第1章 角姫 5
……推参な田舎侍奴!
そう内心で毒吐きながら角は目の前の男を鋭く睨みつけた。
きっかけはまことに些細なことだった。鎌倉殿御前の武芸披露を数日後に控え、その日は今一つ弓の調子が芳しくなかった上に朝から体調もあまりよろしくないときて、ただでさえ虫の居所が悪いところに偶々的場の傍を通りかかり迂闊な口を挟んできた見ず知らずの相手に癇癪を起こし、無礼者奴と姓名を問うてみると奥州の藤原何某と名乗ったものだから猶の事激情の火に油を注いだ。角達越後城氏からすれば恨み重なる奥州藤原氏である。名を耳にするのも腹立たしい。
「知った風な口を利かれるが、貴公に弓の何が判ると申すのか?」
フン、と角は鼻で嘲笑いながら、今まで角が弓矢の的に追いかけまわしていた子犬を抱きかかえ困ったように立ち尽くす侍に凄みを利かせ問いかける。
「仰る通りじゃ。身共には越後に名高き姫殿の武芸に意見できる口などござらぬよ」
悩まし気に眉を寄せながらヨシヨシと子犬をあやして見せる。一々癇に障る男である。
「しかし、端から見ていると、どうも御自身の鬱屈を子犬相手に当たり散らしているようで、流石に見かねてな。何卒無礼を許されたし」
「……貴公の言、妾への愚弄と受けたぞ」
ぎり、と角が奥歯を軋らせた。
「貴公もそこに抱いているのと同じ奥州の負け犬風情じゃ。その犬ころ諸共に犬追いの的にしてくれるが、良いな?」
弓に番えた矢を向ける娘の激昂を前に、男が表情を変える。
「滅相もない。剣呑な真似は止されよ。それに、」
だがそれは角の怒りに対する恐れや怯えの表情ではなかった。
「弓とはそのように射るものではない」
しゅっ、と男の頬を掠める矢を避ける素振りも見せずに男が語りかける。
(この男……!)
端から当てるつもりなどなかった。
しかし、どう見ても今のは角が射る前に射線を読まれていたとしか思えない。
辛うじて顔には出さずに済んだものの、角は内心で目を剥いていた。
「あ、謝るなら今のうちじゃ。次は避けられぬぞ!」
「矢の先に囚われるな」
ちり、と男の耳たぶの端を矢が掠め血が飛び散った。
「この……!」
読まれている。今度こそ確信した。相手は只者ではない。
いつの間にか今まで抱いていた男への怒りを忘れ、代わりに得体の知れぬ焦燥感の方が募り、身体中に冷や汗を滲ませながら更に弓を番える。
「思い上がるな俘囚風情奴!」
そう口にしかけた矢を番う手が不意に滑った。
(しまっ――!)
パアァァンっ! と放たれた矢が男の額に命中する。
「……今の矢は良かった。冷や汗が出たぞ」
蒼白になって駆け寄ろうとする角の前に男が寸でのところで捕まえた矢をポイと放り捨てる。
「見給えよ、犬ころのくせにゴロゴロ喉鳴らして眠ってしまったぞ。いやはや」
へたり込んだ角の前にしゃがみ込み片手に抱いた子犬を見せる。呆然としたまま思わず弓を傍らに置き両手で子犬を受け取ると、確かにゴロゴロと喉を鳴らしながら角の腕の中で寝返りを打ち白い腹を晒して見せた。
「本当じゃ猫みたいじゃ」
思わず呟く娘に男は苦笑しながら頭を下げた。
「三番目の兄が無類の動物好きでな、よく野良犬やら魚介類やら得体の知れぬ生き物を拾ってきては平泉の屋敷で世話をしていたのを思い出してのう。つい子犬を不憫に思い無礼な口出しをしてしまった。改めてお詫びいたす」
そう言って謝罪するも、既に娘の怒りは収まっている。
やがて娘が口を開いた。
「……城九郎資国娘、
顔を上げ、男の顔を改めて見つめる。
「貴公のお名前、今一度聞いても宜しいか?」
娘の問いかけに、男は笑顔を見せながら答えた。
「で、では高衡殿?」
言葉を紡ぐのももどかしく娘が勢い込んで男に聞いた。
「この子犬の名前、如何しようか――?」
「うふふふふふふふ」
建久一〇年某月某日夜半、越後国蒲原郡城氏居所。
自室にて、角は一人思い出し笑いをしていた。
「なんじゃ、気色悪いのう」
偶々部屋の前を通りかかった長茂が、薄気味悪そうに年の離れた妹を見て呟いた。
結局その子犬は、越後に連れ帰って幾年か過ごした後に死んでしまったが、それ以来角は犬追いをぱったりと止めてしまったという。
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