第2章 蓮華の宴 9



 同日夕刻、奥大道月見の坂。



 その日の夕刻、泰衡に散歩に誘われた皆鶴は、二人で馬を並べ奥大道を北へ向かっていた。

 最初院、またの名を中尊寺といわれる荘厳な仏閣の佇む沿道は月見の坂と呼ばれ、この時代は奥大道として人々が賑やかに行きかう主要幹道であった。

 参道口で馬を降り、中尊寺阿弥陀堂境内に辿り着く頃には善男善女の参詣者も絶え、金鶏山に沈みゆく落陽が阿弥陀堂の黄金一色を眩く照らしていた。


「これは……」


 皆鶴は息を呑んだ。

 遠き奥州の地に全てを黄金で装飾された阿弥陀堂が建立されているという御伽噺のような話は鞍馬にいた頃から耳にしていた。まさかそれが実在し、目の当たりにする日が来ようとは。

 見事に装飾された堂内には阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像をはじめ、十一躯の仏像が配されており、夕刻の薄闇の中においてさえ光り輝く美しさに皆鶴ははらはらと落涙した。

「我が曽祖父藤原権太郎清衡が、前九年・後三年の合戦をはじめ、この地で戦により命を落とした者達の菩提を弔い、千歳ちとせ先までのこの世の安泰を願い建立したものじゃ。前九年合戦で父を失い、後三年合戦で妻子を失い、その敵として弟を討つことになった清衡公が、四海の民らが二度と戦で命を落とし、悲しむことなきようにと、この平泉の地に浄土の礎を築こうと祈願されたのがこの阿弥陀堂じゃ」

「……これほどに美しいものは見たことがございませぬ」

 暫しの沈黙の中、二人揃って阿弥陀如来に掌を合わせた。


 日没の闇の堂内に灯を点し、人払いを済ませた後に、二人は座して向かい合った。

「さて……皆鶴殿」

 皆鶴の真直ぐな眼差しを見つめ返しながら泰衡は口を開いた。

「そなた、人を斬ったことはあるか?」

「はい、ございます」

 躊躇うことなく皆鶴は答えた。

「……やはり、戦でか?」

「九郎殿の消息を追う最中に合戦に巻き込まれたこともございます。道中、幾度か辻取に遭うたこともございます。いずれも止む無く斬りました。幾人斬ったかは覚えておりませぬ」

 その有様が蘇ったか、表情を動かさぬまま、ぎり、と膝の拳を握り締める。

「そうか。……許せ、詰まらぬことを問うた」

 深い息を吐きながら泰衡は詫びた。やがて、

「皆鶴殿。我が奥州は戦を知らぬ」

 蝋燭の仄明るい灯に浮かんだ陰影が、言葉を紡ぐ泰衡の顔の上でゆらゆらと揺れる。

「清衡公が後三年の戦を収めて後、一族の小競り合いは幾度かあった。しかし民を巻き込む大きな合戦はこの百歳ももとせ、一度も起こらなんだ。平治の乱、源平の合戦、国を動かす大きな戦火に京や坂東、西国が大いに乱れる最中にも、父秀衡公の御裁量により辛くもこの奥州は安泰でいられた。だが秀衡公亡き今、嘗てない坂東の脅威を前に我らは為す術を知らぬ。今こそ国衡、忠衡ら兄弟の力を結集し、鎌倉に対抗すべき時であるはずが、ただ徒に我らの思惑は二分三分するばかり。その歪の中心に居わすのが、そなたの探し求める九郎義経殿なのじゃ」

 泰衡は更に問う。

「皆鶴殿。改めて尋ねたい。其許の目的は何か。秘伝書を持ち去られたと申しておったが、そなたは昼間四郎に剣の奥義を伝授しておった。あの秘剣をも超える秘伝ということか。戦乱の中、女人一人の身を危険にさらしてまで九郎殿を追う理由とは如何に?」

 ちらりと娘が座右に添えた太刀に目を遣る。どれほど腕に覚えありとて妙齢の娘一人、身に帯びるは一振りの太刀のみ。弓矢飛び交う合戦の狭間を、どれほどの危険を冒してこの道の果てまで辿り着いたのか。

 娘が口を開く。

「……『鞍馬くらま六韜りくとう』。秦代に編まれた武経七書のうち、人心を惑わすものとして特に禁書とされた『六韜』に我らの開祖が注釈を加え代々秘匿していたものでございます」

 皆鶴は目を伏せた。

「全ては私の不届きが招いたこと――」



 その少年は遮那王と名乗った。少年数え年十一、皆鶴九つの頃である。

 毎日、坊主たちの目を盗んで東光坊を抜け出しては僧正ヶ谷へ通い、杉の大木に「清盛奴、重盛奴!」と棒切れを振りかぶり打ち掛かる少年の様子に心を動かされた鬼一法眼は、弟子たちの中から生え抜きの者八人を選び、少年の師範とした。

 父の下で呪禁や五行占霊を、また心身の修行のためにと剣術を学んでいた幼い皆鶴は、やがて少年に混じって共に鞍馬の天狗たちから教えを受けるようになった。

 いつしか少年は元服間もない青年となり、少女は娘盛りとなり、二人は想いを交わし逢瀬を重ねる仲となった。

 そして少年十六を数えた或る逢瀬の夜、少年は初めて少女に身体を求め、少女もそれに応えた。

 初めて情を交わす睦言の中で、少年はその書物の所在を問うた。少女も初めて味わう歓びの中で、父から語ることを戒められていた書院の場所を口にしてしまった。


 明くる朝、少年は鞍馬を出奔していた。


 少女は懐刀を胸に父に事の次第を告げに赴いた。全て話した上で自害するつもりだった。全ては自分の不届きが招いたこと。少年に咎はない。

しかし、父法眼は娘から懐刀を取り上げると、こう告げた。

 あの書は遠い昔唐土の黄石公が太公望呂尚の兵法を記したもの。その教えに従えば飛翔の術を得、百の谷を越えんとすれば野鹿のように駆け下ることができ、また海を渡らんとすれば鴎のように千艘の船縁を跳び渡ることもでき、兵を起こせば万の首級を上げることができよう。ゆえにその教えに溺れる余り己に自惚れが生じれば、やがて戦に溺れ業に溺れ、いずれ天下の平安は乱されよう。それを危惧した時の中納言大江維時卿は我が一党にこの書の封印を託されたのだ。皆鶴よ。

 法眼は懐刀の代わりに大振りの太刀を娘に授けた。

 只今を以てお前を鞍馬一党から放逐する。必ず遮那王を見つけ出し、己の目で見極めよ。

 もしあの童が禁書の教えを天下泰平の為に用いていればこれに仕え、よく助けよ。或いは業に溺れ世を乱すような振る舞いを為せば、これを斬れ。その後は好きにするがよい。いずれ我が一党の前に二度と姿を見せてはならぬ。



「――それから十余年、世の中は戦で溢れておりました。一の谷、壇之浦、源氏の戦と聞けば幾百里離れていようと駆け付けました。戦の後で耳にするのは九郎様の御活躍。それはあの書の由来について、父が語っていた通りのものでございました。やがて平家が滅びた後も世は乱れたまま、飢饉に苦しむ人々、狼藉を働く雑兵たち、女一人の道行きと知ればたちまち襲い掛かる野盗の群れ。たまらず男装に身をやつし、漸く京に九郎様の消息を知り、辿り着いた時には既に豊後へ立たれた後。また豊後に至った時には再び京へ。そして遂に和泉にて、九郎様が鎮守府将軍藤原秀衡様を最後の頼みとして奥州に向かわれたという確かな報せを聞き、難波から海路を経て陸奥国気仙沼の母体田に辿り着いたのです」

 そこまで語り終えると、傍らの太刀を手にし泰衡の前に翳して鞘から白刃を晒して見せた。

「これは鞍馬を放逐された際に父から授かった太刀。磐井郡舞草の鋼を刀匠出羽鬼王太夫の手により鍛えられたものとか」

 ふ、と皆鶴が翳りを含んだ微笑を漏らす。

「考えてみれば因果なもの。門出の手向けに賜ったものが終着の地の砂鉄から生まれた代物とは」

 皆鶴の話を静かに聞いていた泰衡は、厳しい顔をしたまま問いかけた。

「して、九郎殿に逢うたら如何に振舞うつもりか?」

「只今申しあげたとおりにございます。良き行いを為せば仕え、そうでなければ斬ります」

 はっきりと告げた。

 泰衡は重ねて問う。

「その後は、どうするつもりか?」

「それは……」

 言葉に詰まる皆鶴に、泰衡は穏やかに言った。

「皆鶴殿、我が藤原一門に加わられよ」

 驚く皆鶴に、泰衡は笑いかけた。初めて彼女に向ける、真からの笑顔だった。

「御父上曰く、よく仕え、よく助けよ、とのことだが、九郎殿が我が一門の食客であるならば、いずれその郎党となるそなたも我が藤原家の家臣格同然。何も支障はあるまい?」

「っ!」

 はっと息を呑んで皆鶴は腰を浮かした。

「それでは泰衡様、九郎様はこの地に!?」

 意気込んで詰め寄る皆鶴に泰衡は頭を下げる。

「今まで偽りを申していて済まなかった。九郎殿は衣川の高館に匿われておる。基成殿のすぐ近所じゃ」

 ふ、と力が抜けたように呆然となる皆鶴。


「――やっと。……ああ。やっと、私は辿り着いたんだ」


 皆鶴の満面に安らかな笑みが浮かぶ。

 やがて、娘の両目から堰を切ったかのようにぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「……う、うあああ」

 泰衡の前であることも憚らず、声を放って号泣した。

「うああああん、うあああああん……」

 無理もない。と女童のように泣き崩れる皆鶴を胸に抱き、宥めながら泰衡は苦笑する。

(これまで、さぞ辛い旅だっただろう。心細かったろう。この娘は、漸くこの平泉の地で報われたのだ)

 娘の頭を撫でながら、泰衡までもが目頭を熱くする。

 さて、と穏やかな顔をやや引き締め、泰衡は告げた。

「しかし、まだそなたを九郎殿に逢わせるわけにはいかぬぞ。この不穏な情勢の最中に、逢うていきなり九郎殿をバッサリ斬られては堪らぬからのう」

 涙を拭い鼻を啜りながら、皆鶴はコクコクと頷いた。



 堂を出、馬を繋いだところまで戻ると、何やら騒がしい。

「一体何の騒ぎじゃ?」

 首を傾げる泰衡に、皆鶴が声を上げる。

「泰衡様、あれを!」

 指さす向こうを見ると、冬の夜空が仄かに紅い。

「あの方角は……まさか毛越寺か!」

 その時、一人の若い寺法師が息せき切って駆け寄ってきた。

「御館様っ、大変でございます!」

「何事じゃっ!」

「急いでお戻りくださいませ、観自在王院が火事でございます! 尼様が!」

「何、祖母様が!?」


 

 急いで馬を駆り、観自在王院に辿り着く頃には、既に火は消し止められた後であり、一族郎党の主だったものは皆参集していた。

「祖母様は無事か!」

 鞍から飛び降りるや否や、焼け跡に立ち尽くしていた国衡に駆け寄った。

 だが国衡は首を振った。

「寝殿伽藍は無事じゃ。焼けたのは離れの庵のみ。だが祖母様はそこに居られた……」

「……!」

 泰衡はその場に膝をついた。

 少し離れたところでは顔を覆う通衡を高衡が慰めている。その目にも涙が光っている。

 ある者は火事場の後始末に追われ、ある者は呆然と立ち尽くしている。

 その中から、静かに歩み寄るものがいた。

「――兄上、今まで何処に居られたのじゃ?」

 ぞっとするほど静かな怒気を孕んだ声だった。

 その声に、通衡も泣き腫らした顔を上げ泰衡を見る。

「三郎……?」

 只ならぬ気配に駆け寄ろうとした国衡さえ、言葉を呑んで後ずさった。

 それほどに凄まじい剣幕だった。

「これは兄上の仕業にござろう?」

「……何だと?」



 文治四年十二月二十二日、藤原基衡室、三条院官女於子弥、死去。

 正史には、藤原泰衡に謀殺さる。と記されている。



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