第4章 前夜 5
五、
同年 閏卯月 伽羅之御所、早朝。
戦装束を整え、父から託された太刀を腰に差した皆鶴に、泰衡が直々に兜を授ける。
「この兜は忠衡のもの、甲冑は通衡の遺品じゃ。そなたは女人にしては背丈がある故、寸法は申し分ないようだな」
泰衡が満足そうに言う。
「我らは泉之館鎮圧の他、誰も殆ど戦の経験がない。幾多の修羅場を潜り抜けたそなたが頼みじゃ。長崎の後ろに付いておれ。……のう、里よ、なかなか勇ましい巴御前ではないか?」
「まこと、頼もしゅうございます」
皆鶴の武者姿を見るなり顔を伏せる。
「……皆鶴、少しだけ、待っていておくれ」
そういうと、顔を伏せたまま北の方は奥へと姿を消した。
「兄上、そろそろ宜しいか?」
「うむ。済まぬが先に行くぞ」
高衡の催促に頷きながら泰衡が屋敷の外へ退出する。高衡は何か言いたげにちらりと皆鶴に視線を残し、兄の後に続いた。
後には皆鶴だけが残された。
ふわり、と皆鶴の前に桜の花びらがひとひら舞い落ちる。
平泉では、例年よりもやや早い桜の見頃が訪れていた。
桜が過ぎれば、やがて菖蒲の花、そして長い梅雨が過ぎれば蓮の花が奥州の季節を彩る。
何とひととせの過ぐるは早いことか。
皆鶴は眩しそうに目を細めながら門前に咲く最果ての地の桜を仰ぐ。
……これが、最後の桜になるかもしれぬ。
「皆鶴」
ややあって、北の方が小さな錦の小袋を手に現れた。
「御前様。それは?」
「随分迷ったのだけれど。……皆鶴、これをお持ち」
手渡された小袋を皆鶴がまじまじと見つめると、きっ、と北の方は厳しい表情を向けた。
「……お前、死ぬ気でしょう? いえ、死んでもよいと思っているでしょう? 駄目よ。妾が許さないわ」
「御前様……」
困った顔で北の方を見つめる皆鶴を、怖い顔のまま北の方が睨んだ。
「それは、去年この伽羅之御所の池に咲いた蓮の実じゃ。お前がこの戦で自分の役目を果たした後に、再び御所へ戻ってこられるよう、お守りとして持ってお行き」
北の方の声に、震えが混じる。
「その蓮の実には、お前がこの地に蜂巣の根を下ろし、やがて来る初夏には可憐な花を開き、この平泉で実を結ぶよう、その祈りを込めました。……皆鶴、お前の命は、もうお前一人だけのものではない。我ら藤原一門、我ら奥州の民の絆とともにある。決してその命、粗末にしてはならぬ。死んでも良い、という目をしてくりゃるな」
怖い顔で睨みつける北の方の双眸から、ぽろぽろと涙の雫が零れ落ちる。
「お前は妾の妹。妾はいつまでもお前と共に居りたい。かけがえのない妾の家族。妾の、妹じゃ」
くしゃ、と北の方の顔が歪み、鎧姿の皆鶴を掻き抱いた。
「死なないでおくれ、必ず帰ってきておくれ! 皆鶴、皆鶴っ!」
「御前様……お姉様」
涙に咽ぶ北の方を、皆鶴もはらはらと涙を流しながら抱きしめる。
「お姉様……お姉様!」
市中を行軍する騎馬の隊列を、市井の民たちは不安げな眼差しで見送っていた。
忠衡の蜂起から二月と経たぬうちに再び武装した騎馬武者達の隊列を目の当たりにし、民たちは心穏やかならぬ様子で囁きかわした。
「……思えば、この平泉に初めて九郎殿を迎えた日から、随分歳月が経ったものじゃ」
弟の栗毛に轡を並べながら国衡が笑う。
「俺は逢うたその日から喧嘩ばかりしておったな」
手綱を握ったまま泰衡が頷く。
「三郎は泣かされてばかりおったな。いつもべそを掻きながら九郎殿の後ろをついて歩いておった。真の兄弟のようじゃった」
しみじみと言いながら、ふと悲しげに国衡は顔を曇らせる。
「頼朝が挙兵し、勇んで平泉を出立した九郎殿を皆で見送った時は、まさか我らが九郎殿を攻めることになろうとは思いもよらなんだな」
「……また、俺は兄弟をこの手に掛けようとしているのだな」
泰衡が呟く。だが、その顔は心を決めた後の穏やかなものだった。
「次郎よ、我らが九郎殿を討った後、鎌倉はどう動くと見るか?」
兄の問いに、泰衡は肩を竦める。
「戦は避けたいと思う。しかし所詮、我らは最後まで啄木鳥の前の虫けらに過ぎぬ。どう動こうと、鎌倉は我らを啄みに掛かるに違いない。朝廷は止めようとするだろうが、いずれ必ず打って出るだろうよ」
悲観的な己の言葉とは裏腹に、晴れがましく笑った。
「だが、正直これ以上だんまりを決め込むのはうんざりしておった。ここに三郎や五郎達がおれば、さぞ楽しかっただろうにと思うよ」
「皆鶴殿」
呼びかけながら、高衡が後ろから馬を寄せてくる。
初めてこの地を踏んだ時と同じ真っ黒な頭巾を被っていた皆鶴が、馬を進めながら振り向いた。
「身共は、其許に詫びなければならぬ」
「?」
首を傾げる皆鶴に、高衡は頭を下げた。
「其許と初めて逢うた時、身共は随分と無礼な振る舞いをしてしまった。奏楽の最中に剣の手合わせを申し込むなど、今思うと汗顔の至りじゃ」
「いえ、私は楽しゅうございました」
頭巾の中でにっこりと微笑む。
暫し逡巡の後、高衡が再び口を開く。
「……皆鶴殿、この戦が終わり、奥州が平穏を保つことが叶ったら、身共を鞍馬山に案内してくれぬか? 其許の生まれ育った故郷を、是非一度訪ねてみたい」
高衡の眼差しを受けながら、皆鶴は頷いて見せた。
ぱっ、と高衡が顔を輝かせる。
「本当か、約束だぞ!」
「はい。お約束します」
喜び勇んで高衡は威勢よく馬を走らせた。
泰衡勢は、もう間もなく高館に達しようとしていた。
衣川高館は、東側に北上川を、西側に平泉市街を、南北に奥大道を一望に見渡せる小高い丘の上にあった。四方何処からも敵勢が近づけば、すぐにその動向を伺うことが出来る立地だった。
最初、夜討を仕掛ける提案もあった。しかし闇夜に大勢で山攻めを行えば、敵の奇襲に撹乱され、同士討ちの懸念がある。それに、泰衡達の目標は義経只一人。戦の混乱の中闇に紛れ逃げ出されては元も子もない。
協議の末、決行は早朝。明け方までに衣川関をはじめとした奥大道周辺、また北上川河岸周辺、並びに高館の周りを囲むように兵の配置を完了し、本隊は正面から高館を攻撃する。泰衡方総勢、およそ五百騎。図らずも義経郎党の内十一名がこの日の朝に山寺参詣に外出しており、高館に残る敵勢は十名程度と見たが、鎌倉方の増援を警戒し兵数を揃えた。
泰衡勢は長崎太郎太夫之介以下五十余名が先陣を切り、一気に高館を攻める。
時に文治五年(一一八九)、閏四月三十日。
後世にその名を残す衣川の合戦が、この日、幕を開けた。
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