2 ひいろのクレープ
学校が終わったひいろは、ランドセルを自分の部屋に置いて出かけた。
ビルの一階にあるドアを開ける。今日も客が食事やおしゃべりを楽しんでいた。
客は動物ではない。食べているものもクレープではない。この店は〈まじしゃんずきゃっと〉ではない。
「お帰りひいろ。もう体は大丈夫?」
ひいろはこの〈ビューティフルスカイ〉で働いているお母さんに「どうもないよ」とだけ答えて、店の中を見渡した。
(今日もあっちではハツユキたちが働いてるのかな)
あれからひいろは動物の上に魔法の素のイメージが見えなくなった。
鬱陶しく思っていたことだが、今は自分に穴があいてしまった気分。ブレスレットがなくなったのでケモノ界に行くこともできない。
教室ではキンちゃんを見つめてみた。帰りがけは迎えの車にいたピピへ話しかけてみた。両方を目にしたネネから「本当は動物が好きだったんですか?」と不思議がられても、そうせずにいられなかった。キンちゃんやピピが何をいっているのかわからなくとも、だ。
ひいろは地団駄を踏みたくなった。学校で友達ができそうなのはいいことだと思う。しかしハツユキたちの代わりにはならない。いってみれば別腹だ。
このまま時間がたてば、いつか自分は〈まじしゃんずきゃっと〉のことを夢だったと思い始めるのではないか。そう考えると悲しかった。
(あたしの悩みを解決させてくれるクレープなんて、こっちにあるわけないし)
「ひいろ、ちょっと来て」
お父さんが厨房から手招きしてきて、ひいろは近づいていった。
「どうしたの……?」
ひいろは厨房に入るなり目を疑った。丸くて平たい金属板がある。
「クレープの生地を焼くやつ!」
「よく知ってるね」
お父さんは感心した顔になった。
「熱を出してたひいろが、うなされながらクレープクレープっていっててさ。だから知り合いにお古を譲ってもらったんだ。うちのメニューも増やせるしね」
ちらりと視線をやったものは、黄色っぽい残骸。生地をうまく焼けなかったようだ。
「知り合いは簡単そうにやってたけど、難しいね。お父さんも、うまくできますようにって頑張ってるんだけど」
黄色くどろりとしたものをお玉ですくう。また作ってみるつもりだろう。
「あたしにやらせて!」
ひいろがそういうと、お父さんは驚いていた。
「いいけど、難しいよ?」
「でも、やってみたいの!」
お父さんはひいろにお玉を渡してくれた。
「まず、それで生地を一杯……」
すぐにお父さんの説明が止まった。もうひいろはお玉ですくったものを金属板に一杯開けて、わきにあった道具を手に取っていた。竹トンボに似たものを。
「あれ、作り方知ってるの?」
「えっと、見たことあって」
ひいろはお父さんに答えるのもじれったく思いつつ、生地を広げた。辺りを見渡して、裏返すために使うヘラを探す。
きれいにできたらかっこよかったが、完成した生地は無茶苦茶だった。焦げているし破けているし、丸くもない。見ていただけと実際に作ったことがあるのは違う。それでもお父さんは感心した顔だった。
「すごいね。お父さんが最初に焼いた生地よりもうまくできてる」
冷蔵庫から生クリームや果物を取り出す。
「完成までやる?」
ひいろは「もちろん!」と答えた。
しばらくして、ひいろは自分の部屋に戻った。
持ってきた皿の上には、自分で作ったクレープ。やっぱり出来は今一つ。欲張って入れすぎた生クリームが生地の破け目からはみ出ている。
「とりあえず、食べてみよう」
ひいろはイスに座ってクレープを食べ始めた。
生地の焦げたところが苦い。生クリームなどの材料はお父さんが用意したものなので、それなりの味。しかし、間違いなくハツユキに作られたクレープの方がおいしい。
(ハツユキは、おいしい生地や材料のいい組み合わせを研究してたはず。生まれ故郷が、クレープで悩みを解決させるケモノビトの村なんだし)
ひいろがクレープを作りたいといったのも、そのことを思い出したから。
(あっちでクレープに魔法の効果があったのは、魔法の素を入れてたから)
指に付いた生クリームを、ぺろりとなめる。
(魔法の素は、人間界から流れてきた感情エネルギー……誰かの願いでできてる)
紙を巻いていなかったので、こぼれた生クリームが服に垂れた。
(それなら、あたしの願いは? あたしの願いがこもったクレープは?)
食べ終えたひいろはすぐに腰を上げた。壁の鏡を外して、机に立てかけてから座り直す。
鏡に映っている顔は、寂しがっているような、ためらっているような、期待しているような、複雑な表情。ひいろの顔――クレープを食べたものの顔。
(〈まじしゃんずきゃっと〉に行きたい……そんな願いのこもったクレープは、魔法の素入りと同じにならない?)
ひいろは深呼吸してから手を鏡の自分へ向けた。
「目覚めよ魔力」
部屋の中が静か――ひいろはここまでの静寂を初めて感じた。恥ずかしさがあふれる。
「やっぱり、こんなことしても……」
今まで生きてきたなかで一番の衝撃がひいろを包んだ。
机の上で光っているものがある。
光はだんだんまとまって、形を作った。肌に伝わってくる違和感がなつかしい。さっきも意識が揺らいだように感じていた。
ひいろはすぐさま『それ』をつかんで部屋から飛び出した。玄関を出て、マンションを降りて、一階にある店のドアを開ける。チリンチリンと鳴った。
中ではお父さんとお母さんが働いていた。しかしひいろを見ない。見えていないからだ。
「よう、ひいろ。何か気づいた顔だと思った」
ウサギ耳の店長――ハツユキが強気そうに笑っていた。来ている客は、犬や猫など動物たち。壊れたはずのドアを開けたりできたのは、人間界に合わせる形で直ったから。
「ひいろぉ!」
すごい勢いで飛びついてきたものがいた。ひいろは驚き、ムギに抱きつかれたのだと気づいた。
「ちょっと……」
「もう僕たちに気づいてくれないのかって、もっと人間のことを教えてほしいと思ってたのにって……!」
もがいても放してもらえない。ムギの顔を見ることもできないが、どうしようもないくらいに泣いていることは雰囲気でわかった。
じたばたしているうちにムギは離れた。その場にしゃがんでまだ泣き続ける。泣きたいのはひいろも同じだが、先に大げさな泣き方をされたので黙らざるをえなかった。
目のやり場に困っていると、スミが視界に入った。ほんの少しだけほほ笑んでいるように見えた。
「ひいろ、お帰りなさい」
「うん、ただいま」
反応はさまざまだが、喜んでくれていることは間違いない。だからひいろは余計に嬉しかった。
「さっき、これが出てきて」
ひいろは握っていたブレスレットをハツユキに見せた。ハツユキはいつもどおりにうなずく。
「アーデルハイトがそれをどうやって手に入れたのかは、わかっていない。もし自分の魔法で作ったのだとすれば、同じ力を持つお前にできてもおかしくない」
魔法初心者のお前が何度も成功させられるとは思えない、今度こそなくさないように。ひいろはそう念を押されながら、ブレスレットを両手で握りしめた。
「また、ここで働ける……」
店の中を見渡したところで、困ったことを思い出した。来ている動物たちの上には、やっぱり何も見えない。
「あの、あたし魔法の素のイメージが見えなくなって」
「お前が困っているところはこっち側から見ていた」
ハツユキは余裕を全く崩さない。
「動物たちを、もっとよく見てみろ」
「え……?」
ひいろは不思議に感じつつもいわれたとおりにしてみた。動物たちの上は変わらない。
(お願い、見えて。ここで働けるように、また魔法の素のイメージを見たい)
しばらく続けてから、この調子ではいけないと気づく。
(ここにいる動物たちも、何かを求めているはず)
そう思うと、数日ぶりのものが浮かんできた。奇妙な花、葉、草など。前よりもくっきりしている。
「見えた!」
気を抜くと、イメージは全て消えた。ハツユキは満足げにうなずく。
「お前は力をコントロールできるようになったんだ。頑張りすぎたのも、悪いことばかりじゃなかったな」
ひいろは気づいた、ここのところの自分は他人を心配するどころではなかったと。
「じゃあ、やっぱりあたしはここで……ハツユキ、相談の動物が来てない?」
ひいろがいきなり発した問いに、ハツユキは楽しそうな笑みを浮かべた。
「お前がいない間も来ていた。戻ってきたら念話を入れてくれ、という動物もいたな」
それを聞いたひいろもほほ笑まずにいられなかった。
「今すぐ呼べない? 今のあたしは魔法を何度も使えないけど、話だけでも聞くから!」
泣き止んだムギも嬉しそうにした。
「そうこなくっちゃ!」
「これで元どおりですね」
スミも静かに見守ってくれている。
ひいろは軽い足取りでカウンターの内側に立った。ハツユキも厨房に入って連絡を始め、念話玉から振り返りつつ親指を立てる。
「この辺りを散歩中の猫がいた。今すぐ来るそうだ」
ひいろはどんどん元気が出てくるように感じた。何匹でも続けて相談を聞きたいくらいだ。学校にもひいろの居場所はあるだろうが、ここも間違いなくひいろの居場所。だからドアが開くとすぐにあいさつした。
「〈まじしゃんずきゃっと〉へようこそ!」
完
ひいろのクレープ 大葉よしはる @y-ohba
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