第5章 衣川の戦い 1
一、
同日、衣川高館序の口
長い冬が終わり、春の息吹を感じさせてくれるのは、眩く鮮やかな萌黄色に芽吹く木々の若葉と、足元に顔を覗かせる蕗の薹の花。そして所々に目を引く薄桃色の山桜の花。
北国の遅い春が、この平泉にもようやく訪れていた。
暖かな春山の景色に満ちた細い小道を、馬から降りた戦装束の武者たちが薙刀を構え、刀を抜き、或いは弓に矢を番え、周囲の気配に耳を欹てながら登り行く。
先頭を行く長崎太夫之介のすぐ後ろにつきながら皆鶴も腰に下げた太刀の柄に手を掛けながら辺りを見回していた。
冷たさの残る微かな朝風に、熊笹の茂みが音もなく揺れている。聞こえてくるのは、背後から続く笹薮を踏みしめ進む友軍勢の気配のみである。
(……静か過ぎる)
「太夫之介様」
「判っておる」
声を潜めて囁く皆鶴に、長崎も頷いて見せる。
「……何処かからは知らぬが、こちらの様子を伺っておる。皆、努々油断するな」
後に続く兵達も無言で頷く。
突如、けたたましい鳴き声を発しながら真っ白な鷺が木の枝から飛び立った。
無言のどよめきが起こる。
「……鳥起者伏也。獣駭者覆也」
皆鶴が、独り言のように小さく呟いた。
はっとして長崎が叫んだ。
「備えよっ!」
同時に茂みから幾本の矢が放たれ、長崎の頬を掠め、後方の徒兵三人が倒れ、または膝をついた。
一斉に鬨の声が四方から上がり、無数の矢が奥州勢に降り注いだ。
「怯むな、走れ!」
先頭の将の一喝で、怯えて身を伏せていた兵たちが鬨の声を上げて駆け上がった。
殆ど実戦経験のない奥州軍に対し、小勢とはいえこれまで幾度もの源平合戦を潜り抜けた義経以下郎党たちである。次々と泰衡方の兵達が矢に討たれ倒れていく。それらを飛び越えながら高館を目指し進撃する。
「いたぞ、真上だ!」
指さし叫んだ兵が目を射られ倒れ伏す。
木の上に潜んでいた義経方の兵が弓を放り雄叫びを上げながら徒兵の群れの中に飛び降りた。
飛び降り様に抜き放った太刀に真っ二つに断ち割られた兵士が血飛沫を上げて倒れ、それを見た数名の兵士が悲鳴を上げて腰を抜かす。返しの刀で二人の兵が斬り倒された。
たった一人の敵兵の出現に、奥州勢の多くが動揺し、狭い小道が混乱に陥った。
「腰抜けの蝦夷共が!」
返り血に染まった顔を凄まじく歪めながら敵の兵が叫ぶ。
「誰か俺と勝負をしようという剛の者はおらぬのか!」
たじろぐ奥州兵を前に義経兵は獰猛に吠える。
「由利八郎、参る!」
薙刀を振りかぶり八郎が斬りかかった。
「うおっ……!」
予想外に鋭い打ち込みに膝を崩した義経兵、伊勢三郎義盛の首が二の太刀目で宙を飛んだ。
血を吹きどうと倒れる敵の死骸を前に、荒い息を吐く。
「これが戦か。……なんと惨いものか」
薙刀の柄を握る己の手の震えを見つめながら、八郎は呟いた。
長崎の後に続いていた皆鶴の傍らで、突如ぱっと茂みの笹の葉が弾け飛び、覆面の首筋目掛けて薙刀の白刃が唸りを上げた。
「な……!」
その一撃で仕留めたと思ったのだろう。奇襲を受けた覆面の武者に目にも留まらぬ身のこなしで渾身の奇襲を躱された義経兵が一瞬仰天の表情を露わにした。
驚いたのはそれだけではない。敵の白刃に身を翻し後ろに飛び退った武者が杉の幹に垂直に着地したかと思うと、その勢いで幹を蹴り飛びこちらに斬り込んできたのだからたまらない。慌てて構え直した時には既に鼻先に武者の吐息がかかるほど覆面の双眸が眼前に迫っていた。その武者が、己の構えた薙刀の切っ先に爪先で飛び乗ったのを見て二度目を剥いた。
(この身のこなし――まさか八艘飛びか!?)
「なぜお前が義経様と同じ――」
義経郎党、備前平四郎の驚愕の叫びは、振り下ろされた太刀の一閃により兜と共に断ち割られた。
先頭を進んでいた長崎以下十余名は高館を前にして足止めを受けていた。
屋根の上から射かける敵弓手に頭を押さえられ茂みから身動きをとれず、忌々しそうに長崎が舌打ちをする。
その隣にいた配下の一人に敵の矢が突き刺さり、長崎は慌てて身を竦め、悪態吐いた。
そこへ皆鶴が到着する。
「このまま這いつくばって敵の矢が尽きるのを待っていては、後詰と合流する前に全滅してしまう。なんとかせねば」
(……あの頭巾の武者、もしや女人か?)
射線に現れた皆鶴に狙いを付けた義経郎党喜三太が、おや、と首を傾げる。
(女人を殺めるのは後生が悪いが……許せ。我が御君を御守りする為じゃ)
ふいに頭巾の武者がこちらに顔を向け、喜三太と目が合う。
南無八幡。そう呟きその眉間目掛けて矢を放った。
バシッと音を立てて矢が散った。
「……なんと!」
それが覆面の武者が己の弓を振り眼前に迫る矢を弾き返したものと知った喜三太は思わず屋根から立ち上がった。
「お見事!」
歓声を上げる喜三太の眉間を皆鶴の矢が貫き、喜三太は満面に賞賛の気色を浮かべたまま屋根から転げ落ちた。
敵の奇襲を振り切り、由利八郎らが長崎太夫之介らと合流した時には雑兵含め十人にも満たぬ数となっていた。
「ここに至るまでに六人の敵を討ち取りましたが、こちらは五十人近くやられておる。流石に手強い」
「いずれ本隊が到着するだろうが、それまでこの人数では心許ない。鏑矢の用意を致せ」
長崎が泰衡ら後詰方へ援軍要請の合図を指示しようとしたとき、ふと、きな臭い匂いに気づいた。
「太夫之介様、あれを!」
鏑矢を番えた徒兵が高館を指さす。
屋敷から黒煙が上がっていた。
呆然とする一同の前で瞬く間に屋敷中から炎が上がる。
「まさか……自害するつもりか?」
立ち竦む長崎の横を皆鶴が駆け抜ける。
「そんなことはさせぬ!」
叫びながら屋敷へと走る皆鶴の前に二人の義経兵が立ちはだかった。
「我が御君の邪魔だてはまかりならぬ!」
大柄の僧兵が恐ろしい形相で薙刀を振りかざす。
「皆鶴殿!」
駆け寄ろうとする長崎の前に敵の老兵が立ち塞がる。
「源九郎が腹心、十郎権頭兼房なり。藤原の武将よ、ここから先へは通さぬぞ!」
八郎が薙刀を構えながら皆鶴の下へ駆け付けた。
「此処は我らに任せて、先へ行かれよ!」
「由利様、忝い!」
「おのれ、行かさぬぞ!」
唸りながら白刃を振るう僧兵に雄叫びを上げながら八郎が斬りかかる。
その剣戟を背中に聞きながら皆鶴は炎の上がる高館へと飛び込んでいった。
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