第2章 蓮華の宴 2
二、
平泉の地に短い夏が訪れた。
この数日間、奥大道は毛越寺で催される大施餓鬼会に近隣、遠方から訪れる旅客の行列や牛車の車列に沸き返っていた。
当時の毛越寺は、その規模堂塔四十余宇、禅房五百余宇と伝えられ、壮大な伽藍は悉く金銀紫檀の煌びやかな細工で装飾されており、後の歴史書に「その荘厳さは吾朝無双」と称賛されるほど古今無双の大寺院であった。特にこの季節は大庭園の大泉ヶ池に咲き誇る蓮の花が美しい。
そして参集する客人の顔ぶれの何と多彩なことか。これでも平家の権勢盛んだったころに比べればずっと規模は小さくなったとは泰衡の謂いだが、近隣の諸司豪族に留まらず、都でも名の聞こえた名士がちらほら散見され、中には宋人の衣装を身に着けたものも見える。それにしても坊主の数の多いこと多いこと。勿論この日の為に他所から招かれた高僧も少なからず居るのだろうが、禅房五百余というのは伊達ではないらしい。
北の方と共に法要の場に列席した皆鶴はその余りに現世離れした光景に眩暈を覚えたほどだが、無理もない。彼女が生まれ育った京をはじめ、西国は未だ源平大合戦の爪痕も生々しく、仏閣は荒れ果てたまま放置され、都の貴族ですら邸宅の貴重な梅の大木や伝来の絵巻物を薪の代用としている有様。源氏の台頭により回復しつつあるものの未だに其処ら中で白昼堂々追剥や辻捕が横行しているという非常に治安の悪い状況なのだから。
この他にも、皆鶴がこの伽藍に来る途中、いつまでも果ての見えない土塀だと北の方の車の後ろを歩きながら訝しんでいた寺院は、宇治の平等院を模しながら本家よりも巨大で華麗荘厳といわれた無量光院。また、毛越寺に隣接する観自在王院の庭園は、文治二年に平泉を訪れた西行法師が、そのあまりの見事さに息を呑んだと伝えられている。
いずれの寺社も、もし皆鶴が今後立ち入る機会があれば、その煌びやかさにきっと卒倒しかねるほど驚愕することだろう。
「くどい様だが、坂東から訪れた客人は特に注意せよ。相手が貴賓であろうとも随行の者一人たりとも抜からず目を光らせておくのじゃ」
皆鶴の感動を他所に、饗宴の裏側では鎌倉方の間者を警戒する泰衡達が警護に当たる者達を指図していた。
「それにしても、父上が身罷られてまだ一年足らず。規模を抑えたとはいえ矢張り人の入りは多うございまするな」
普段と変わらず涼しそうな顔の割には暑い暑いと扇を使いながら忠衡が首筋の汗を拭う。
「御蔭で人手が幾らあっても足りぬ。しかし招待した客人よりも聊か頭数が多いような気がするが」
首を傾げながら国衡が参集者を見渡す。
「御館様、皆鶴殿の目付は如何なさるか?」
警護頭の由利八郎が指示を仰いだ。
「皆鶴殿は……」
「特に警戒せよ。八郎、おぬしが直接張り付いておれ」
一瞬言い淀んだ泰衡に代わり高衡が指示を下した。
「兄上、身共は兄上達ほどあの娘に気を許しておりませぬ」
険しい眼差しを泰衡に向けた。
仏事というよりも政としての遣り取りの色濃い泰衡ら平泉の高官や男客のいる本堂の施餓鬼会とは別に、女房らは女房らで少し離れた別堂にて来訪した京の公家の室達や女官らを迎え、故藤原基衡の室である於子弥尼を中心に法要が催されていた。
大勢の女房らを前に峻厳な面持ちで施餓鬼会を執り仕切る於子弥の傍らにはいつもの穏やかな表情を引き締めた現藤原家棟梁正室である北の方里御前が控えている。二人とも奥州言葉を改め、京の宮廷言葉を正確な抑揚で口にし、来客たちと談話する様は日頃ののほほんとした様子とはまるで別人のようだ。
藤原家客人待遇で座に加わっていた皆鶴は、普段慣れぬ正装の着心地に加え、女房達が各々の単衣に焚き染めた高価な香の芳しい匂いや耳慣れぬ異郷の言葉の騒めきに気が遠くなる思いで俯いていた。施餓鬼の読経の響きにさえ眩暈を覚えそうになる。
永遠のように長く感じた法要の次第が済むと、漸く厳かな表情を緩めた於子弥尼が来場者に労いの言葉を述べると、ほう、と皆鶴も息を吐く。その様子が可笑しかったか尼君の横で北の方がくすりと笑みを零す。
まもなく宴が催され、その支度のため雑仕女達が堂の周りを慌ただしく立ち回り始めた。
宴席で居心地の悪そうに客人たちを見回している皆鶴の様子に気づいた北の方が、ちらりと視線を向け、笑顔で小さく頷いて見せる。
ほっとした顔で深々と上座に低頭し、宴席を中座した皆鶴は堂の外に出た。
本堂の方ではまだ法要が続いているらしく、施餓鬼供養の読経の合唱がここまで聞こえてくる。
本堂には、この日の法要のため、幾百という近隣や京の貴人、仏僧達が集っていることだろう。多くは平泉、または藤原家と誼のある者、または誼を求める者。無論、昨年身罷った名君秀衡公を偲ぶ者も大勢いることだろう。
(或いは九郎様も、今日あそこに列席なさっているかもしれない)
お尋ね者の義経が、顔を知る者もいるかもしれぬ大勢の集まりにのこのこと出向くとは思えぬし、それ以前に泰衡達が見逃すはずがないが、しかし、確かめておきたい。
「どちらへ向かわれるのか?」
本堂へ足を向けようとする皆鶴の後ろから声を掛ける者がある。
振り向くと、この度の警護頭を務める由利八郎が隙の無い眼差しを向けていた。
「未だ本堂では法要が執り行われている。一通り供養が済むまで立ち入りは遠慮いただきたい」
「由利様。お願いがございます」
歩み寄ろうとする八郎よりも先に皆鶴が駆け寄った。
「門前からでもよいのです。本堂の法要を拝観させていただきたいのです」
思いもよらず詰め寄られ、たじろぐ八郎に皆鶴は頭を下げた。
「しかし、本堂は施要中女人禁足とされておるゆえ」
狼狽する八郎に、皆鶴は重ねて懇願した。
「お願いでございます。ほんの一寸の間だけでよいのです」
「ううむ」
良くも悪くも実直な武家の八郎は顔に汗を滲ませながら頭を掻いた。
「ん?」
大施餓鬼会の上座に列し、神妙な面持ちで読経に加わっていた忠衡が、おや、と顔を上げた。
見ると、本堂入口の端の方にちょこんと腰を下ろし、中の様子に吃驚した態で目を丸くしている女官装束の若い女房が目に留まった。その後ろの方では、困ったように眉を八の字にして立ち尽くしている八郎が見える。
(ああ、あれが件の皆鶴という娘か。 ……成程ね)
皆鶴がこの地を訪れた経緯は忠衡も聞き知っている。二人の様子から、大体の状況は察した。
色々と事情は耳にしていたものの、皆鶴と忠衡が直接顔を合わせる機会は今日までなかった。とはいえ、別段悪い印象を抱いていたわけではない。
(成程成程。道理で最近四郎奴が落ち着かぬわけだ)
年頃の青年が、突然自分の身近に現れた見目好い年上の女人に対しどう振舞ってよいかわからぬ心情というのは忠衡自身にも山神との馴れ初めで覚えがあるのでよく分かる。傍らを見ると、もう既に気づいていたらしく、今にも舌打ちが聞こえてきそうな気配の高衡がこれ以上ないほどのむっつりとした渋面を作っていた。可愛い奴めと内心クスクスと忍び笑いが浮かぶ。
いつも以上に厳めしい顔の泰衡もそれに気づき、ちらりと皆鶴達に目を向け、微かに眉を寄せたが、まあ、良いだろう、という様子ですぐに視線を戻した。
堂内の余りに眩く絢爛な装飾と、山のような施餓鬼の供物、そして居並ぶ公家貴公子や仏僧の人数に一瞬皆鶴は息を呑んだものの、すぐ我に返りきょろきょろと堂内を見回してみる。ふと皆鶴と目が合った忠衡がニコニコ笑いながら小さく手を振ってみせ、隣にいた高衡から咎めるように咳払いをされペロリと舌を出した。それを見た皆鶴はばつが悪そうに顔を伏せる。
結局、法要の場に義経の姿を見つけることはできなかった。
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