしました。」

つまり彼の言葉を翻訳すればこういうことだ。名前は有森五郎さんで、布団を製作する職人さんだ。須藤有希が、布団の制作を依頼したので、その寸法を聞きたいので来させてもらったということだ。

「あ、ああ、そうですか。あいにく姉は、、、。」

とブッチャーは言いかけたが、はっと思いついた。この人は、間違いなく吃音症である。もしかしたら、姉を、別世界からこっちへ取り戻してくれるのではあるまいか。自分にはできないことを、やってくれるかもしれない。ブッチャーは、それを考えて、じゃあお入りください、とだけ言う。

「お、お、お、おじゃまします。」

五郎さんは、ブッチャーの家のドアをがちゃんと開けて、ブッチャーの家に入った。一見しただけでは吃音者とはわからない、結構いい男と言える容姿をしていた。水穂さんには敵わないが、吃音さえなかったら、芸能人にでもなれるのでは?とブッチャーは思った。

「あのですね。姉は今いるんですが、一寸体調が悪いので、俺が代わりに伺ってもよろしいですか?」

とブッチャーが聞くと五郎さんは、

「あ、は、い。わかりました。じゃあ、お、とう、とさんの、身長と、た、い、じゅう、を、おしえ、てくれませんか。」

といった。ブッチャーはあまりにも、イントネーションが変で、五郎さんが何を言っているのか理解できなかった。

「あの、お、とう、と、さん、の、身長を、き、きたいんです。」

五郎さんはもう一回言ったがブッチャーは、その発音の悪さに、ため息が出てしまった。でも、健常者であればこれで普通の反応である。この質問に、素直に答えられるのは、よほど障碍者に慣れている、篤志家のような人でないとできない。

「そうですね、もうちょっと、しっかり発音してくれませんかね。それでは、何を言っているのか、俺はさっぱりわからないのです。」

ブッチャーがそういうと、五郎さんは、

「ぼ、僕は、お、ねえ、さ、んから、お、とう、とさんに、プレ、ゼン、とする、と言われて、布団を、つくれ、と命を、う、けて、こちらに、うかが、いました。」

というのだ。ブッチャーはさらに面食らってしまった。でも、それくらい発音が不明瞭であるのなら、姉の有希にも何か通じるものがあるのではないかという気持ちも強くわいてきた。そこでブッチャーは、こう話を切り出す。

「実はですね。姉はいま、いることにはいるんですが、一寸、困ったことになってしまいましてね。姉は、精神障害を持っているのですが、ご飯の支度を必ずしなければならない、自分は働いていないからという妄想に駆られていまして。疲れているから休んだほうが良いと俺は言いましたが、姉は、そのせいで、休もうとしてくれないのです。五郎さん、あなたも吃音者であるのなら、一寸姉を説得してもらえませんか。もう、姉のことを責めたり、変なことを言ったりする人はどこにもいないと。」

ブッチャーはまだ正確に発音できるが、もし、五郎さんのような人であるのなら、一寸イントネーションがおかしくなりそうなほど緊張していた。ブッチャーがそこまでを伝えると、五郎さんは、

「わ、わかり、まし、た。」

といった。つまりわかってくれたようだ。

「じゃあ、姉にちょっと話をしてやってくれますか。姉のことをわかってやれるのは、俺たち家族にはどうしてもできません。」

と、ブッチャーが言うと、五郎さんは、一つ頷いて、部屋に入った。そして、ブッチャーの案内で、二階の有希の部屋に行く。

「あの、僕は。」

と、五郎さんは言った。

「須藤、ゆ、きさんが、お願いした、布団、うちの有森、五郎、と、い、い、ます。この度、有希、さ、んが、お願いした、弟さん、の、布団、の制作で、寸法の、こ、とで、う、ちあわせ、に、参りました。」

ブッチャーは、どんな反応が出るのか、怖くて仕方なかったが、有希は不思議なことに、そういうひとの話が通じてしまったようだ。すぐに行きますと言って、部屋のドアをガチャンと開ける。実の弟ではあるのだが、それを近くで見ていたブッチャーは、何とも美男美女がそろったなと思ってしまったのであった。

「じゃあ、お、お姉さん、弟、さん、の身長、と、体重、教えてください、ま、すかね。布団の、わ、たの量を変える、の、に、参考、に、させて、いた、だきま、すのでね。」

五郎さんの発音はやっぱりどこかおかしいし、変なところで言葉を切ってしまうので、非常に聞き取りにくいものではあった。でも、有希は何も偏見のなく、五郎さんの発言を聞いている。

「ええ、弟は、身長176センチで、体重は、80キロ近くあるわ。」

有希は、静かに言った。五郎さんは、

「わ、わかりました。」

と言って、手帳にブッチャーの身長と、体重を書き込む。

「でも、なんで、弟さ、んに、お布団を、プレゼント、し、ようと、思った、のですか。」」

五郎さんは、ふいに有希に尋ねた。

「ええ、弟にはいつも迷惑かけっぱなしだから、せめてこういうものをプレゼントするだけしか、償いができないかなと思ったのよ。まあ、私のすることだから、弟が喜んでくれるかどうかは不詳だけど。そんなものもらっても、弟は喜ばないと思うけど、でも、何か償いはしたいのよね。まあ、わかるはずはないわ。私の気持ちなんか。」

有希は、にこやかに笑って、五郎さんに言った。

「姉ちゃん、俺にくれるなんて、考えなくていいのにさ、、、。」

ブッチャーはうれしいのか逆に迷惑なのかわからない気持ちになって、そういうことを言った。

「いいえ、だって弟のためですもの。弟にはさんざん申し訳ないことばっかりしてきちゃったし、今日だって、弟が、私を、病気のせかいから、一生懸命連れ戻そうと躍起になってたわ。私は、一度そうなると、薬を飲んでしばらく休まないと戻ってこられないのよ。つまり、感情をうまくコントロールできないってことよね。まあ、これだけは、どうしようもないと思ってるんだけど。」

体の障害とは、ここが違うところでもある。もちろん、足が不自由などのからだの障害であっても、自分を客観視することは可能であるが、心の障害は、体の障害と違って、それが周りのひとには伝わりにくいところだ。そして、本人が正常に判断できることもある。そういう風に恒常的に障害があると伝わりにくいのが精神の障害というものでもあるのだ。

「あたしも、自分のことだから仕方ないと思っているんだけど、でもやっぱり人にこうして迷惑かけちゃうと、なんだか申し訳ないと思うわね。だから、私なりの方法で償うしかないのよね。態度で示すということは、健康な人でなければできないし。だからこうして物を送って、償うしかないのよ。」

「そ、そう、ですか。」

有希がそういうと、五郎さんは、静かに言った。

「ええ、そ、そうなって、しまうのは、僕もよく、わかりますよ。僕も、こういう、ふ、うにしか、しゃべれませんか、ら、そのせい、で、何か、トラブ、ルを、起こして、しまう事、も、ありますし。

確かに、僕、も、そういう時は、も、の、とか、洗剤とか、そうい、う、ものを渡して、なかったことにしてくれ、と、頼んだ、こと、は、何回も、あ、りました。お金、を送った、こと、も、ありま、した。そういう、こ、と、をして、わかってくれた、ひ、と、もいましたが、わかって、く、れ、な、かったひと、のほうが、多かったです。でも、僕たちは、その、な、か、で、生きていかな、け、れば、ならない、のです。そういうと、きは、無理やり、理解して、もらったんだと、お、も、い、こんで生きて、いかな、ければ、ならないこともあるんで、す。」

五郎さんの不明瞭な発音であるが、ブッチャーは、こんな励ましができるのは、やっぱり傷ついているからだということがちゃんとわかった。同時に、俺だって同じことをさんざん言っているんだけどなと思った。でも、五郎さんが不明瞭でおかしな発音で発言すると、それはなぜか重大なセリフのように見えるのだった。それはなぜだろう。

「さ、い、わ、いにも、おとうとさん、は、有希さんの、こ、とを、悪い人とは見ていません。おとうとさん、は、有希さんが、こっ、ちちのせかいに、も、どって来てくれるのを、待ってくれて、います。だから、もう、こっちに、もどってきて、ください。そして、お、とうとさんの本当、の心配を、わかってやってください。僕も、こういう風に、二度ともとにはもどれ、ませんが、僕は、そ、う、いうときに、す、くない、ながらにも、理解、しようと、してくれている、こ、とに、気が付く、ように、してい、るんです。そうすれば、弟、さん、だって、少しは、救われる、ことも、できるで、しょう。」

ブッチャーは、今まで自分が言ってきたセリフを、五郎さんが代弁してくれるので、思わず涙が出てしまうのであった。有希は、そうねと五郎さんに向けて、苦笑いしている。

「僕、も、しっかり、しゃべれないし、有希、さ、んも感情、のコントロール、ができなくて、すごく大変だ、と思うけど、この世界、まだ、いい人、も、いると、そう思って、生きてくれ、ませんか。」

五郎さんが一生懸命そういうと、有希はひとこと、

「五郎さん、ありがとう。」

とだけ静かに言った。

ブッチャーは、全身の力が抜けてしまったような気がした。


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