第2章 蓮華の宴 3

 三、


 毛越寺の宴が開けて一夜の後、夢から覚めたような昼下りである。

 泰衡の子供たちが午睡に就いた後、皆鶴はぼんやりと濡れ縁に腰掛け伽羅之御所の池を眺めていた。

 水鏡に夏空を映す池の水面には千切れ雲のように幾つもの蓮の花が浮いている。

(一体、九郎様は何処に?)

 まさかこれ程の公衆の渦に紛れ込んで来るはずもあるまいとは思いながらも、昨日の饗宴の中にも目を走らせてみたが、矢張りそれらしき人の姿は見いだせなかった。ただ北の方が貸してくれた典礼用の女房装束が窮屈だった。

 既に平泉に滞在し八ヶ月を数えている。未だ泰衡達から消息も伝わらない。

「何を見ていたのかえ?」

 いつの間にか北の方がすぐ後ろで小首を傾げていた。

「蓮の花を見ておりました」

 面を伏せ皆鶴が答える。

「都のものにはとても及ばないでしょうけれど、平泉の蓮華も見事でしょう?」

「昨日観覧した毛越寺の蓮の花は、まるで現に浄土の夢を見ているようでございました」

 心の底からそう答えると、北の方はにっこり笑う。

「おまえには蓮の花が良く似合うわ」

「そうでしょうか」

 何と言っていいものか困っていると、

「ちょっと待っていて頂戴」

 何を思ったか濡れ縁から庭に降り、池の方へと歩いていく。

「あ、いけません御前様!」

 高貴な女性の所作ではないと慌てて止めようとする皆鶴に構わず、池の渕に咲いていた蓮の花に手を伸ばす。水面が揺れて荷葉の上の蛙がポチャリと池に飛び込んだ。

「開きかけの小さなものだけれど、かえってあなたに良く似合うわ」

 差し出された薄桃色の小さな蓮華を受け取る。手のひらに収まるような可憐な蕾。

「勿体のうございます」

 恭しく受け取り、立ち上がった皆鶴を見上げて、ふと北の方が微笑む。

「今更だけれど、お前は随分背が高いのね? 何だか御館様と話しているよう」

「よく九郎様にも揶揄われておりました」

 苦笑しながら、ふと幼少の頃に見た鞍馬山の憧憬が頭を過る。


 ――この背比べ石を僕の背丈が超えるまでに剣を極めたいと思っておる。

 ……まだあどけなさの消えぬ遮那王と呼ばれていた頃の義経が石を指さした後でプンプンと恨めしそうに幼い皆鶴を睨む。

 ――なのになんじゃお前は、僕より剣が下手なくせにもう石を追い越しおって!


 不意に御所の何処かから聞こえる笛の音に皆鶴の回想が中断される。

「あら珍しい。あの人が笛を吹くなんて」

「――っ!?」

 間違いない。

 顔色を変える皆鶴の様子に気づかず笛の音の方に赴く北の方の後ろを慌ててついていく。

 しかし笛を奏でていたのは皆鶴が考えていた人物とは違った。

「お帰りあそばせ。もうお戻りになられていたのですね」

「うん。昨日見えられた月山の僧正殿から笛を頂いてな。久しぶりに吹いてみたのだが」

 何か問いた気な皆鶴の様子に気づき、

「この曲に聞き覚えがおありか?」

「九郎様が、鞍馬に居られたころよく吹いておられました」

「……たしかに、笛の手ほどきは九郎殿に受けた。この曲もそうじゃ。もっとも、それは源平の戦より前の話、九郎殿が鎌倉へ馳せ参じる前の話だが」

 そう言いながら、泰衡は内心安堵していた。矢張りこの娘の語っていた身上は高衡が言うように偽りではなかった、と。

「皆鶴、お前も何か楽はお出来かえ?」

 北の方の問いかけに、皆鶴は遠慮がちに、

「琵琶でしたら多少の心得はございますが」

「まあ! じゃあ是非聞かせておくれ」

「えっ?」

 お待ちください下手でございますと止めるのも聞かず、ちょっと待っていて頂戴今沙羅のところに借りに行くわ、と大喜びで出て行ってしまった。



「……お耳汚しでございました」

 泰衡との合奏を終え、うっとりと聴き入っていた北の方へ額付く皆鶴がふと顔を上げると、いつの間にか聴衆に国衡と忠衡、それに高衡が加わっていた。

「素敵ね。何という曲かえ?」

「『想夫恋』という曲にございます」

「良いね。鞍馬で覚えたのかい?」

 ニコニコ笑いながら忠衡が尋ねる。

「ええ。鞍馬では父法眼から弟子たちと同様に文武両道を叩きこまれました。もっとも、武に比べ文の方は御覧の通りからきしでございますが」

 恐縮する皆鶴に国衡が笑う。

「謙遜を。この国衡など妙なる雅楽に誘われ我知らず仙境に至る心地で此処まで連れ出されてしまったぞよ」

 呆れたように忠衡が肩を竦める。

「兄上はただ理由をつけて女子の部屋へ這入りたいだけでござろう」

「まあ、エッチだこと」

 兄弟や兄嫁たちが賑やかに皆鶴を囲む中、ただ一人腕を組んで押し黙っていた高衡が初めて口を開いた。

「……皆鶴殿。そなた、今文武両道とか申したな」

 兄弟たちが揃って高衡の方へ眼を向ける。

「はい。ですが只今申しました通り武に比べ文の方はからきしでございます」

「腕に覚えがおありか。ならば某とお手合わせ願いたい」

「おい、四郎」

 諌めようとする兄達を制し、

「兄上達も内心気になっていたであろう。其許の太刀、相当の業物のはず。伊達で鞍馬から携えてきたわけではあるまい」

「うむ……」

 沈黙する国衡を尻目に小さく溜息を吐きながら皆鶴が立ち上がる。

「無銘のなまくらにございますが」

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