エピローグ
1 元のままの教室
火曜日の朝、ひいろは遅刻ギリギリの時間に学校の廊下を歩いていた。
このくらいになると、行き来している生徒は少ない。ひいろはもっと急がないといけないが、病み上がりなせいか調子が出ない。
魔法を使いすぎたひいろは、土・日・月と熱にうなされた。まともに動けるようになり始めたのは、昨日のこと。
(あれからどうなったんだろう。教頭先生はまだ来てるのかな)
五年二組の教室前まで来ると、廊下に水槽ごと出されていたキンちゃんがいなかった。ヤミケモノの影響がなくなったから教室に戻されたのだとひいろは気づいた。
重さを感じながら教室のドアを開けた。中に入ると、ヤミケモノが悪さをしている気配はなかった。
ひいろを迎えたのは、想像もしていなかったもの。
「有末だ!」
「心配してたよ!」
生徒たちは先週と違ってみんな来ていて、ひいろに嬉しそうな瞳を集めた。
(どうしてこんなに喜んでるの?)
ひいろは驚きながら理由を考えた。
(あたしがみんなの前でヤミケモノと戦ったから? ううん、あの記憶は消えてるはず)
注目されつつ席に着く。ネネが速い足取りで近づいてきた。
「先週休んでいたわたくしたちがみんな来たと思ったら、昨日はあなただけ休みで」
席が隣の男子も、ひいろに話しかけてくる。
「変なのが見えるとか、何人もいってただろ? お前も遅れてそうなったんだって、みんなで話してたんだ。うちの父さんは、ストレスによるシューダンゲンカクじゃないかとかよくわからないことをいってたっけ」
どうやら心配されていたようだ。ひいろは首を振る。
「あ、あたしはそういうのじゃなくて、ずっと熱が出てて」
「それはそれで大変だったね」
席の近い女子がうなずいた。ひいろはいくつもの言葉を聞きながら、ぐるぐると考えた。
(あたしはクラスですごく好かれてる子なんかじゃない。話すこともできなくて……あたしはみんなと違うから)
クラスメートたちの顔を見ているうちに、〈まじしゃんずきゃっと〉で相談されたことを思い出した。
(悩んでたのはあたしだけじゃなかった。みんなも悩んでた)
みんなと自分の違いは悩みの内容だけだった、という気がしてきた。
(イメージが見えることも、相談を聞いてくれる人がいたのかもしれない。ここがあたしの居場所かどうかなんて、あたしがどう思うか次第だった)
そう気づくと、今まで学校にいるときはありえなかったくらいに心が軽くなった。涙ぐんでしまいそうになったのをこらえる。
「着席!」
聞きたくない声。教頭先生が相変わらずの不満そうな顔で教室に入ってきて、教卓の向こうに立った。生徒たちは静まり返って自分の席に戻る。
「有末、今日は来たのか。ちょっと具合が悪い程度で休んだのだろう。むむ、名札を忘れているな」
「すいません。いつの間にかなくしてて」
姿を見られるなり怒られたひいろは、いいたいことを頭の中で駆け巡らせた。自分は本当に具合が悪かった、そうなったのはあんたがここで不満をばらまいていたせいだ、と。
「まったく、どうして私がそのようなことをいってやらないといけないんだ。君たちのために教師をしているわけではないのに」
教頭先生をこのままにしていたら、またヤミケモノが生まれるかもしれない。ひいろはすぐさま立ち上がろうとした。そうしなかったのは、単に体調が悪いせいだ。
「それなら教師をしなくていいです。この教室では」
その声は、教頭先生に閉められたドアがまた開けられると同時に聞こえた。ひいろたちはみんな目を見開く。
「祭部先生だ!」
担任の祭部先生が、ゆっくりと教室に入ってきた。
いつもとは様子が違う。片腕に包帯を巻き、片足にギプスを付け、松葉杖をついていた。頭にも包帯、頬には大きな絆創膏。服も入院着だ。
何より違うのは、顔つき。いつも笑顔なのに今はキリッとしていて、教頭先生をにらんでいるようでもある。
「教頭先生。私がいない間、ありがとうございました」
教頭先生は、祭部先生を見てあきれた顔をする。
「もうしばらく休むと聞いていましたが」
「平気です!」
祭部先生はどこかに響いたのか痛そうな顔をしたが、ひるみはしない。松葉杖でずんずんと教頭先生に迫っていく。
「ここは私のクラスです。だからこの子たちは私が面倒を見ます」
むしろ教頭先生の方をひるませている。
「教頭先生は、ご自分に必要なことをなさってください!」
すると、教頭先生はいらついた様子になりながら教室を出ていった。力任せにドアが閉める。足音が遠ざかったところで、ひいろたちは一斉に喜びの声を上げた。
「すごいぞ祭部先生!」
「かっこよかった!」
祭部先生本人は、誇らしげにしない。
「やだもう、あんなことをいうなんて! すごく怖かったんだから!」
今ごろ涙をにじませる。ひいろたちは笑ってしまったが、祭部先生は心配げな顔をした。
「そんなことより、みんな大丈夫? 集団幻覚が何とかって聞いて!」
全員呆気に取られたが、誰かが答えた。
「それ、もう終わったよ」
「そうなの?」
祭部先生は、きょとんとしていた。
「不思議な話だけど……病院にいたらハトが飛んできて、これを落としていったのよ」
ポケットから取り出したものは、ひいろの名札だった。ひいろに手渡し、ためらいながら語る。
「気になって友達の先生に電話したら、教頭先生がクラスに来てみんな幻覚を見るようになっちゃったとかいわれて……先生心配してたのよ?」
生徒たちは「鳥使いかよ」と首をかしげたが、ひいろはどういうことかわかった。
(きっと、ハツユキがお客さんのハトに頼んで名札を持っていってもらったんだ)
祭部先生の入院先を調べる方法もあったと、ひいろは寝込んでいる間に悟っていた。
職員室には、入院先の電話番号などのメモが置いてあるはず。ケモノ界なら、堂々と入っていくらでも探せる。
(祭部先生はケガしてるのにここへ来ずにいられなくなっちゃったから大変だけど、教頭先生をほっとくわけにはいかないしね)
他の生徒も、祭部先生が来なくなったら教頭先生復活とわかっているようだ。
「祭部先生があんまり動かなくていいようにしようぜ!」
「黒板に書くことは祭部先生から前もってノートとかにメモしておいてもらって、それを私たちが交代で黒板に移すのはどう?」
「体育は見てもらってればいいだろ。元々運動オンチで大したこと教えられなかったしさ!」
笑いが起きて、祭部先生は頬をゆるめたり膨らませたりした。
(教頭先生も、いつかこの中に入れるといいね)
とりあえずこれでキンちゃんも安心と、ひいろは水槽を振り返った。
中でキンちゃんがぴちょんと跳ねる。もうハーメルンフエノキの実は見えない。
前からあった水草も、ひいろには見えなかった。窓の外にハトがいたが、ひいろの目はその上にも景色しか映さなかった。
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